2005年6月 目次


電子「公共圏」はどこへ行った(1)     石田秀実
「水牛のように」第2楽章          御喜美江
循環だより                 小泉英政
アミラ・ハスと写真           くぼたのぞみ
昼間の停電に思う              冨岡三智
不自由の女神                佐藤真紀
しもた屋之噺(42)            杉山洋一
山野は慟哭する     スラチャイ・ジャンティマトン
運び屋                   三橋圭介
製本、かい摘まみましては(8)       四釜裕子
『クモラス』論──緑の虱(8)       藤井貞和
ある風景                  高橋悠治



電子「公共圏」はどこへ行った(1)  石田秀実




  1.

1964年の時点でマクルーハンは次のように書いていた。今では懐かしくすらある一文である。

「電気メディアは、空間的次元を拡大するというより、無効にしてしまう。電気のおかげで、われわれはいたるところで、ごく小さな村にいるかのような、人と人との一対一の関係を取り戻す。それは深層における関係であり、機能や権限の委任とは無関係な関係である。………お説拝聴に変わって対話が生まれ、最高の権威者も若者と親しく言葉を交わす」(M.マクルーハン著 『メディア論―人間の拡張の諸相』栗原裕等訳みすず書房、1978年刊)。

これは、K.ポパーが1950年に綴った次のような文章と、たぶん同じような事態を想定してのことだったろう。

「私たちは人と人とが決して顔と顔を突き合わせずに住む社会を、考えることができる。すなわちそこでは、あらゆる職業が、タイプ打ちの手紙か電報で通信しあい、閉め切った車で動き回る、孤立した個人の群れによって営まれるのだ(人工授精すれば、人と人との付き合いぬきの繁殖すらできるようになるだろう)」(K.ポパー著 『開かれた社会とその敵』小笠原誠等訳 第一部 未来社、1980年刊)。

同じように「ある種のユートピア」について語っているにもかかわらず、両者の思い描く人間関係が正反対であることに注目しよう。マクルーハンは、遠いところにいて互いに会うこともできない人同士が、電気メディアによるコミュニケーションによって「ごく小さな村にいるかのような、人と人との一対一の関係、深層における関係を取り戻す」と予想した。他方ポパーはといえば、むしろ人と人とが「決して顔を突き合わせずに済む」そのことにユートピア性を見出し、「閉め切った車で動き回る孤立した個人の群れ」によって営まれる未来社会を夢想した。

電気メディアによるコミュニケーションが現実のものとなった現在、両者の予想のどちらが現実化しているか考えてみることは、この種のコミュニケーションの未来を考える上で重要だろう。もちろんポパーの時代には、テレビやウェブによるコミュニケーションなど考えられていなかった。一方、マクルーハンの時代には、テレビの可能性が最大限考えられていたから、彼の思い描いたユートピアにおける人間関係が、ポパーと異なり、かくも身体性を帯びた深く親密なものとなったのだ、と考えることもできる。

だが、現実をもっとよく見よう。マクルーハンの夢は、すでにずいぶん前の現実で、今の現実はそれをはるかに追い越している。私たちのウェブは、テレビ電話どころではないコミュニケーションを可能にした。映像をリアルタイムでどんどん送りつけることも可能である。

でもそれで、わたしたちのコミュニケーションはどうなったのか。私たちのコミュニケーションは、「ごく小さな村にいるかのような、人と人との一対一の関係を取り戻し」、私たちの世界は、誰とでも親しく口誦的で、深層の深いコミュニケーションが可能な理想のグローバル・ビレッジ(いわゆる「世界が百人の村だったら」)になったのだろうか。

そんなことはない、というのが正直な答えだろう。なるほど私たちのウェブは、もともと軍事用に開発されたためもあって、ともかく速い。速すぎて、誰もまともに考える余裕が生まれないくらいだ。そしてそれはしばしば極端に切り刻まれていて、断片的だから、全体が見えないことも多い。結果として、これだけたくさんの人が、いやになるほどおしゃべりを戦わせているウェブや各種テレビメディア上で、多少とも全体の見える、整合的でまとまった情報を持っている人がほとんど見当たらないといったことが起こる。

なるほど電気的コミュニケーションは、ウェブやテレビ、携帯電話のスクリーンを介在して、人と人とが一対一に相対している「かのような」状況を作り出す。でも、それだけで私たちの間に「グローバル・ビレッジ」という名の「村」と、その村が私たちに提供してくれるであろうような「深層的なある種の共同性」、およびその共同性が保証する身体レベルでの深い安らぎが、芽生えたわけではない。

