2005年5月 目次


しゃしゃむしゃしゃ、思い──緑の虱(7)     藤井貞和
解決されないイラクからの難民           佐藤真紀
循環だより                    小泉英政
しもた屋之噺(41)               杉山洋一
シベリア上空 ミニミニ活火山のおはなし      御喜美江
私の現実                     三橋圭介
振付家名のクレジット(4)            冨岡三智
ありがとう          スラチャイ・ジャンティマトン
帝国の周辺で                   高橋悠治



しゃしゃむしゃしゃ、思い──翠の虱(7)  藤井貞和




糸ぐるまはあたしをきれいにする、

ぐるぐるがあたしをとりかこむ、

ひとめぐりでずっときれいになる、

ふためぐりして静かな心に、

いそがしや、いそがしや、

磯辺の石があたしの宝で、

みめぐりしゃしゃむしゃしゃ、

よめぐりしゃしゃむしゃしゃ、

腰かけて、かせかけて、

あたしを子ネズミが追いかけて、

くるくるがあたしの心の糸に、

お寝(やす)みと言う、またあした、

お寝みの子守り歌をうたう、

いつつ糸、むつ糸読むあたし、

ななつ糸、やっつ糸あたしの宝、

……


(もつれた糸をほどく呪歌に、1「しゃしゃむしゃしゃ」系、2「忙しや」系、3「千早振る」系があるのだという〈中島惠子〉。「しゃしゃむしゃしゃ むしゃしゃが山のしゃしゃむしゃしゃ むしゃしゃがなけりゃな むしゃしゃもしゃもない」。「しゃしゃむしゃしゃ」は「ちゃちゃむちゃちゃ」だったり、「やしゃむしや」だったり、笹草や笹草やという、元歌らしいのもある。「糸がむちゃくちゃにもつれている状態を示している」〈野本寛一〉。「むちゃくちゃ」つまりムサクサはもと糸繰り系の語だったろう。ついでに「めちゃくちゃ」もメタクタ。新刊から「俗信と呪歌──『フキフキホグセの説話一件』を巡って」〈花部英雄『昔話と呪歌』三弥井書店〉を読みながら。「フキフキホグセ」も吹いて吹いて糸をほぐす呪歌だと言う。)





解決されないイラクからの難民  佐藤真紀




2003年4月9日、フィルドス広場のサダムフセイン像が引き倒された。この日、サダム政権が崩壊したのだ。歴史から見れば、そんなに大騒ぎするほどのことでもないのかもしれないが、サダムの顔に星条旗がべローンとかぶせられた瞬間の、アメリカ兵のおっかなびっくりのしぐさ。これは歴史にのこるシーンのひとつだ。

自由とか民主主義とか言うけれど考えてみれば、イラクの人々にとってこの日は苦悩の始まりだったのかもしれない。そんな中でも、戦争で一番、貧乏くじを引くのが、イラクにいたパレスチナ難民やクルド難民である。彼らはかろうじてサダム体制によって保護されていたから、体制が崩壊するとともに迫害され始めたのだ。

結局2年も経ってしまったのにいまだに、ヨルダン内のキャンプに約120名のパレスチナ人。ノーマンズランドには、730名の主にクルド人がいる。UNHCRをはじめ国際社会は一体何をしてきたのか。

4月16日、難民キャンプで火災が発生したという情報が入る。朝の8時に、おそらくは電気系統のショートが元でテントに火がつき、ついで3つのテントを瞬く間に巻き込んでしまったというのだ。アヤちゃん(3歳)は死亡。母親と隣人がやけどを負って重体。5歳になる兄は煙を吸い込んで苦しんでいる。今までにも火事はあった。しかし、死者が出たのは初めてだという。

このキャンプのパレスチナ人は教育水準も高く、テントの生活を少しでもよくしようと、電気製品を改良して使っていたが、そのひとつが火花を出した。怒りは国連のスタッフへと向けられている。アヤちゃんの死によって彼らの恨みが結晶化してしまった。

UNHCRのヨルダン代表のステン・ブロウニーは以下のように述べている。
「私たちは、彼らの外の世界との橋渡しをしているが、外の世界は彼らを無視している。私はいつも自問自答しています。どうしてもっとできないのか。私たちは難民問題を解決するのが仕事なのに。しかし、彼らを受け入れてくれる国がなければどうしようもないのです。一時的にも彼らを地獄のような環境から連れ出そうという国も出てこない。私たちは人道的なケースとして嘆願してきたが、パレスチナ難民を取り巻く政治問題は難攻不落である。彼らは、どうして、他の難民と同じように扱ってもらえないのかと聞いてくる。私には彼らを満足する応えが見当たらないのです。」

