2004年8月 目次


ハーメルンの笛吹き                三橋圭介
一瞬だけの瞬間移動のような            武石 藍
しもた屋之噺(32)               杉山洋一
路傍の放浪者(1)      スラチャイ・ジャンティマトン
循環だより7月                  小泉英政
土曜日のぎっくり腰                御喜美江
ねこのこと                    佐藤真紀
あの頃のこと                   高橋悠治



ハーメルンの笛吹き  三橋圭介




最近、オーケストラをきく機会があった。そのときのことは生涯忘れられないだろう。音楽に感動したからではない。批評家がコンサートにいくと、2階の一番前の席が与えられる。いつものようにその席にすわった。曲がはじまってどうしようもない恐怖を味わった。すこし前からそうした兆候はあったが、このときは飛び降りてしまうのではないかと、腕をひじ掛けに押しつけてこらえたが、こらえればこらえるほど、落ちていく恐怖が増していく。高所恐怖症ではけっしてない。たった7分の音が死ぬほど怖かった。

音楽にはいろいろなきき方があるが、おおまかにいえば2つある。ひとつは音のつかい方や響きや音色、構成などをきくやり方。これは意識は音楽にのめり込んでいない。どこか醒めてきいている。もうひとつは大きな時間の流れに乗ってきくやり方。最近、これとは別のきき方をすこしためしている。

クライスラーのヴァイオリンをきいてみる。かれの録音はすべてモノラルなのでステレオ的な効果はいっさいない。だが出てくる音に注意を向けるのではなく、きいた音に注意を向けると、頭のなかで音が動いているのをはっきり感じることができる(簡単なやり方は目をつむって音の動きを感じる)。これは視覚的なアナロジーかもしれないが、音は右も左もばらばらに頭のなかで動いているのがわかる(たとえば、右が高音、左が低音[その逆も]というようなステレオ効果とはちがう)。

このきき方をいろいろと試してみたが、現象としてそうした音の移動が感じられるのは、12等分平均律から外れていればいるほどはっきり感じることができる。イントネーションのよいクライスラーはもちろんだが、ヴェルクマイスター風のピアノを使っているバックハウス、ホルショフスキー(ほかにもたくさんいる)、さらにはガムランなどの伝統音楽の場合はその音の移動はめまぐるしい(きき方のコツを覚えるとステレオ録音でも音の移動がわかる)。一方、12等分平均律の場合はなぜか音の移動はちいさく、中心に集まっている。どうしてこういう現象が起こるかはわからない。

コンサートでこうしたきき方をしたのははじめてだった。オーケストラの場合、響きのマスが大きく、きいた音に注意を向けるのに少し時間がかかる。これは3Dを見るのと少し似ている(外に向かう視覚と内に向かう聴覚の違いは大きいが・・・)。焦点が合うまで少し時間がかかるが、立体画像があらわれるとその世界に完全に入り込んでしまう。さらにそうなると、完全な無防備の状態となる。頭はその世界だけが支配する。

コンサートできいたオーケストラの響きが和声が純正風だったり、旋律がピタゴラス風になっていたということではない(おそらく、ほとんど12等分平均律だろう)。家のスピーカー(ある程度のヴォリューム)で、きいた音に注意を向けるのとはちがい、オーケストラの響きのマスや音量、ホールの共鳴効果などと関係して、頭のなかで鳴る幅はとても広く、底なしの巨大な闇にすっぽりと包まれているような感覚があった。

つまり、前に空間の開けた2階席のわたしは、無防備に頭のなかだけに住み、自分自身が開けた空間から飛び出してきいているという感覚に襲われた。だが、その恐怖が曲と無関係だったか、あるいはそうでなかったはわからない。アイヴスの「宵闇のセントラルパーク」は虚無の音として迫り、身体の深いところに触れた。もちろん、いろいろな条件が重なっていただろう。だが、音の力をこれほどリアルに感じた経験は一度もない。ことばではそういうことは起きないだろう。ハーメルンの笛吹きはけっして空想の物語ではない。           




一瞬だけの瞬間移動のような  武石 藍




ハタチの頃、ガイアナ、スリナム、仏領ギアナという南米のギアナ三国とよばれる地域へ観光旅行をした。といって、披露するほどの思い出話というものは特にない。観光地然としていないその地域をひとりでうろつく姿はあやしまれたものの、歓迎も、ひどい拒絶もされなかった。こちらの身勝手な旅の欲望を満たしてもらえなかった敗北感とともに、自分のあさましさとあつかましさを教えられた旅行だった。

