2004年2月 目次


人間の鎖                   大野 裕
本ができた                  佐藤真紀
心をとらえるもの               冨岡三智
音楽を身につける               三橋圭介
しもた屋之噺(26)             杉山洋一
あやうい時間―逆光の時            宮木朝子
ダチョウ・ステーキと帯状疱疹と猫の心労と   御喜美江
孤独(3)        スラチャイ・ジャンティマトン
一月の詩                   高橋悠治



人間の鎖   大野 裕




「人間の鎖」という言葉を最初に聞いたのがいつだったか、今となっては記憶が定かではありませんが、たしか1980年代の半ば、イギリスで空軍基地や核施設のまわりで数万人の住民が手をつなぎ人間の鎖を作ったという話でした。チェルノブイリの事故などであらためて明らかになった核の危険性や米レーガン政権のタカ派路線への危惧などが多くの人を動かしたのだと思います。これでミサイルが飛ばなくなるわけでもないよな、と少し斜に構えてその新聞記事を読んだ覚えがあります。

1月17日の土曜日、愛知県の航空自衛隊小牧基地前でイラク派兵の中止を求める「人間の鎖」が作られました。参加者は約1,400名。基地正門前に南北に1.5キロほどのつながりができました。あいにく雪のちらつく寒い日でしたが、つないだ手と手を通して、集まった人たちの熱い想いが感じられる時間でした。

私の右隣にいた女性は、杖で自分の体を支えつつ、黙って手をつないでいました。幼いころ戦争を経験した世代だったのかもしれません。左隣の男性はやたら元気で、率先してシュプレヒコールをやっていました。ハンドマイク無しなのに周りの人たちがしっかり応じるほどの力強い声です。たぶん、ベトナム反戦運動とかをやっていた人でしょう。私は大学に勤めているのですが、私に気づいた学生たちから声をかけられました。私よりも若い彼らや彼女たちは、私よりももっと身に迫る危険を感じているのかもしれません。

集まった人たちの考え方やスタイルもさまざまです。たぶん、方針やら何やらをとことん議論し始めたら、てんでまとまらないでしょう。しかし、一人の参加者として、自分の周りの人たちにそのような多様さがあることは、むしろ安心できる要素でした。ばらばらに社会の中に放り出されている人たちが何か一つ共通した点を見つけてここに集まっているということの力強さを感じます。同時に、この場にいない人、この鎖につながっていない多くの人の中にも、何か連帯できる点を持っている人たちがたくさん存在することに想いはふくらみます。

1,400人という参加者数は幻想をいだかせるには少なすぎるけれど、着実な数字だと思いました。デモや人間の鎖だけで派兵が止められると考えて参加した人はいないでしょう。政府に私たちの声を届けようなどと言っても、1,400人では見て見ぬふりをすることは簡単です。では、なぜ私たちはそこに来たのか。私自身の答えは、そこにいない人たちに私たちのことを見てもらうため、私たちの声を聞いてもらうため、でした。今まで平和のことや憲法のことを考えることのなかった人たちに考えるきっかけを持ってもらえるかもしれない。もう決まったことだとあきらめている人たちにもう一度立ち上がってもらえるかもしれない。世の中の動きをあぶないと思いながらも声を出すのを恥ずかしがっている多くの人たち、その中の何人かの背中を押すことができるかもしれない。そう考えて、私は人間の鎖に加わりました。

イラク派兵は、戦争によって傷つき、傷つけてしまったことから学んだ教訓が忘れられていく(あるいは意図的に消し去られていく)流れの中の一つの大きな滝だと思います。これから先にも、いくつもの滝が待ち受けています。流れに揉まれながら、どこまで耐えられるのか。あと何人いれば、合わせた力で踏みとどまれるのか。1月17日の人間の鎖は、輸送機が飛び立とうとする小牧基地を封鎖するためだけのものではなく、濁流に押し流されそうになっている私たち、私たちの国、私たちの世界を繋ぎとめる命綱でもあったのではないでしょうか。

これからも、何本もの人間の鎖が必要となり、作られていくでしょう。その時、つながった手と手の先にあなたがいることが感じられる。その考えはそのまま私の勇気となります。




本ができた  佐藤真紀




「イラクの子どもの描いた絵を貸してください」
そのような注文は、たくさんあった。
白血病の女の子、ラナちゃんが描いてくれた絵は、いつの間にかどこかに消えてしまった。
「そういうこともあって貸し出すのはやめているんですよ」
詩に合う絵を探しているというのだ。