ちょうど2ヶ月前に、日本から医師を5名連れていって健康診断をした。診断を行った医師なら何か覚えていないだろうか。スマイル子どもクリニックの加藤隆医師に早速連絡を取った。カルテを探してもらう。

「私が健診させていただいた中によく似た名前の女の子がいましたので、物凄いショックを受けました。カルテに記入していただいた文字はミドルネームのスペルが少し異なります。アヤ、2・5歳、身長78cm、体重11.5kg。健康上は特に明らかな問題はなかったと思います。本当にいたたまれない気持ちです。亡くなった幼い子供はけがれが全くないので、天国に召され、そこでは天使がめんどうをみてくれる、と聞いたことがあります。一生懸命アヤちゃんのためにお祈りしようと思います。」

その後、事務所にカルテのファクスが届く。アヤちゃんを特定するのは難しいとは思いながら私の写した写真を探してみた。ところが、写真のなかにカルテを持っている女の子が写っていた。ちょうど3歳ぐらいの女の子だ。こんな小さな女の子が一生懸命カルテを持っているのがとても愛らしくて、シャッターを切ったのを思い出した。お気に入りの写真である。拡大してみると、カルテの字が読める。アヤと描いてあった。体重も身長もファクスされたカルテとまったく同じだった。

いまだに、キャンプから出られるめどは立たないという。

(写真はhttp://www.doblog.com/weblog/myblog/18736をご覧ください。4月20日付け。)



循環だより  小泉英政




 
  目釘通し

今から30年ほど前のこと。二十代の後半、農業をはじめて間もない時に、思いきった買い物をした。それは鍛冶屋さんが手打ちで仕上げた田んぼ万能と鍬だ。美代さんとぼくでそれぞれ一丁ずつ、一つが一万円を超えた価格だったので、五万円でおつりをもらう買い物だった。

自分たちで田んぼをやるようになって、それは必要不可欠な農具だった。金物屋さんに行けば、大量生産されたもう少し安い物を手に入れることもできた。しかし、ぼくたちの田んぼ仕事の師匠である小川直克さんの、「一生のものだから」という言葉に押され、その気になった。

直さんが用いていたのも、その鍛冶屋さんの物だった。子供のころから、氷の張った田んぼに素足で入って、田仕事をしてきたという直さんの熟練の仕事ぶりは、ほれぼれするものであったが、同時に手にしている万能や鍬も、見事なものであった。同じものを使えば、ぼくも直さんの技に近づくことができるかもしれないと、当時、思ったかも知れない。そうして鍛冶屋さんを訪れ、手打ちの刃先がぴかぴかに輝くまぶしい農具を手に入れたのだった。これを間違えて足に当てたら、スパッと切れてしまうぞと危険を感じたほど、それは銀色に光っていた。

その後、同じ鍛冶屋さんから、畑で使う万能、草とり用の鍬、鎌などを買い求めた。それらを仕上げる鍛冶屋さんの労力を考えると、それは高い物というより、貴重な物を手に入れることができたという喜びがいっぱいの買い物だった。

一年前、スタッフが使っていて、畑万能の柄が折れてしまったので、柄をすげ替えてもらおうと店を訪ねた。数年前から槌を振るうには年齢的に無理があると、仕事をやめていると聞いていたが、柄のすげ替えならばやってもらえるかもしれないと思ったからだった。しかし、それも無理だった。最近は入退院をくりかえしているとのことで、「自分でやんなさい」と、新しい柄を一本、取り出してきてくれた。

万能を柄に取り付けるには、カツラと呼ばれる鉄の輪二個と、釘が一本、要る。カツラは今までついていたものを使うとして、「ここに打つ釘をもらえませんか」と尋ねたところ、仕事場の方から、農具用の釘数本と、一つの道具を手にして来て、「これあげるから」と、ぼくの手にのせた。釘のことを目釘といい、その道具は目釘通しだと教えてくれた。農具の柄は、堅木なので、ただ目釘を打っても、曲がってしまうので、あらかじめ、目釘が打ちやすいように穴を開ける道具が目釘通しだという。

ぼくが鍛冶屋さんの廃業を惜しみ、自分の体が二つあれば、鍛冶屋さんをやってもいいんだけれどと言ったことが、目釘通しをいただくきっかけになったのかもしれない。

その畑万能の柄はその後、自分ですげ替えた。万能をカツラと柄がぴったり合うようにカンナで柄を少しずつ削って、何度も具合を確かめ、そしてはめ込み、いただいた目釘通しで穴をあけ、目釘を打ち込んで。