ところが、それから十年近くたった今でも、ふだん何気なく歩いている時に、その旅行で歩いていた時の感覚がフラッシュバックする。いま歩いているのがあの旅行の時に歩いていた道だと一瞬錯覚する。他にも歩きまわった場所は旅行でなくてもたくさんあるのに、このような感覚になるのは、親近感があるとはとてもいえないあの場所だけだ。旅として消化しきれなかった場所だからなのだろうか。

遠く離れた場所が地続きになったような、あるいは自分がたった今あの場所にいたような気がして愕然とする瞬間。きっとそのようなブレは常に生じていたとしてもふだんは気づかず、その一瞬だけそれをかすかに自覚できるのかもと想像たくましくして、なぜかあの旅行のおかげで貴重な瞬間を味わわせてもらっているのだと思ってみる……のが、結局ただの負け惜しみでないといいのだが。



しもた屋之噺(32)  杉山洋一




6月末から7月初めに酷暑が続いたかと思いきや、夕方にバケツをひっくり返したかのスコールが降り続く涼しい毎日が暫くあって、戻ってきた夏らしい暑気を何とかやり過ごしながら、この原稿を書いています。

6月27日、イタリアを代表する若手作曲家、F. ロミテルリ(Fausto Romitelli 1963-2004)が、長年のリンパ癌との闘病生活の末、40歳の若さで永眠しました。
或る朝早く、いつも一緒に仕事をしているヴィオリンのアルドから電話があって、「悪いニュースだよ、ファウストが死んだ。葬儀の日程が分かり次第、また知らせるから」と切羽詰った声で聞いたのが第一報でした。喪服代わりに紺のワイシャツとジャケットを持ってモデナに出かけ、翌日のミラノのサン・マルコ教会での午後の葬儀に間に合わせるつもりが、結局帰りのミラノ行きが大幅に遅れ、最後のはなむけには臨めませんでした。
パリからわざわざレヴィナスが駆けつけ、しめやかにオルガンを弾き、感動的なお別れだった、と後から聞いて、残念な気もしたのですが、お葬式の時ばかり、さして親しくもない関係者まで一同に会するのが、妙に表面的で社交的臭く、実は余り参加したくなかったというのが本音です。

ファウストとは格別親しかった訳ではないのですけれど、今から10年ほど前、彼の作品を、マニャネンシが東京で初めて指揮した時の事が頭を過ぎります。当時未だ彼はパリに住み、典型的なスペクトルの習作を書いていて、こんな作品をドナトーニの弟子も書くんだ、と不思議に感じたのが第一印象でした。
ファウストをドナトーニがずっと可愛がってきたのに、パリにゆき向こうのスタイルに染まって以来、ドナトーニは頑として彼を拒否し続けたまま死んでしまい、ファウストはそれをずっと引きずっていた、と後に聞きましたが、実は、イタリアに住み始めてすぐ、ファウストとローマで一緒に仕事をした事があって、「すごいね、君がドナトーニの弟子だなんて信じられない。すごいオリジナリティだ」と、思わず興奮して話してしまい、「僕はまぎれもなくドナトーニに習ったけどね。でも彼とは全然違うよ」と、寂しそうに眼を逸らせ、そっけなく言ったのが忘れられません。

あの頃イタリアで「ドナトーニの弟子」と言えば、亜流の駄作家で二番煎じ、そんな隠語的ニュアンスを多分に含んでいたように思います。当時、財閥のドラ息子だった、ドナトーニ弟子の若手作曲家数人が核になって、ミラノに「Nuove Sincronie」なる贅沢な音楽祭を開催していて、カギ括弧附きで「ドナトーニ弟子」と言えば、「あの鼻持ちならない、金持ちのスノッブ集団」、と一絡げにされていた頃のことです。思えば、あの集団の中にファウストもいて、以後、仲間の作曲家の大方が淘汰されてゆくなかで(揃って作曲を罷めてしまったのです)、結局ファウストとステーファノ(ジェルヴァゾーニ)のみが、ヨーロッパの作曲家として認められるようになりました。
最もドナトーニらしくない曲を書いていた二人が残ったのが、象徴的でもあり、皮肉な顛末でもあって、先日、ステーファノとベルガモの谷にへばりついた、鄙びたピザ屋で話し込んだ折、あれは最悪の経験だったと回想していましたから、メンバー間の軋轢も色々あったのでしょう。