  なくぞ
  ぼくなくぞ
  今は笑ってたってすぐなくぞ
  いやなことがあったらすぐなくぞ
  ぼくがなけば日本なんてなみだでしずむ
  ……

谷川俊太郎氏がずいぶん前に書いた詩だというが、実に世相を反映している。
ブッシュ大統領が世界を脅しているように読み取れるのだ。

  いますぐなくぞ
  ないてうちゅうをぶっとばす

「イラクの子どもたちに詩を読み聞かせて絵を描いてもらいましょう」
そういうわけで、昨年の7月にイラクの子どもたちに絵を描いてもらった。
出版社の要求は、厳しかった。「ラクガキのようなものじゃ困ります。ちゃんとした色のついた絵をお願いします」
「戦争の状況がよくわかる絵をお願いします」

怪我をしたり、家族を失った子どもたちは、色とりどりの絵を描いた。現実から逃避して、どんどん絵の世界に入っていく。ムスタファ君は、疎開先で空爆にあい、横にいたおじさんは即死、左足は弾丸の破片が貫通し、なんども手術を受けているが、足は治らない。ムスタファ君の絵は「水辺のブランコ」。水彩絵の具をうまく操って描いてくれた。固唾を呑みながら見守る私たち。天才少年ムスタファ君の誕生だ。

その後ムスタファ君はまた手術をした。手術という言葉を聴いただけで泣き出してしまう。何度も何度も足を開いては消毒をする。いっそ切り落としてしまったほうがどれほど楽だろう。もう、ムスタファ君は苦痛で絵も描かなくなってしまった。

まもなく、子どもたちの絵が本としてまとめられる。

昨年の暮れ。
家で仕事をしていると、新聞社から電話が入る。
「見つかりましたよ」「サダムフセインが穴の中にいましたよ。コメントを下さい」

数日たって事務所から連絡があった。
「見つかりましたよ」
今度は大量破壊兵器?
「違いますよ。絵が見つかったのですよ」
大掃除をしているとキャビネの隙間から白血病の女の子、ラナちゃんが描いてくれた絵が発見されたというのだ。いくら探しても見つからなかった絵が出てきた。

私は、当時TV局の人を疑っていた。電話で問い合わせたところ「返しましたよ」という。しかしそれでも疑っていた。鉛筆で描いたラクガキのような絵だ。そのまま間違ってゴミ箱に捨てられたってわかりゃしない。

結局壁にはってあったのが落ちてそのままキャビネの裏に挟まっていたというのだ。
あわてて、事務所に駆けつける。
「本物だ」
この絵を描いてくれたラナちゃんは既になくなっていた。それでもこの力強い線は生きている。
まもなく始まろうとしている展覧会に間に合うようにラナちゃんの絵は出てきてくれたのだろう。

「イラク戦争とこどもたち 子どもたちの展覧会」
東京・表参道のクレヨン・ハウスで2月1日から2月29日まで(11時〜19時)



心をとらえるもの  冨岡三智




パフォーマンスというのは観客の存在、つまり見られることが前提になっている。そしてパフォーマーは見せるに値するものを生み出そうとする。だが見るに値するものというのは、見せるに値するものの中にのみあるのだろうか?

パフォーマーに見せようとする意思があるのかないのか分からない、こちらが見ていることなどもまるで意に介していないようだが、だが人を魅入らせてしまう何かがある……。そんなパフォーマンスもあるのだとなぜか私は昔から確信していた。ジャワ舞踊を始めた頃からこれはそんな舞踊なのだという直感があって、ただそこに在るというような舞踊ができたらなあと思っていた。だがこういうことを人に話しても、怪訝な顔をされるのだった。

     ●

水牛の2003年3月号、4月号で私は留学の最後で経験した公演について書いた。この公演で私は男性4人、女性4人が出演する作品に出ていた。女性4人のうち、私以外は芸大の先生達である。このとき共演の先生達(女性)は私に、細部の動きやサンプール(腰に巻く布)を払うタイミングをもっと皆に合わせるようにと何度も言った。それは振付家が要求する以上であった。

芸大では普段から共演者のタイミングや動きの細部を揃えることをやかましく言い、それは女性舞踊の群舞(スリンピやブドヨ)に顕著だった。実のところ私は芸大のその方針には賛成しかねた。もちろん芸大が世界的に有名になったのは、本来は宮廷舞踊であったものを質的に転換していくことができたからだ。群舞で一糸乱れず動きを揃えるというのは舞台芸術としてのあり方を追究していった結果に思われる。先生達にとってそれはあまりに当然のことだったが、この公演ではそれを目指しているわけではないと私は解釈していた。