鍛冶屋さんが昨年の暮れに亡くなったということを、つい数日前、そのお弟子さんだったという人の仕事場で知った。



しもた屋之噺(41)  杉山洋一




瞬く間の一ヶ月でした。
肌寒かった4月初旬、ローマ教皇の死を告げる弔鐘が、運河沿いのクリストーフォロ教会から聞こえてきて、思わずラジオのスイッチを入れました。初めて耳にする弔鐘ながら、すぐそれとわかるほど、悲しさに溢れているのが印象的でした。ところが、翌日ミラノで演奏会があり、すわキャンセルかと思いきや、国喪にも関わらず、老若男女入り交じった客席は立見が出るほど盛況だったのです。天皇崩御とはおよそかけ離れた様相で、街はいつもの活気を謳歌しているように見えました。

イタリアに住み始めた当初、イタリア人の信仰心とはどんなものかと、毎週末ブルゲーリオの教会ミサに通ったことがあって、ある時、彼らの世界観が、この教会のような石壁で、外界からしっかり守られているのを痛感して、自分が一線を画した世界にいるのを、寂しいような、安堵したような心地で認めたのを思い出します。

今朝届いた4月30日号の「レプブリカ・デルレ・ドンネ」を広げると、「教会はすぐそこに(La Chiesa e' vicina」と題された、中国の地下教会の記事が載っていました。多くの白黒写真が掲載されていて、定辺(Dingbian)で行われた聖週間の行列で、雪をかぶり寒々しい荒野の中を、50人程の農民が旗と十字架を掲げ、一列に歩いている様子や、復活祭の行列のため、先頭に翼をつけた少年がケルビム(智天使)となって、農民たちが、聖人たちの描かれた額を捧げ持って歩いている様子もあります。

別の写真は、細木の枝を組み合わせただけの十字架を掲げる少女の背で、悲しみを湛えた女性4人が手を併せる、農村の葬式の様子であったり、5歳ほどの男児が、手を併せて告解の秘蹟を受ける様や、簡素な板張りの部屋で聖体拝領のパンを舌で受ける、慎ましい身なりの老人が写っていました。特に見るものを穿つのは、手を併せ、道路から煉瓦づくりの壁にへばりつく、子供たちや女性の姿で、秘密のミサに入りきれなかった信者が、壁にあいた穴から中を見つめながら、外からミサに参加している姿です。

中国には、国が認める「愛国教会」とほぼ同数の信者数を誇る、数多くの地下教会があるのはよく知られています。非合法組織である地下教会の司祭や信者が、たびたび中国公安当局に逮捕され、強制労働収容所や拘置所で、再教育や「愛国教会」への転向を強制されるのも、しばしば耳にします。地下カソリック教会はヴァチカンと直接繋がっていて、インターネットでヴォイティワの死を知った河北(Hebei)の地下教会の神父は、数時間後には秘密裡で300人もの信者を集めた追悼ミサを執り行ったとも聞きました。

こうした姿に激しく心を揺すぶられるのは、他でもない、彼らに数百年前の隠れキリシタンの姿を重ね合せてしまうからです。「実際には、教会といえば中庭のこと。祭壇はあり合せの机で代用され、フレスコ画に替わって、法王の写真に手を併せる」。大八車が置かれた古い納屋で、人民帽の老人二人が、土の床にひざまずいた神父から、十字の切り方を教わっています。白いベールをかぶって手を併せた、いたいけな子供達の後ろに描かれた、東洋風な風貌のキリストと天使も、隠れキリシタンを祭壇画を彷彿とさせます。

一体何が隠れキリシタンの人々を支えてきたのだろう。子供の頃から抱いてきた疑問に、中国の地下教会の人たちは、一つの答えを与えてくれます。異なる文化と時代背景を超え、隠れキリシタンの人々が育んできたオラショに、脈々と込められた願いは、中国の農村の人々の澄みきったまなざしに通じるものがあると思います。ザビエルの生誕500年にあたる来年、そんな純粋な思いを、ようやくイタリアの人々に紹介することが出来るかも知れません。石壁で守られた世界に暮らす人々にとって、封印された心の中でのみ生き続けた信仰は、一体何を伝えることになるのでしょう。

(4月30日ミラノにて)





シベリア上空 ミニミニ活火山のおはなし  御喜美江




食あたりまたは食中毒とよばれる病気に、誰でも一度はひっかかったことがあるだろう。ただそれが長距離国際便の機中で起こったとき、どんなふうにつらいか……今日は少し話したいと思う。