当時、ファウストとステーファノは揃って、パリ帰りの洒落た作曲家コンビで、今思えば、二人が同じ演奏会に並べられる機会も随分あったように思います。ステーファノの個展に一曲ファウストの作品が交じっていたし、逆もあったような気がします。音楽的な位置付けが随分近しかったのでしょう。ところが、或る時からファウストはロックやテクノ音楽に傾倒し、従来の現代音楽の領域を大幅に逸脱する方向へ転換してゆきました。今から思えば、ヨーロッパ全体で見れば、さほど珍しい事でもなかったのかも知れませんが、保守的なイタリア現代音楽界では、異端児的に見られていた記憶もあります。

ちょうどその頃、リコルディ出版社の負債が処理しきれなくなり、当時リコルディが抱えていた作曲家の殆どが路頭に迷ったことがありますが、若手の中でファウストが一人、リコルディに残れたのも、他の作曲家から羨望を集めたに違いありません。
「ファウストの婚約者がリコルディの広報部長だから」と、追い出された作曲家達は、実しやかにゴシップを立てていましたが、何時頃からか、作曲家連中の間で、それとなくファウストの闘病生活が話題に昇るようになりました。「ファウスト、また入院したそうだよ」「今、放射線治療で大変らしい」「血液の癌だって」「治療うまくいったらしいよ」「退院したって」。

ところが、少し経つとまた、「ファウスト、某病院に再入院したそうだ」。双六のように振り出しに戻る繰り返しが何年も続いた挙句、或る朝、悲報がもたらされたのでした。最後に病院に入る前日、彼は「ちょっと行って来るよ。全く面倒臭いことだ」と笑い飛ばしていた、と或る友人が話してくれました。「きっとこれが最後になるって、分かっていたと思う。そんな事おくびにも出さなかったけれど」

師であるグリゼイが急逝の折、ファウストは「王国、辺彊の休日Domeniche alla periferia dell' impero (1997)」を亡き師に捧げましたが、随分悩んだ末、10月、ミラノでの演奏会で、この作品を演奏してファウストを偲ぶことにしました。
今まで、亡くなったばかりの作家の追悼演奏は、どこか偽善じみていて厭だったのですが、今回に限り、はなむけにさえ間に合わず、以前から演奏するつもりが、結局生前ファウストに聴かせられなかった自戒を込めて、敢えて演奏を決めました。
そうして、ふと気がついたのです。祈りが、知らぬ間に自らに向けられていることに。

(7月18日モンツァにて)




路傍の放浪者(1)  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳




4月のバンコクの都心部では目を開けていられないほどの強烈な日差しが照りつけている。彼は自分の顔や身体がまるで揚げ物をしている中華鍋の底ででもあるかのようにべとべとの不快感をあじわっていた。荒れた手で彼は額や頬、顎の下の汗をしきりにぬぐっていた。なかでも猛烈に暑いのが日に晒された公衆電話ボックスの中である。

硬紙の表紙で一辺が2×3インチくらいの小さな赤い手帳の中には10軒あまりの電話番号が書かれている。彼は硬貨を挿入口に差し込んでから番号を回した。大粒の汗がいくつも頭部の毛穴から溢れ出してきて左右のこめかみを伝って両頬にひろがった。

「いらっしゃらないのですか、あぁそうですか。けっこうです。じゃあまたかけますから」
彼はまた硬貨をひとつ挿入した。そしてわずかに震えている左手の中の電話番号を眼で追う。なんてひでえ暑さだ、と彼は声にはならない愚痴を言う。そのとき電話ボックスの脇にこどもが2、3人来て待っているのが目に入った。

彼はべとべとでそのうえ1982年のバンコクの(注:排気ガスの)粉塵がこびりついた指で何とか希望のありそうな電話番号をたどっている。話中だ。仕方なく受話器を置くと次の番号をまわそうかとためらった後、すっとボックスを出た。出たところで待っているこどもたちに頷いて交替していいよという合図を送った。