そうは思うものの、一緒に踊るとなるとやはり共演者からの言葉は気になる。リハーサルの時に私は振付家、P先生(私の男性舞踊の師)とS氏(この公演に出演する踊り手)に一人ずつ、どうなのかと聞いてみた。3人が3人とも「合わせる必要はない!」と断言した。

     ●

それから半年後の昨年7−9月、私はインドネシアに行った。調査研究のためだったが、この機会にその公演の私の舞踊について批評やアドバイスをもらいたいと思っていた。公演が終わって2週間足らずで私は留学を終えて帰国したので、当時はそんなことをする時間的余裕も精神的余裕もなかった。日本に帰って半年経ち、ようやく私はこの公演のことを客観的に見られるようになっていた。

まずS氏にコメントをもらいに行った。S氏はテクニック面や表現面で多くのアドバイスをしてくれたが、人に見せようとする意識がなかった点で私が一番良かった、それがジャワ舞踊にとっては一番大切なことなのだ、と言った。こんなことを言ってくれた人は今までにいなかった。その後私はP先生に会い、S氏と同じようなことを言われ、また他にも何人にも聞いて廻った。

もう一人、私はサルドノ氏にもコメントをもらいたかった。あの試験公演の主査だったからだ。氏は現存の人の中で多分一番古くからクスモケソウォに師事している。クスモケソウォは私の研究テーマの中で中心的な人物だ。その話を聞くためにもサルドノ氏には会いたかった。サルドノ氏もS氏やP先生と同様のことを言ったものの、「だが、これは試験公演だという緊張がまだ少し残っていた。それも全く抜けてしまったら、もっと踊りは良くなるだろう。」とつけ加えた。さすが主査は厳しく見ているという気がした。続けてサルドノ氏はクスモケソウォの教えについて語った。

ジャワ舞踊では踊っている間に瞑想のような精神状態に、さらにはほとんど眠っているような状態に入るのが理想である。誰かに見せようという意識もなく、すでに自分が踊っているという意識すら消え失せている。どこにも力が入っていない。パッ・ムングン(クスモケソウォのこと)の舞踊はそんな舞踊だった。それは見たことがある人でないと分からない。説明のしようがないのだ。人に見せる意識のない舞踊は、人の目を魅きつけようとするどんなパフォーマンスよりも、かえって見る者の心をとらえる。ジャワ舞踊は精神的な舞踊だからと言って、我々はお香を焚いたりろうそくの火を使ったりして演出する。しかし、たとえば白昼の市場で誰かがいきなり踊りだしたとしたら、しかもその人が全く人に見られることを意識していないとしたら、それはお香などで演出されたパフォーマンスよりもずっと我々の眼をとらえるのではないか? 君はそういう舞踊を一人で探ってみなさい……。

その話の最中にサルドノ氏はしばしば立ち上がり、パッ・ムングンの動きはとにかく独特で自分ではうまく再現できないが、と言ってやって見せてくれた。その動きは全く普通のジャワ舞踊ではなかった。こんな動きがかつてあったのか、ジャワ舞踊の奥にはこんな世界があったのかと鳥肌が立った。S氏の舞踊を見た時にも私は呆然虚脱していた(らしい)が、サルドノ氏はS氏よりほぼ一世代上であって、より古さを感じさせた。いま眼前に繰り広げられている動きは決して見て美しいわけでなく、また型が決まっているとも言えず、半分眠りながら揺れているだけのような動きだったが、何か恐ろしいものを見た時のように私は目が離せなかった。

氏の言葉を胸に刻みながら、しかし最後に一人で探れと言われてがっくりきた。S氏にも一人で探求してみろと言われていたのだ。人に見られていることを意識しない舞踊を追究するというのは矛盾している。一体どうやって追究していけば良いのか、それはまだよく分からなかった。だが、私がうまく言葉に表せないでいた「ただそこに在るという舞踊」がどういうものか、それはおぼろげながら見えてきた気がする。2人は私のやりたい方向がそこにあると見抜いて、公案を与えてくれた。今まで辿ってきた道に続く、その行く先を指差してくれた人がいることを私は嬉しく思った。

最後に私は再びP先生を訪れた。P先生は自分より上の世代のS氏やサルドノ氏の話を興味深げに聞いてくれた。そして、芸大は芸術のあり方を近代化した、それがなければジャワ舞踊は今に残らなかっただろう、だがその過程でひきかえに失ったものも確かにあるのだ、と言ったのだった。