どの食あたり・食中毒にも、その前経過があるのだが、私の場合はこうだった。

4月8日午前9時、私たち夫婦は予定通り成田空港に着き、エールフランスのカウンターでチェックインを行った。航空会社は、まあどこも似たり寄ったりだが、しかしエールフランスほどそのサービス精神に個人差があるところも稀だと私は思っている。だからカウンターで航空券処理をしている4、5人のスタッフを見比べながら“当たり外れ”を賭けるのが、最近のちょっとした遊びになった。ここ数年の経験からいくと、外国における場合は絶対に男性に限る。これはほとんど100%確信を持って言える。男性スタッフは実にテキパキと手際がよく、夫の体型をちらと見ただけで、では足が伸ばせるようにと気を利かしてくれて、親切に前がフリーの座席を探してくれる。荷物の重量なんて見ようともしない。そして必ず“Priority”のシールをトランクに貼ってくれる。ときにはエコノミーなのにラウンジのチケットをくれたりする勇敢なスタッフもいる。

そんななかで一番避けたいのが、ちょっと人種差別のようで言いにくいのだが、黒人女性スタッフ。それも美人系。美しい顔をいつも不機嫌に歪ませ、こちらが笑顔で航空券を出しても、明るく「こんにちは!」と挨拶しても、反応はなく返事もしない。荷物は最後の100グラムまで慎重に重さを計る。少しでもオーバーしていると「なかみを出すか超過料金を払いなさい」と言う。ユーモアも冗談ももちろん通じない、というかかえって相手を刺激してしまう。一度ひどいことを言われた。「私が非常に親切な人間だから今回だけはするけど、次回からこのような特別扱いは出来ません!」と。それは何の特別扱いでもない、頗る普通の処理だった。「このトランクの半分には楽器が入っているのでベルトで流さないで下さい」と頼んだだけのこと。めったに怒らない夫が、このときだけはボードカードとパスポートをガバッと手でつかみ、無言でその場を立ち去った。私がチラッとカウンターを振り返ると、薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。

そんななかで日本人の場合は難しい。皆さん女性で、皆さん若く、皆さん見かけは本当に優しそう。でも、それが、いるのです。↑のように仕込まれたのが。可愛い顔して、きれいな声を出して、氷のように冷たい対応をするのが。だから成田空港での“当たり外れテスト”は常連旅行者にとっても難題、まさに上級テストであります。

ところが今回は大当たりだった。年令は30代だと思うが、まず笑顔で私たちに「おはようございます!」とごあいさつ。ただちにチェックイン処理をてきぱきと開始し、荷物の重量は横目でチラッ、トランクに貼ってあるシール『楽器』を見ると、ただちに若い男の従業員を呼びつけ「これはベルトで流さないように」と指示する。私が「通路側でお席を取っていただけますか?」と聞くと「はい、かしこまりました」と爽やかに返事をしながら、コンピューターのキーボードをプレスト・テンポでぱちぱちたたいている。やがて「お待たせしました。実は今日はエコノミークラスが満席ですので、ビジネスクラスにお席をお取りしました。通路側でございますがよろしいですか?」と。よろしいもよろしくないもない、ビジネスクラスがだあーいすきな私はもう大喜び!「これからの12時間フライトはメチャメチャ満喫しちゃおう!」とルンルン気分。まずはラウンジへ、そして機内へ。

地上ですでにシャンペンが出てくる。離陸後にすぐ昼食。アペリティーフはカンパリオレンジ。前菜のサーモンではブルゴーニュの白ワイン。初めはさらっとした感覚で少しすると不思議なコクが口中に広がる美味しいワイン。メインは牛肉のフィレステーキ。ここではブルゴーニュの赤ワイン。重さと軽さが微妙なバランスを持つ、これも素晴らしいワインだった。続くチーズの種類はとても多くて、パンのチョイスも同様。お肉料理と同じ赤ワインが、ここではちょっと違った性格となり、酸味のなかにほんのりとした甘さをチラリと覗かせ、チーズの味をひきたてていた。フィナーレはデザートで、ここはさすがエールフランス、これだけ思う存分食べた後なのに、どれもこれも試してみたくなる豪華版。その中からクレームカラメル、ババロア、チョコレートケーキ、マンゴのシャーベットを食べた。とくにマンゴシャーベットは溜息が出るほど美味しかった。お飲み物としては、カルヴァドスをたのんだ。フランス人スチュワーデスはそれをグラスになみなみと注いでくれる。「あー、お腹いっぱい!」