それから彼は行き交う人びとで込み合った歩道を歩いていく。誰も彼もそれぞれにすることがあってここを歩いている人ばかりだということは明らかなのだが。ときには命のあるものが絶えてしまったようにも思える。色とりどりの歩くキャンディーではないかと。

数日前聞いたことばを突然思い起こす。
「ぼくは手も足もない丸いものになりたいよ。食べることも知らず、寝ることも知らず、あんなふうにゆらゆら揺れているのさ」
ボールでもなくゴム風船でもなく、揺れている丸いものか。。
そいつは太陽でなくて何だ。彼はもう何日も太陽といっしょだ。そうだ、日差し、4月半ばのバンコクの都心の強烈な日差しだ。

彼は通いなれたオフィスのようになった電話ボックスにまた身をすべらせて入った。目に入るのは電話機の赤い色だけである。色は目障りだし、かたちももうあきあきしている。もしもこいつが話したり考えたりできたら、きっとこう言うのではないか、「ぼくもあなたにめちゃくちゃあきあきしてるんですよっ!」
彼はまた硬貨を差し込む。今回は電話機の腹の中を通り過ぎてきてジャランという音とともに尻の穴から出てきてしまった。。。あぁ、またか。ろくでなしめ。何回もくりかえされ彼は腹の中でどついた。

きちんと食べてくれようとしない機械に彼はなんとか食べ物を食べさせようと何回も努力した結果、ついに機械の方が根負けしてしまった。彼はやっと番号を回す。やった、と彼はわずかに微笑をもらす。ところがそうではなかった。
「はい、かまいません。後日でもけっこうです。。はい、はい」

少しは歩を休めるべきではないかと彼は思った。余りにも暑いのだ。その瞬間どこの誰も彼ほどには暑がっていなかった。周りを見回してみる。ある者は小さな屋台の前に立って平然とものを売っている。ある者はエアコンのある建物から連れ立って出てきていかにもしあわせそうに笑みを浮かべている。ある者はタクシーから降りるや強い日差しの中を走り抜けてオフィスに駆け込んだ。ある者はやはり歩いてはいるが、靴は清潔だし、身体のどこをとってみてもきれいだ。ある者は彼よりひどいかっこうをしてるが彼ほど暑がってはいない。

(続く)



循環だより7月  小泉英政




  李(すもも)成るがままに

李の木を植えたのは、次男の双(そう)が小学生のころだった。なぜかそのころは、小学校で果樹の苗木のあっせんをしていて、子供たちにカタログを渡し、各家庭の注文を受けつけていた。買っても買わなくてもいいのだが、わが家では李のメスレーという品種にしるしをつけた。美代さんはバス通学をしていた息子が苗木をかかえながら降車口から降りてくる姿を記憶しているという。

それから十数年、李の木は大きく育って、時折りたわわに実を成らせ、双も二児の父親になった。

李の木を選んだ息子はどういうわけか、あまり果物を食べず、その恩恵にあずかるのはぼくたちで、野菜の会員の方にも、何度かおすそわけをした。李の花が咲くのは三月で、遅霜にあうと結実不良になるので、年によってはほとんど収穫ができないこともある。また、前年、成りすぎると、木が疲れて、翌年は休むということもある。たまに剪定するぐらいなので、李の成るがままにおつきあいをしている。

今年は鈴成りを超えて枝が折れんばかりにしなって、鈴々鈴成りの大豊作だった。いつもなら虫に喰われたり、、鳥につつかれたりもするのだが、虫や鳥たちも李の実に圧倒されたのか、寄りつかなかった。少し赤みがかった酸っぱいのもおいしいが、黒ずんだぐらい熟したものもとろりと甘くて最高だ。完熟したものは、ちょっと手を触れただけで、手のひらにぽとりと落ちてくる。そんなのを口にふくみながら李狩り、たっぷりと満喫した。
孫の廉(れん)君は、一口目の李が酸っぱかったのか、今のところ李を敬遠している。夏音(なつね)ちゃんは、皮をむいた李の実にしゃぶりついている。廉君にも皮をむいた完熟の実を、最初の一口目にあげれば反応がちがったかもしれない。

廉君はもうすぐ三歳、夏音ちゃんも一歳になる。廉君は時たまジイやバアの足にまつわりつき、遊んでくれと離さない。「仕事が忙しいから」と無理に引き離すと「ウェー」と泣いてしまう。優しいジイ、バアになってあげなくちゃと思う。そうしたら循環農場の野菜たちは結実不良になっちゃう(すでになっている)かもしれないよ。成るがままでいいのではないか。……。