こんな風に多くの人を訪ねてアドバイスを受けながら、善哉童子の旅はこんなものだったのかなあという思いが頭をよぎっていた。




音楽を身につける  三橋圭介




インドネシアの人々は小さい頃から、共同体に基づく生活のなかでガムランに親しみ、音楽を自然に身につけていく。だが、これは昔の話だ。今は一部の地域でこうした文化の伝達は生きているのかもしれない。だが、植民地による近代化により生活は変わり、それと共に音楽の伝達方法も変わってしまった。現在、ガムランのような伝統文化の受け渡しは、都市部では音楽学校など近代化した教育システムに支えられている。それによって個人の技術や一糸乱れぬ合奏の技術も飛躍的に向上した。だが向上した反面、失われたものもある。たとえば、即興的に音に合わせていく柔軟性は衰えた。

ヨーロッパの西洋音楽はどうか。西洋音楽もインドネシアのガムラン同様、伝統音楽のひとつであり、ヨーロッパという場所と空間のなかで生まれ、インドネシアとは違った形で育まれてきた。だが、ガムラン同様、西洋音楽の世界でも多くのものが失われてしまった。ガムラン音楽の場合、民族音楽学や文化人類学が失われた過去をさまざまな形で「保存」し、「文化を書く」という行為が行われてきた。クラシックに関しては、作曲学的な研究はあるものの、鳴り響く音それ自体については印象批評や演奏(様式)批評による記述が残されているに留まっている。

われわれがきくことができるクラシック音楽の記録は、録音メディアとの関わりから、おおよそ20世紀初頭までさかのぼることができる。もちろん、SPやレコード、CDで録音が残されている演奏家は当時の選ばれた人で、当時の全体像を概観することは不可能だ。だが、限られた情報でも今ではほとんど現存しない音楽文化のあり方を知ることができる。

たとえば、先月「失われた耳の感覚」で書いたヴァイオリンのイントネーションもそうだし、「バックハウスのブラームス」や「ジョージ・コープランドのドビュッシー」、「コープランド、バルビエからコーエン」で書いたベルクマイスター風のピアノの調律から生まれる音楽、また、「コルトーのシューマン」の独立したリズムの扱いやフレーズの円運動もそうだ。

そうした演奏をきいて感じるのは、イントネーションや調律(音律)に基づく響きの作り方、解釈以前のフレーズの扱い(見方を変えれば「崩し方」)など、伝統文化として身につけたものから自分なりの音楽を作り上げており、現代のように他人と違ったことを意識的にやるような、「新しさ」を目指すことはなかった。それでもかれらの個性ははっきりとわかるが、個性よりまず音楽がきこえてくる。

いま「音楽を身につける」ことは難しい。ガムランやピアノのように、音量と速度をもたらす指や腕の技術は時間をかければ習得することはできる。いまはびこっているのは楽譜を再現することの現象学的な態度であり、簡単に言うなら、楽譜の再現という現象を手がかりとする直感的態度だろう。それはおおむね空虚な知的な構築物となっている。こうした状況は第二次大戦以降はじまった。破壊と共に文化的エートスは失われ、廃虚に漂うニヒルな煙がいまも充満している。



しもた屋之噺(26)  杉山洋一




こう書くのも妙な気がしますが、ミラノに住むまで、この街の印象は大層悪いものでした。それまで、イタリア人の友達から聞き齧っていたミラノという街は、人も冷たく、寒々として街並みもさえない、北の街に過ぎなかったのです。
今朝ミラノへ向かうすし詰めの列車の中で、そんな忘却の彼方にかすかに浮かんでいた思いが脳裏をかすめたのでした。今でこそ、ミラノ中央駅には愛着と思い出がつまっていて、遠路から列車がこの駅舎に滑り込む瞬間、いつも深い感動に胸がしめつけられます。

ムッソリーニ好みの古い駅舎全体に充満する、くすんだ匂いと彩りこそ、今勉強しているダルラピッコラの譜面と正格に合致する気がします。ツェルボーニ社の古めかしい版で出版されている「サッフォーの五つの断章」は、ヘブライ人だったダルラピッコラが、ファシスト党から身を隠して暮らした、大戦中の暗い毎日が影を落としていると言われます。ヨーロッパ文化の孤島で息をひそめていた、若い作曲家の楽譜に塗り込められた思いは、駅舎が吸い込んだ煤の色と相まって、鈍く乾いた響きを発します。レスピーギの絢爛たる音響と対を成すのは、ファシズムのきざはしから高らかにスペクタクルを描いた作曲家と、大衆のざわめきの中、手探りで12音をまさぐっていた、真摯な作家の滋味との距離に相当するものかと思われます。