さて、昼寝でもするかと、ビデオを見ながら寝入って約1時間半くらいが過ぎただろうか。頭がガンガン痛むので目がさめた。やっぱり飲み過ぎたのかもしれない。そこで空港で買ったきた液体ウコンのドリンクを飲む。そしてまた寝入る。だが今度は数分後に気分が悪くて目が覚める。それも相当むかむかする。トイレに行こうと立つと体中がぎくしゃくする感じ。トイレに入って鏡に映る自分の顔を見て思わずギョッ! 顔面蒼白で気味の悪い汗をかいている。「一体どうしたんだろう?」と思った瞬間、突然吐き気が襲ってきて、しばらく吐き続ける。「これだけ吐いたのだからもう大丈夫」と座席に戻り、「さては、暴飲暴食の罰が当たったのかな?」と反省していると、今度はお腹と背中が痛み出し、さらにゾクゾク悪寒がしてきた。とまた気分が悪くなってトイレへ。だが今度は吐くのみならず下痢の開始。立ったり座ったり、座ったり立ったり、どっちを先にして良いのか自分でも分からない。ますます目が回る。とにかくお腹の中が活火山になってしまったみたいで、噴火は止まらない。皮膚からは脂汗、目からは涙まで出てくる。まるで胴全体が「何でこんなものを腹に入れたんだ!」と激怒して2000ボルトで押し出そうとしているようだ。

私は普段から薬の準備は比較的完璧で何でも持ち歩いているから、その中から下痢止め、食あたりの薬、乗り物酔いの吐き気止め、などを服用するのだが、2分も経たずにすぐまた2000ボルトで放り出されてしまう。悪寒はますますひどく3枚の毛布にくるまってもなおガタガタ震える。コーラを飲む、そして吐く。これを繰り返すこと約9時間、パリへ着いたときは腰も立たないくらい弱っていた。しかしパリはまだまだ旅の途中。ドゴール空港は広く、乗り換えの時間は短い。荷物を持って早足に歩かされながら「イッヒ・カン・ニヒト・メア……」(もうだめです……)を何度も夫に訴えるが、聞いてもらえず、何とかギリギリ乗り継ぎ便に間に合い、デュッセルドルフ空港に着き、そこから車で一時間、ラントグラーフの我家に生きて着いたのでした。

それからは緊張が解けたためか、3日間昏々と眠り続けた。そして約一週間は食べ物と称すものは、ビスケットですら気持ち悪く、酒類は瓶を見ただけでウッ、ときた。肉や魚は想像しただけでトイレに走りたくなった。でもだんだん、だんだん時間とともに体は静かになり、噴火は完全に治まった。お陰で少しスリムになりました。

(2005年4月30日デュッセルドルフにて)



私の現実  三橋圭介





あれは中学の頃だった。いつものように電車に乗っていた。朝のラッシュの時間は会社員や学生などで込み合っている。そんなときは座って寝ることはもちろん本も読むこともままならない。目に入る広告を隅から隅まで読む。しかしたいていは同じなので、ぼんやりしていることのほうが多い。窮屈な時間をやり過ごすには一番いい。あのときもそうだった。ぼんやりと放心状態のなか突然、訳のわからない呪文が耳にとびこんできた。四方八方からだ。そんな音に包まれて驚いたが、そう思ったとたん、たちまのうちに消えた。のこされたのは車内の雑然とした人々と会話だけだった。次の日もその次の日もおなじ体験をした。別に一人だけ宇宙に放り出されたわけではない。でもそんな感じだった。いつもと変わらない。見知らぬ顔のサラリーマンや学生たち、私もそのなかの単なる一人にすぎない。でもまったく違う。あるとき気づく。外側が変わったのではなく、内側が変わった。現象のみを説明するなら、人々のことばから意味が消え、音だけになった。なったというかそのようにきこえた。音になったことばは奇妙に平たい音の連なりにすぎず、まるで外国語のように意味を理解することができない。外国の人が日本語はアクセントのはっきりしないことばといっていたのは知っていたが、このとき自分が外国の人のようにきいた気がした。このように書けるのはききながら自分の意識や思考が可能だからだ。この遊びはおもしろかった。この日から日課として音のことばをきく努力をした。学校でもきいた。いろいろと試したが一対一ではできない。簡単なのは込み合った電車のような雑然とした場所だ。焦点をもたないたくさんのことばが、きくことを可能にする。音がきこえてくればその状態である特定の音に焦点をあててきくことができる。同じクラスの好きな女の子の声はやはり呪文のように薄気味悪かった。こういうことを続けているとどちらが現実でどちらが非現実であるかは意味がなくなる。支配率の問題ではなく、どちらも現実でどちらも非現実だ。ことばの意味をきくことはきかないこと、音になったことばをきくことはきかないこと。いずれにせよ、きくことはきかないことで、きかないことをきくことだ(音楽の場合、そもそも抽象的な音を扱っているのでこの例はあてはまらない。音楽はことばではない)。では見ることはどうだろう。見ることは物の認識であり、言語化を強いる。「今でもよく覚えているが、これはモンパルナスのニュース映画館でのことだった。それらはもはや人物の姿ではなく、白と黒のしみになった。つまり一切の意味を失ってしまったのだ。私は周囲の人々を眺めたが、それは私には完全に未知の光景になった」。ジャコメッティは見ることと見ないことの狭間で「私の現実」を探し続けた。肉をそぎ落として細長くなりすぎた像は空間に置かれたしみというより、捉えがたいあやうい影のように揺らめいている。