土曜日のぎっくり腰   御喜美江




思いがけず2日間がフリーになった。
24時間フル回転していた洗濯機と乾燥機のおかげで何とか仕上がった山のような洗濯物を、3つの大きなバックにつめ、17時39分の急行に乗るため、さあ出掛けよう!というとき、ダンナがぎっくり腰になってしまった。私も一度やったことがあるので知っています、その痛み。ただし身長187センチ体重100キロが「痛い、あ〜痛い!」と唸ったり叫んだり這ったりしていると雰囲気は地獄で、内心は「たかがぎっくり腰くらいで……」とは思っても実際にはオロオロしてしまう。まずは7時の夕食会を電話でキャンセル。次は10時からスタートするナイト・コンサートをキャンセル。これはダンナが直接担当しているシューマン・フェストの一環なので、本人はかなり心苦しそう。続いて翌日のお昼に招待されていたお城の結婚式をキャンセル。そしてその夜に招待されていたコンサートもキャンセル。やれやれ。

一応の電話連絡を終えたとき、ふと気がついた。「……ってことは2日間がフリーになったんだ」。ダンナには悪いけど私は腰痛なんて全然ないから、ぎっくり腰のおかげで久方ぶりの週末ができたというわけ。ご招待くださった方々にも申し訳ないが、正直のところ胸がはちきれるくらいハッピー気分になってしまった。ぎっくり腰様様!

上機嫌の妻はうんうん唸る夫をいたわって、さっそく白湯と痛み止めを持ってきた。
横になって腰を湯たんぽで温めしばらくすると、激痛は少し柔らいできたらしい。しかし急病というのは、どうしてこういつも土曜日に起きるのだろう。大きな病院に行けば医者は24時間いるけど、全然知らない医者にかかるのは不気味。とくに腰の場合、下手な注射でも打たれたら後遺症の方が恐ろしい。だったら自宅でゆっくりと体を休めている方が無難かな、と思って“自宅療養”を提案すると、ご本人は即・賛成。ここで思うのだが、一般に世の男性は病気になると、まるでこれ以上の痛み苦しみはないかの如く大袈裟に騒ぐ。ところが「じゃあ、病院へ行きましょう」というと「その必要はない」という。実際その必要はほとんどないのだが。

電話、湯たんぽ、薬探し、病人の介抱と体をクルクル動かしていたらお腹がすいてきた。しかし一週間留守をするため冷蔵庫はあえて空にしちゃったから、地下室の冷凍庫を覗いてみると海老がある。それで夕食の献立は決まり。庭のハーブとニンニクを使ってオリーブ油で炒める“海老トスカーナ風”、付け合せは、じゃがいもを生のまま荒削りにしてフライパンでこんがり焼くスイス料理“ロシュティ”。チリ産の白ワインを開けて、とりあえず土曜日のぎっくり腰に乾杯! ダンナも2日間の休みが取れてホッとしたのか、海老とロシュティを黙々と食べている。「どう?」と聞くと「おいしい」と言うので、「私はあなたの腰痛のことを聞いたのよ」とはもちろん言わない。床ではオス猫カーターが海老をおねだりにきて「あ〜ん、あ〜ん」と私を見上げる。その表情と声があんまり可愛いので、ついつい高価な海老を与えてしまうが、それはそれはおいしそうに食べるので私も至福の気分。ところで明日の日曜日は何をしよーかな。

(2004年7月17日ラントグラーフにて)



ねこのこと   佐藤真紀




事務所に手紙が届いた。
中を開けると毛並みの立派な三毛猫の写真が入っていた。
送り主は、以前テルアビブでお世話になった商社マンの方からだった。
この猫は、ちょうど4年前、私が、エルサレムを脱出する際に預かってもらった、「たまよん」という猫である。

2000年10月といえば、私はちょうどパレスチナ西岸地区から、エルサレムに引っ越したばかりだったが、シャロン・リクード党の党首が、エルサレムのイスラム教徒の聖地に入ろうとして、信者の反感を買い、警官と抗議するパレスチナ人の間で衝突。一気にイスラエルとパレスチナの戦いに発展したときだ。