様々な楽譜を眺めながら思うのは、作曲家や演奏家にとって完全な音楽など存在しないのと同じように、完全な楽譜など存在しないということです。作曲家の死後、楽譜は作曲家と演奏家を交感させる唯一の手段となって、神格化されるきらいがあるのが興味深いところで、先日、ポルトガルで全曲演奏するドナトーニのリフレイン・シリーズの曲間をどう繋ぐか、出版社と随分やり取りをした際も、最後にリコルディ社のMが書き送ってきたのは、「フランコ・ドナトーニが書き残した内容に、我々が一切変更を加えることは許されない」というメッセージでした。今から6年以上前、同じMから頼まれて、まだ存命だったフランコの断筆作品を加筆更訂した時とは明らかに違う頑な姿勢に軽い戸惑いも覚えつつ、彼らがこうして継承してきた伝統への誇りといじらしさを垣間見た気がしました。

世界中の経典が、何世紀もの時間と無数の人の手を借りて完成の試みがなされながら、結局どれも成功していないのと同じように、偉大であればあるほど、音楽でもそれと似た部分が浮彫りになるのかも知れません。バッハの音楽は偉大で完全かも知れないけれど、そこには実はブラックホールがぽっかり口を開けていて、全く別の世界にさらわれてしまうように思うことがあります。或るとき道を歩いていて、ふと、「シャコンヌ」のニ長調に転調する部分が鮮やかに甦ったかと思うと、自分の身体が突然少し宙に浮き、そのまま滑らかに進んでゆくのが分かりました。「天使だ」、自分の裡の誰かが、ショックの余り声を上げました。

年末、東京に戻ると、作曲家団体から小冊子が届いていて、中堅と若手作曲家たちの座談会の模様が綴られていました。「我々日本の作曲家は70万円も出してオーケストラ曲を書き、チケット販売まで強いられて、少ない練習にも耐えながら必死に作品を発表している。ヨーロッパの作曲家は、委嘱料をシコタマ貰いながら、面白くもない曲を書いて、その上丁寧な練習に預かれるなんて、甘やかされている」。
日本の進学塾では、中学生の頭に緑色の長い鉢巻を巻き、気合を入れて勉強させている、テレビがそう報じていたのを、ぼんやり思い出しました。

(1月17日モンツァにて)



あやうい時間―逆光の時   宮木朝子




1月の中頃、体調を崩した。

一晩中、胃が逆さまになるかのように震え続け、胃液をもどしても尚、おさまらない。高熱もともに訪れた。断続的に襲ってくる吐き気と戦いながら、消耗してくる体力と震えが止まらないほどの寒気のために、なんとか眠ろうと試みる。幼い頃、よく高熱を出しては悪夢にうなされ、それはたいてい重金属の錆びた歯車が轟音をたてながら視界いっぱいに広がったり、光る目をしたバレリーナが暗い丘の道を旋回しながら近付いてきて、その目から放たれる光の線に照らされた人々が次々と倒れてゆく、というものだったり、した。もう大人になってからはうなされることも少なくなったのだが、今回は違った。

幾重にも重なり、多重露光されたようなモノクロの光景が立て続けにいれかわり、それはしばしば漆黒の海の光景となった。同時に、デトロイト・テクノ風のブラックなビートとメロディーがループして聴こえてきて、断ち切りたくても、再び聴こえてきて、逃れられない。吐き気が不安を駆り立て、呼吸を数えはじめると、途方もない夜の長さを感じる。苦しさのあまり気付いたら、自分のうわごとが聴こえた。身体が分裂したかのように、不思議な感覚。声を出すとその瞬間すうっと浮遊感にすくいとられて、苦しみから解放されるのがわかり、自然にそれは節となった。呼吸に限り無く近い、メロディー。歌とも呼べない浮かんでは途切れる節は、自分にしか聴こえないほど小さなものだった。そのとき「歌わされている」のを感じた。口から迷わずこぼれだす歌は、肉体の苦痛を和らげるとても優しい呼吸のようだった。

翌日点滴を受けながら、身体が異常を起こしたときに起きる様々な感覚の記憶を辿っていた。自動的に頭の中で鳴り出して止まらない暴力的なエレクトロサウンドのループを断ち切るのは拷問に近い戦いだったこと、目をつむるとより鮮明に、高密度に畳みかけてくる映像は、記憶が逆流して暴走しているかのような印象だったこと、それに抗う呼吸が、なにものかによって歌わされているような、無意識のメロディーとなってゆくこと。。インフルエンザではなく、疲労と風邪が原因の胃炎だったのだが、奄美から戻って断続的に続いていた、リアルな記憶の夢と、日中の空洞感が微妙な助走となっているようで、どことなくつながりを感じていた。