振付家名のクレジット(4)振付、振付家の呼び方  冨岡三智




前回の最後で、「インドネシア若手振付家フェスティバル」が1978年から始まり、初めて振付家が脚光を浴び始めると書いて(続く)としたのだけれど、今回は少し視点を変えて、振付、あるいは振付家をインドネシアでは、特にジャワのソロではどう呼んでいるのか、書いてみよう。

この「インドネシア若手振付家フェスティバル」はインドネシア語ではフェスティバル・プナタ・タリ・ムダといい、プナタ・タリが振付家を表している。タリは舞踊を意味し、プナタはタタする人=秩序正しく構成する人だ。振付だとプナタアンとなる。これだと、さまざまな動きや型といった要素を構成して作品に仕上げることが振付だというニュアンスがある。このフェスティバルはインドネシアで現代舞踊を推進する目的で始まったから、振付家にコレオグラファーという外来語をそのまま使っても良さそうなものだが、使っていない。

それから振付家=プニュスン=ススンする人、振付=ススナン・タリという言い方もある。ススンはつなげるという意味で、これなどは特に(他の舞踊のことは分からないのだけれど)、ジャワ舞踊の伝統的な振付を表すのに向いている言葉だという気がする。ジャワの舞踊や音楽は一まとまりのフレーズ=スカランとつなぎのフレーズの2種類に分かれていて、スカランを何度か繰り返してつなぎのフレーズがくるという構造になっている。ネックレスのようにフレーズをつないでいくイメージが、ススンという語にはあるように感じられる。

外来語のコレオグラフィー、コレオグラファーという語も、インドネシアでは1961年に始まるラーマーヤナ・バレエで使われている。(それ以前からすでに使われていたかも知れない。)この場合は、新しい伝統舞踊劇のジャンルを表すのにバレエという西洋語が用いられているから、その振付家にもコレオグラファーという西洋語を用いたのかなという気がする。

けれど、現在ではコレオグラファーという語を聞くと、伝統的でない/現代ものの舞踊作品の振付家をイメージしてしまう。私が留学している時に、授業で自分の好きなコレオグラファーを選んでその作品の特徴を書いてくるという宿題が出たことがあった。生徒が選んだのはほぼすべてインドネシア国内の現代舞踊家で、芸大や芸術高校の履修科目に入っている、とても有名な伝統舞踊作品の作者の名前――クスモケソウォとかマリディとかガリマンなど――はぜんぜん挙がらなかった。そのことに先生は大きくショックを受けていたけれど、実は私自身もこれらの人々のことに思い至らなくて、それがショックであった。確かにこれらの人々もコレオグラファーと呼ぶべきなのだ。それを失念していたのは、これらの人々の作品がすでに古典化していて新しい作品という感覚が無くなってしまっているからかも知れないし(これらの人々が活躍したのは戦後になってから)、またコレオグラファーという外来語から、どうしても欧米スタンダードの現代的な作品を振り付ける人を想像してしまうのかも知れないと感じている。

インドネシア・ソロの芸大では、このコレオグラフィーという語と、それからコンポジシ(英語のコンポジション)という語が振付を表す語として使われていて、両方併記されることも多い。どちらかというと2000年頃以前はコンポジシの方がよく使われていて、それ以後はコレオグラフィーが代わってよく使われるようになった気がする。コンポジシは、音楽科では作曲の意味で使われている。もっともそれが英語での普通の使い方だろう。英語圏では舞踊作品や舞台芸術作品を作ることにもコンポジションという語を使うのか、私は知らない。(少なくとも私の辞書にはその使い方は載っていない。)

このコンポジシという語は、基本的には伝統的なテクニックから離れた振付を指すのに使う、と芸大の先生は言う。では芸大では伝統的な手法で振り付けたものは何と呼ぶのかと聞くと、それはガラパンだという。ガラパンとは辞書的には「作る」という意味のようであるが、ジャワでは音楽や舞踊をアレンジ・演出することを指している。卒業制作でガラパンするというと、だいたいワヤン(影絵)でおなじみの話を、自分なりに新しくアレンジして舞踊劇に仕立てていることが多い。その場合は伝統的な舞踊や音楽のテクニックを中心に使っている。