衝突が始まったときは、私はレバノンのシャティーラ難民キャンプにいた。これは大変なことになったと急遽ベイルートからエルサレムまで戻ってきたのだ。その足で、ラマッラーまで様子を見に行く。数百人がイスラエルのジープに向けて投石をしていた。イスラエルはゴム弾で威嚇射撃を繰り返していたが、実弾も使い出していた。

流れ弾が飛んでくると危ないので、前線からは後退して、様子を見ていたが、何かの弾みにパレスチナ人が走り出したかと思うと数百人がいっせいに逃げてくる。あっというまに大衆はいなくなって、気がつくとパレスチナ警察が私の周りであせりだしてカラシュニコフを構えだした。やばい、と思うと上空にはアパッチと呼ばれるヘリコプターが低空飛行で近づいてくる。撃たれると思ってビルの合間に隠れた。ヘリコプターは一発も撃たずに去っていったが、情勢はますます悪化するばかりで、私の友人たちもエルサレムに避難してくることになった。

私は、ネコを飼っていて、黒かったからくろよんという名前だったのだが、西岸に住んでいるボランティアの佳子さんに預けていた。くろよんのことが心配で、紛争の隙間を縫って救出に行くことになった。くろよんはアパートの屋上で何とか大家さんがえさを与えてくれていたので生き延びていた。猫は移動するのを嫌がる。セメントの入っていた袋をもらって何とかくろよんを押し込めて、無事にエルサレムにつれて帰ることに成功した。

私の家には避難してきた留学生、ボランティアなどが4名、そしてくろよんとでしばらくは様子を見ることになった。私の家の前には大きなとおりがあって、そこから向こう側にはユダヤ人が住んでいた。ユダヤ人たちも夜になると出てきて、アラブ人の乗っている車を襲撃したりした。状況はますます緊迫するばかり。ガザが激しく空爆されて、友人の小林さんが、脱出してきた。知り合いのジャーナリストも差し入れを持ってきてくれたりしてにぎやかになった。

小林さんは、「やっぱりガザが気になる。私はガザにかえるわ」というので門のところまで見送った。「気をつけて」といって分かれると鉄の扉を厳重に閉めた。篭城しているようだ。

しばらくすると電話がなった。「大変、大変、早く門を開けて」小林さんだ。誰かに襲われたのだろうかと思い、あわてて門を開けると、彼女が抱いていたのは、生まれたての猫だ。「だって、見捨てられないでしょう」それはわかるが、くろよんだけで精一杯なんだぜ。「ともかく、私は行くから」と彼女は無責任に去っていった。

手のひらにのるくらいの大きさ。マグカップにそっくり入ってしまう。
なんていう名前にしよう。鉄砲の弾をかいくぐって逃げてきたんだから「たまよん」だ。
人間4人と猫2匹の暮らしが始まろうかとしていた。

しかし、ラマッラーの警察所で西岸に迷い込んだイスラエル予備役兵2人をパレスチナ群集がリンチにかけて殺してしまうと、イスラエルは報復にヘリコプターからミサイルを警察署に撃ち込んで粉々に吹き飛ばしてしまった。

その夜、国連事務所から電話があり、「避難するかもしれないので、身の回りの準備をしておくように」とのことだった。「どうしよう。猫は?」

私は腹をくくった。国連の準備した飛行機には乗らない。自力で脱出する。あるいは猫と一緒に最後まで戦う。あくる日には、国連の事務所で、一切責任を国連には問わないことを誓って、書類にサインした。夜、ボンの国連ボランティア計画本部から連絡があり、「脱出してもらわないと困る。午前3時が最後のフライトだ。もしものことがあると、国連が日本政府から責められる。これは、外交問題なんだ」説得されて、とうとう私も折れた。そこで「困ったことがあったら何でもいってください」とおっしゃっていた商社マンの人に電話を入れると、「じゃあこれから車を飛ばします」と快く預かってくれることになった。

一時間後には国連の4輪駆動車が家の前にくるという。あわてて荷物をまとめていると、国連の車と商社マンの車がほぼ同時に到着。みんなで、逃げ回るくろよんを捕まえると、私は国連の車に乗り込み、くろよんとたまよんは、商社マンの車に乗り込んだ。しばらくお別れだ。

ところが、飛行機の手配がうまく行かず、ホテルに缶詰になり、ともかく待たされた。あくる日の朝、電話がなり、「すいません。くろいほうが逃げてしまいました。小さいのは大丈夫です」というのだ。