田中一村の描いた奄美の杜。逆光の海辺にたたずむアダンの木と、黄金色にきりたつ雲と空。50歳のときにすべてを捨てて、異郷だった奄美に単身やってきた一村は、紬染色工として生計を立て、19年間、奄美の自然を描き続け、個展を目前とした69歳の時たった独りで死を迎えた。一村の描いた蝶や植物や極彩色の魚、海、アダンやソテツの樹は、実際の光景のとおりに並んではいない。心象風景として、選びとられていたという。夕方から夜にかけてや、夜から明け方にかけてなどの、光と闇のうつりかわる僅かな瞬間を、島の人々は「あやうい時間」と呼ぶのだそうだ。うつろう時の微妙な、色彩を失ったモノクロと逆光のなかの存在が、時間が宙吊りにされたような「あやうい」空気を醸し出している一村の絵を、見つめる。かたわらには、奄美で拾い集めたサンゴ。自分はもちかえってはいけないものをもちかえってきて、それを呼び戻そうとする海の声が夢に現われるのか。そして心にあいた空洞はサンゴの空洞とつながっているのだろうか。



ダチョウ・ステーキと帯状疱疹と猫の心労と   御喜美江




一月というのは31日あるのに、なぜか毎年短く感じる。それというのも元旦からの5、6日はいつも怠惰に暮らし、外は寒いから家の中で昼間からテレビを見たり、本を読んだり、疲れてもいないのに昼寝までして、頭の中がぼ〜っとしているせいかもしれない。半冬眠の影響が一月という月を短縮するようだ。

ところで父の一周忌に追悼の本を出す計画があり、9月に帰国したとき家族とその打ち合わせがあった。この計画に私は大賛成だった。しかしどうも昔から自分にはすぐ調子に乗る悪い癖があって、小さい頃は兄からよく“美江、あんまり調子に乗るな!”と注意されたものだが、ここでもすぐに身を乗り出して参加、「CDも作ろうよ、パパの声を入れたり、パパの好きだった曲をいれたりしてさ〜。本の終わりに何気なく一枚のCDが入っているの、いいと思うよー。ゲオルクと美江がマスターテープまで作るから。大丈夫、まかせておいて!」なんて言っちゃったため、今回はその制作に大学の休暇全部を費やし、決して怠惰ではなかった。これは全くプライベートなヴィデオ録画からの音なので、これ! と思うものを探すのは非常に大変だった。
あっ、これはちょっといいな〜と思うと突然げっぷが入ったり、結構ちゃんとした父の挨拶のバックに「あ〜あ、またまたご・あ・い・さ・つー」なんて悪口が入っていたり。
とくに多かった父の声、
「おい、早く早く!」(せっかちに)
「ママ!」「おい、ママ!!」(すごい大声)
「ゲオルクーチャン! ゲオルクちゃんはおりこうさんですねー」(ゲオルクとは猫か犬みたい。いわゆる猫なで声)
「またおしっこ!? お前は犬みたいだな。行く先々で小便して」
という具合で、CDに入れられるような会話はほとんどなく、それ以上に、家族というのはいかに皆勝手なことを喋っているのか、これでよくわかった。結局40分くらいの短いCDにしかならなかったけど、とにかく完成、やれやれ! 編集で疲れ果てた夫と新作のCDを聞きながら、慰労会と称して赤ワインで乾杯をした。「本の付録のCDだもんね、これでいいにしましょ」と。ちなみにこのCDのタイトルは“声”。 印刷屋は短すぎるって言ったけど、実際短いんだから仕方ない。

このCDを作成している約10日間、右太腿に赤い湿疹が出て、これがまるで火傷みたいにヒリヒリして痛かった。湿疹が出る前夜、生まれて初めてダチョウのステーキを食べたが、これが本当にまずくて、荒い筋肉繊維も口の中で実に気味悪く、色もごってり濁った茶色……、でもご招待だったので残すのも悪いと思って無理して食べた。あいにくこの日は車の運転だったのでアルコール消毒も出来ず、とにかく精神力のみで耐えに耐えた。多分このストレスによるアレルギーだろうと勝手に解釈し、痛み止めを服用して様子をみていたら、後になって帯状疱疹であったことが解った。数年前、お腹に帯状疱疹が出て、2、3週間死ぬほどつらい目にあった母に電話で報告すると「まあ、そう! 雅子様もそうよ。彼女の場合はご心労だけど」と。まるで私には心労がないみたい。