その他に、現在のソロでほとんど聞くことがないが、クレアシ・バル=新創造という語がある。クレアシは英語のクリエーション=創造のことだ。この語はソロではバゴン(故)というジョグジャカルタの現代舞踊家の作品に対して使われることが多く、他のジャワの舞踊家の作品に対しては使われないように思う。ジョグジャカルタの音楽家や留学生からは、バゴンに関係なく、新しい表現というニュアンスでこのクレアシ・バルという語を何度も耳にしたことがあるから、ジョグジャカルタではよく使う、あるいは使っていた語なのかも知れない。

ソロの芸大の舞踊科の先生からこんな話を聞いたことがある。あるとき地方(ソロ近郊)でのクレアシ・バル・コンテストの審査員を頼まれ、どんな振付作品が出てくるのかと楽しみにしていたら、ディスコ・ダンスのようなものばかりだったそうだ。いまやクレアシ・バルは地方ではディスコ・ダンス風のものだと理解されているらしい。

このように思いつくままに挙げてみたけれど、インドネシアは地域によって言語も舞踊も音楽も異なる。インドネシア語が共通語だといっても、地域によって音楽や舞踊の概念が違えば、振付家、振付を表す言葉だって異なるだろう。たとえば、振付という行為がススナンという語で表すのが不適切な地域だってあるかも知れない。おそらく芸術大学や芸術高校がある地域間では、学校の人材交流の中で言葉もある程度共通化してくるのだろうけれど、まだまだ他にも振付、振付家を指す語がたくさんあるのではないかと思っている。



ありがとう  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




ありがとう
ぼくのボールペン
借りて使うこともある
ありがとう
コーヒーショップの主人がくれた紙
店員がおかしがる
ラオスだかイランだか
なんだかわからない
苦痛でもあるみたいに
むっつり考え込んでいる


人びとが行き交う
楽しげに
赤ん坊も子供もいきいき
ショッピングセンターの中の庶民
大都会の人びとは
スーパーマーケットのように色とりどり


ありがとう
こんな雑踏の中で
ひとりでいられる
何か書けるしあわせ
ありがとう
ボールペンと紙
ありがとう
店員さん
この場所に坐らせて
いてくれる好意
安いコーヒー代で
チップははずむから。。



この歌も「おやじは忍耐強かった」という最近のアルバムにあります。昔は道路沿いのどこにでもあった一膳飯屋で飲み物もだしてくれるようなところに、スラチャイは好んで坐っていたものでしたが、この歌では大きなショッピングモールとかデパートの入り口付近にあるコ−ヒーショップに坐っているようです。バンコクはすっかり変わってしまって、スターバックスだってあります。しゃれた喫茶店も数知れません。でもスラチャイはちっとも変わらず、モダンなコーヒーショップの中にも自分の居場所をみいだしていますね。

スラチャイは大勢のともだちといっしょに坐っていても、突然何か書きたくなると、眼が宙を見ているようになってもう誰のはなしも聞こえないくらい没頭しています。それでノートとボールペンをいつも持参しているかというと、そんな用意周到なところは微塵もありません。そのとき周りにいる誰かかれかに借りて書くのです。そんなことを何十年もやっていて、「ありがとう」ということばがででくるのでしょう。きっととてもたくさんの人たちに。

3月末にバンコクに出かけた折、タマサート大学のサッカー場(水牛楽団も昔うたったところです)で津波のチャリティコンサートがあると聞いたので行ってみました。カラワンが出るのはいつも最後なので10時過ぎに行ったにもかかわらず、結局出てきたのは夜中の12時。直前出逢ったスラチャイはステージの後の木枠のようなものの上で寝ていました。具合が悪いとのこと。

モンコンのはなしでは津波以来、南タイへもたびたび行ってチャリティコンサートをしていたようです。復興したのは観光地だけで漁村と漁民はなおざりにされたままだと、彼はおおいに憤慨していました。カラワン意気軒昂なり、ですが、スラチャイの方は身体がもうハードスケジュールについていけないみたいでした。

スラチャイは舞台にあがるとギターを抱えて、開口一番「人が少ないね、まあ人が少なくてもマイペンライな〜(気にすることはないさ)」と少し寂しそうな面持ち(こんな夜中まで子連れで五、六十人の人が坐ったままでいるほうがびっくりです、わたしからみれば)。1曲めは年末の津波の犠牲者を悼む歌「アンダマン海」。哀しい響きでした。(荘司和子)