その後、くろよんには懸賞金を掛けたりして張り紙をしてもらったが、見つかることはなかった。責めるわけではないのだが、なんとなく商社の人とも疎遠になってしまった。

あれから4年、たまよんは立派に成長していた。
ボサノバ・コンサートの会場で商社の人に再会した。たまよんを日本につれてきたそうだ。
なんだか、くろよんの生まれ変わりのようでうれしい。くろよんは今頃どうしているんだろう。
私は、くろよんのことを書き残しておこうと、記憶の引き出しを捜し始めた。



あの頃のこと   高橋悠治




ながいこと絶版になっていた1970年代の文章を浜野智が集めて一冊の本にしてくれた ページをめくってみると 他人のことばがならんでいるかのようだ ことばによって音楽をさえぎり 批判することをかんがえていたあのころ 音楽制度の批判はやがて政治体制の批判にむかっていた 安全地帯からの観測とも言えるが 距離をとっていたから見えたものとも言えるだろう

おなじころ フレデリック・シェフスキーとコーニリアス・カーデューが政治的関心からわかりやすさをもとめて19世紀のコンサート音楽のモデルにもどり クリスチャン・ウォルフがアメリカ民謡のリズム的・メロディー的解体と再構成を政治的なテクストに結びつけていた ウォルフのそのころの文章が英独対訳で出版されている 自分の昔の文章を読みかえすよりは おなじ道を歩いたひとの眼で あの時代をふりかえってみたい

われわれの世代が音楽をはじめたのは第2次世界大戦から数年後だった 廃墟と権力の空白のなかで 音楽は自由だった 戦前の中断された冒険 シェーンベルクやバルトークの音楽そのものよりは かれらの名前が 国家主義に踏みにじられた個人の自由を回復し だれもきいたことのない音を現実のものとする音楽の道をひらく 魔法の呪文のように感じられた時代だった

すべてが許されている だからすべてを自分でつくりださなければならないという暗黙の前提から生まれ あの自由の空間をあじわったものたちが この広い世界のどこかで 必然のように出会い 遠く離れて生きていても 変わることなくもちつづける ある共感を説明することが どうしたらできるだろう

朝鮮戦争からベトナム戦争にかけて 冷戦体制のなかでの権力のバランスと経済の安定が 世界を息苦しい場所に変えていった頃には 音楽の領域でも オーケストラや音楽学校の権威が回復して 色褪せた近代化の旗の下で 選別と排除のシステムを形成していた

1968年が飽和と転回の年だった ベトナムでの和平会談 フランス・ドイツ・アメリカで学生たちの反乱 プラハの春とソ連軍の侵攻 中国文化大革命の終わりの始まり システムは破綻していた それに替わるものは 国家を前提とする社会主義ではなかった 民族解放運動も終わっていた

1970年代は われわれにとっては いくらかおくれた意識化の時代だった システムはベトナム戦争を終わらせ 中国をとりこみ 南ではクーデターを起こさせ 開発独裁への道をひらいていった 後からみると その時に政治を意識したとしても ほころびたマルクス主義や社会民主主義モデルでは 現実に追いつくことさえできなかった 
音楽家のあいだでは もとから少数派だったものが まったく孤立する結果になっただけだ カーデューがケージやシュトックハウゼンを批判したのは 自分の退路を断ちきるためだった 日本で武満を批判したのも おなじようなことだった

この時代に社会的なインパクトをもったものは いわゆるコンサートの場ではなく ポップミュージックのなかに いくつかの例があった ロックはすでに商業化してしまっていたが レゲエやアフリカン・ポップは 街路から生まれた社会批判と 簡潔なテクノロジーによる異文化の混合や流用を結びつけながら 1990年代以降の現在をさきどりしていた

そうは言っても あの時代には 言説ではなく じっさいに音楽をつくるプロセスのなかで いまでも有効なモデルがいくつかあった オーケストラ的軍隊モデルではない 自律的な関係から生まれる合奏組織 異質な要素と多元的時間の共存 抽象的な構成ではなく 音をきくことから生まれるリズムや空間 固定されたかたちをもたず たえずつくりなおされる小さな部分のつらなり それらは一定の方向をもつ政治意識というよりは 規格化・特権化への抵抗 さまざまな試みにひらかれた社会的な空間を示唆している



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