帯状疱疹が峠をこえ痛みもやわらいできた頃、雄猫カーターの本宅から飼い主がやってきた。「もう5日間も帰ってこないので探しているんですけど……」と。もちろんカーターは我家にいる。「とうとうこの日がきてしまった〜」と覚悟を決め、カーターを居間から抱いてきて飼い主に渡す。カーターは静かにじっとされるままに、でも頭を垂れてちょっと複雑な表情。
別宅「ドアの外でニャ―ニャ―なくでしょう、寒いからどうしても入れちゃうんです」
本宅「うちじゃ全然ニャ―ニャ―なんてないてくれない」
別宅「でも本当に可愛い猫ですね」
本宅(カーターを撫でながら)「そう、優しい性格の賢い猫。でもすぐ外出しちゃうの」
別宅「我家だったらいつでもいらしてくださいね」
本宅「ありがとう。じゃあ!」
それで2人は帰って行ったが、居間のソファにドカンと座り込んだ瞬間、疲れがどっと出た。あぁ、しんど。これが心労でなくてなんであろう。

それから2時間後、どこかでニャ―ニャ―なく声がする。気のせいかと思ったが、でも玄関のドアを開けると、カーターがまるで矢の如く飛び込んできた。どうやって逃げてきたのだろう。かなり興奮しながらゴロゴロと大きな歓声をあげている。するとまた玄関へ戻り「開けてチョーダイ」と大きな目で合図するのでドアを開けたら、走って階段を降りて行った。おかしなカーター!

すると1時間ほどしてまたニャ―ニャ―。ドアを開けるとそこにカーターはきちんとお座りをしている。でも入ってこない。「どうしたの?寒いから早く入って」と言っても大きな目でじ〜っと私を見つめるだけ。と彼の足元に3センチくらいのちーっちゃなネズミが小魚みたいに横たわっている。「まあ、カーター君!」と思わず大きな声で叫ぶと、そのびっくり仰天した様子に満足して、やっと家の中へ入ってきた。こんな真っ暗で厳寒のなか不器用なカーターがよくぞネズミを捉えたと、胸が熱くなった。

本宅に一旦は帰されたが、別宅恋しさに脱出を試み、何とか成功はしたものの、「しかしこのままでは……」と心を痛め、その小さな頭で一所懸命考え、やがて「そうだ、ネズミにしよう!」と暗い林の中に身を潜め、目を皿のようにしてネズミを探し出し、捉えた。多分何度か失敗しながら。

この真心こもった土産を私達に献上した彼としては、これが晴れたる無事帰還で、もう二度と本宅に強制送還なんかされないだろうと思ったかもしれない。猫といえども人間以上の心使い、さらには心労があると痛感し、このストレスで帯状疱疹になりませんようにと祈りながらツナ缶を開けてあげた。

(2004年1月24日ラントグラ―フにて)

  



孤独(3)  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳




ラジオの歌声が静けさを破るように寂寥感の中に闖入してくると、彼は突き出した顔をしきりとこすって言った。
「田舎が懐かしいなぁ。ぼくは子どものころのことがいまだに忘れられないんだ」
「俺もだ。あんな風なままでいられたらなぁ」と、大きい方。それから2人は互いの視線を合わせた。掛け時計が休みなく正確にリズムを刻む音がしている。少年は熟練した手つきで料理を運んでいる。バスが片側に緑色の塀が続く道路を走り去って行った。夕方ともなると人びとは誰も彼もひたすら家路を急いでいる。店の前では靴修理屋が小さな柄の金づちを振り上げて釘を打とうとしているところだ。靴の持ち主がその前に立ってじりじりして待っている。

大学から学生たちがぞろぞろ出てきた。大きな紙を筒状に巻いたものを抱えている者もいれば絵の具箱を抱えている者もいる。何冊もの本をだらしなく抱えていて見苦しいのもいる。時計を見ると4時をまわっている。日差しが傾きはじめると涼風がそよよと店内にまで入ってくるようになった。

大きい方は最後の1本の煙を深く吸い込むと、見るともなくぼんやりと外を見やった。小柄な方は靴の底でタバコの火を消すとそのまま俯いてセメントの床を見つめていた。

「空がようやくぼくら好みの鮮明さになってきたな。朝の空はぼくらにとっちゃ濁っているもんな」と、大きい方の男は飲み仲間といるときのセリフをつぶやいた。
「酒の匂いが漂ってきた。ぞくぞくしちゃうよな」
「けど今夜は断酒するしかないぞ。銭がないもんな」
「なんでぼくら、年がら年中貧乏なんだろうな」と、小柄な男は声を震わせる。
「食うものもあったりなかったり。そのくせ金が入るとすぐ酒を飲んじゃう」と、こんどは腹立たしげにテーブルを叩いた。