帝国の周辺で  高橋悠治




カフカがブラームスの音楽をきいて音が壁になって立ちふさがる息苦しさを感じたとき、そこには第1次世界大戦前のオーストリア帝国がシロアリにかじられた古い家のようにまだしっかり立っているように見えていたはずだ。非音楽的なネズミ族のプリマドンナであるヨゼフィーネが思わせぶりに空をあおいでポーズをとり、声にもならないほどのかすかな一鳴きを残して姿を隠し、伝説として記憶されることを想像しながら、それを音楽にしようと試みたことがあった。かぼそいたよりない声、ひびわれた声、自分ではどうにもならないすでに踏みだした一歩のような、どのように終えたらいいかわからずに中途で放棄されてそのままに消えかかる声。だが、ネズミが穴を開けるだけの密度が残されていた壁は、そこにはなかった。見かけは土壁のような、希薄な空中に浮かぶ影の膜がかかっているばかり。その希薄さに耐えられず、不透明になるまで塗りを重ねて、せっかくの息のつける空間はだいなしになった。

カフカは雪のなかに立っている樹について書いていた。しっかり根を張っているように見える。だが見かけだけかもしれない。しかしそう疑うのもまた思い込みかもしれない。

と書いてから、カフカが書いた文章を見なおすと、記憶はまるでさかさまになっていた。樹はそれを書いているカフカでもあり、雪の上に見えている部分しかない根無しの樹で、ちょっと押せば押しのけられてしまう。だが樹は見えない根をしっかり張っている。と思ってもそれも見かけだけかもしれない。

順序が逆のように見えるが、それだけではない。記憶が逆転しているのは、カフカの時代と現在のちがいでもあるだろう。崩れかけていても、見かけを保てるだけの実質が残されていた壁のなかで生きていながら、そこに穴を掘り進める小動物と、はじめから実体のない予測と思い込みでできている情報文化のなかで抵抗しても、夢のなかで穴に落ちるように、落ちることも夢で、じつはそのまま宙吊りになっている、というのも夢のなか。

こどもの頃見た夢では、この世界はじつはおもちゃ箱のなかの人形の夢で、ふと気がつくと、空のかなたにじっと観察している眼が一つ見える。と書いてみると、これはだれかが書いていたことを、こどもの頃の夢だと思いこんでいるのかもしれない、という気がしてくる。

書いていることが、書かれていることで、ことばの向こうには何もない、というような世界は、テレビで見ている戦争や事故のようなもので、薄いディスプレイとそれをちらちらながめる眼の他に現実はない、南京大虐殺は、アウシュヴィッツはなかった、と歴史を否定するどころか、ニュースを見ながら、イラク戦争はない、と現在形で言えるのが、グローバリズムの政治理論なのだろうか。

現実はここにはなく、どこか他にある。画面から消えた人間はそのままどこかに消滅してしまい、最初から生まれてもいないし、残された記録はすべて偽物で、ただの文字と画像でしかなかったとすると、そういう場所で物語や絵や音楽を作っている意味はどこにあるのだろう。幻覚の上に幻覚を塗り重ねて、他の世界が見えなくなるようなスクリーンを窓だと思わせ、自分でも信じるためだろうか。

アーカンソー州兵の連隊がイラクに送られて、知らない土地で無意味な作業をくりかえし、毎夜のパトロールを済ませて今日もまだ生きているとほっとする。そんなテレビ番組を見た。世界のどこにでもアメリカ軍が出没して、世界にアメリカを運び、アメリカの薄いスクリーンを雪のなかの樹に投影すると、雪も樹も、そこにはないことばを指す記号になる。そんな世界でことばを押しのけて、まだ残っている何もない空間で、一息つけると思うひまもなく、やがて空間に無数のひびが入り、たくさんの腕や脚がそこから生えて来る。そしてまた日々の作業がくりかえされる。

ピアノを弾きながら、一つの音と次の音とのあいだにある時間を感じる。そのあいだに無数の瞬間があると考えて、リズムを崩しながら次の音をすこし押しやって隙間をひろげる。すると指はゼノンの矢のようにそのあいだの空間を渡りきることができずに、時間の穴に落ちてしまう。重ねられた音がずれて断層が見える。限界を越えると地滑りが起こり、音楽は無意味な音の堆積に変わる。こんなことが十年に一度は起こると、それが合図になって、ちがう周期に入る。それでも、並行するとなりの軌道に飛び移るようなものだ。やがて、同じ場所を走っていることに気がつく。そしてそれのくりかえし。



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