大きい方の男は何も言わず相変らずひげを撫ででいる。それからタバコの煙を続けて強く吐き出した。小さい方は俯いたまま穴のあいてしまったズック靴を見つめていた。

店内は次第に客がふえてあちこちから楽しげに笑う声が聞こえてくる。酒を注文してもうすっかり盛り上がっているところもある。大柄な男はひげをなでる手を止め酒を横目で見やると苦しげに唾を飲み込んだ。小柄な男はくるくるカールした髪に手をやり2、3回掻いがやはりじっと俯いたままだった。それまでのつらい過去をじっと思い起こしていたのだった。ふと顔を手で撫でたがまだひたすら耐えているように黙していた。そして、やがて、涙が両眼から流れ出ているのだった。。。

「姉さん、あの人また泣いてるよぉ」
少年はひそひそと姉に告げた。若い女は2人の方にちらっと視線を向けただけですぐまた仕事を続けた。

(完)

* * * * *

ワーウェー(孤独)
この作品はスラチャイが東北の田舎から上京してきて3、4年でまだ19歳のときのものです。もうひとりの少し大柄な男はたぶん、いとこのサティアン・ジャンティマトンだろうと思われます。彼はこのいとこの紹介で当時のルンマイ(新世代)と呼ばれた作家たちのグループと親しくなり、上京早々からこのような短編を書いて雑誌に送って自活していました。大きな紙とか絵の具箱を抱えた学生が出てきますが、学費が払えず美術学校を中退したばかりのころで、画学生を見つめる彼の複雑な気持ちが察せられる場面です。

彼の作品ではワーウェーということばがよく登場します。この作品が初期のものの中でも有名です。スラチャイと話していて、自分は「ワーウェーだ」、というのをたびたび聞いています。辞書だと孤独とか寂しいとかしか書いてないのですが、実際彼の使い方を聞いたり読んだりしていると、孤独である、というほか、疎外感とか寂寥とか空虚などいろいろなニュアンスに使っているように思えます。

若いころはこの作品のようにバンコクという大都会での疎外感が大きいのですが、30代のころは、いくら埋めても埋めてもこころがワーウェーだ、と言っていましたっけ。ちなみにこの短編の原題は『コン・ワーウェー』(ワーウェーな人)。19歳のときも50歳のときも一膳飯屋で飲み物もあるようなバンコクの大衆食堂の片隅に何時間も坐っていて、そこが自分の家じゃないかしらん、なんて感じているところはちっとも変わっていないのですねぇ、スラチャイさん。

(荘司和子)



一月の詩  高橋悠治




 そして一月は かみのやま まぎれ野
   木村迪夫さんをたずねた
  この前から二十年
    近所にひっこしてきた小川紳介さんも死んで
     小川プロも もうないマギノ村
   それは
           ゆき 舞い
         ゆき 落ちる
           朝だった
         炬燵にあたって みちおさんの 詩の朗読をきいた
            祖母おはんさんが蚕小屋で ひとりくちずさんだうた
       水牛楽団の頃 ふしつけてうたったのを思いだす
            ふたりのこどもをくににあげ
 のこりしかぞくはなきぐらし
   にほんのひのまる
       なだてあかい
   かえらぬ
おらがむすこの ちであかい

  五度も召集令状がきて
           最期は
 戦争も終わったのに
大陸のどこかにおきざりにされて死んだ 父
   母は
           ほとけさまに申しわけございませんが
 ないてばかりいたんでは
子供をそだて上げることはできないことです

   いたいからだではたらいて
    このうづたてねでおられよか
           朝三時から夜十時まではたらいて はたらいて
       最期まで からむしの杖にすがり
 見えない眼でくさむしりをつづけた
        おみねちゃあん
      そのいえに
はたらくためにもらわれてきたようなものだった
            という
         しげ子さん
 女は強い
        ぐちってばっかりいだて しょうがないべ
            顔色一つ変えぬ女のしょう
こうしてついだ女三代のいえ
    そのいえ そのむら世から世界をながめる
  みちおさんの詩をききながら
    おもてを走りすぎるダンプのあいまに
           雪の 霧の きこえない音楽
    提灯かかげ 鉦たたき 鈴振りねりあるく
  女たちの御詠歌のふしで
         そっとうたわれる祖母のうた
     万年筆の先から流れだす村の年代記
      おががあ おががあ
        けっしてしなねえぞ
   しんだらまよわせっがら
     まぎれ野を いまなおさまよう声
   こうして
    病気してから一年
         とだえていた音楽がよみがえってきた

[太字は木村迪夫さんの詩の引用]
(木村さんの自作朗読CDは今年水牛レーベルで出す予定)



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