現実に生じたのは、速すぎる断片的な情報に振り回される人々の群れと、グローバル・ビレッジとは程遠い、小さな小さな(ほとんど極私的な)サークルや、因習的だとして近代が捨て去ったはずのエスニック共同体、あるいは偏執的なナショナリズムの、さまざまな形での、ほとんどグロテスクな復活である。グローバル・ビレッジは、知識人の観念の中で生まれただけで、現実化しなかったのだ。

少なくとも、グローバル・ビレッジは、ビレッジ(村)という名が予想させるような「共同性」を現実に与えることはできなかった。だから人々は、近代という体制によって喪失させられてしまった自らのアイデンティティ(これはある共同体に帰属することによって生まれる種類のアイデンティティである))を求めてさまよい、極私的なサークルに安らいだり、因習的なエスニック共同体や国家ナショナリズムに一体化する道に舞い戻ったのだともいえよう。

  2.

マクルーハンはどうして「ごく小さな村の親密なコミュニケーション」を理想と考え、そこに「いるかのような」状況が、電気的コミュニケーションで可能になると考えたのだろうか。

近現代という社会が理想としたのは、自律的で理性的な、したがって因習的共同体から抜け出した(もちろん大部分の人々は、むしろ囲い込みや地租改正など、姑息な手段によって抜け出したというより追い出されたのだが)ばらばらな個人からなる人々の群れが、国民国家という一見共同体にみえなくもない「競争の場」や、その国民国家群の下位に置かれてしまった「国際社会」なる「「無法地帯」で、さいしょから公平性を欠いた競争をしあう(余儀なくされるというべきだが)状況である。

「小さな村にいるかのような関係性」は、そうした近現代という社会にとっては、アナクロニズムのはずであった。近現代社会のモデルとしては、孤立した人々の群れによる寂しい社会を描いたK.ポパーのモデルのほうがよりふさわしいはずである。というより、近現代社会は、K.ポパー同様に、そうした状況こそ理想と考えているのだから、マクルーハンのように「小さな村」モデルを持ち込むこと自体、おかしいのだ。

もちろんマクルーハンがどうしてこのようなことを口走ってしまったかを推測することはできる。彼はやはり近現代社会の「共同性を喪失した孤立した個人の群れ」に、やりきれなかったのだ。このロマンチックな反近代志向のユートピアニズムの立場から、彼は電気的コミュニケーションが、なぜか「失われた共同性を再び回復させるはずだ」と信じ込んだ。根拠は、きわめて単純、テレビをはじめとする電気的コミュニケーションが与えてくれるはずに見えた「擬似的な身体性」である。「ごく小さな村」「親密なコミュニケーション」「深層」といった彼の言葉は、こうした身体レベルにおけるコミュニケーションへの期待を示している。

言うまでもなくこうした期待は、矛盾している。自立したばらばらな個人をモデルとした近現代社会の産物としての電気的コミュニケーションが、逆説的にも反近代的な「小さな村の身体コミュニケーション」を可能にするようなことがあるだろうか。もしそうであるなら、電気的コミュニケーション回路に閉じこもっているオタク達のあいだにこそ、「小さな村の深層における関係性や身体的コミュニケーション」が浸透していることになるのではないか。マクルーハンは、彼らオタクの孤立や閉じた回路を、どのように説明するだろうか。(なつかしいパク・ナム−ジュンのビデオ作品のなかにも、マクルーハン同様の近代主義と反近代へのあこがれとのないまぜになった感情を読み取ることができたような気がするのは私だけだろうか)。

リアルタイムでの画像のやりとりとか、双方向のコミュニケーションといった、私たちになじみのキャッチフレーズを用いて、メディアが宣伝し、私たちに信じ込ませたがっているのも、マクルーハン同様の擬似的な身体性だろう。擬似的にであれ、身体が触れ合う「かのような」体験を可能にしてくれる状況を作り出せば、かつて身体性豊かなコミュニケーションが可能にしてくれたような「ごく小さな村での共同性」を、私たちは取り戻しうる、と思い込ませたいのだ。しかも、グローバルな規模で。

それが立脚している社会の現実を考えれば、こうしたCMは、この索漠とした近現代砂漠のなかで、私達が夢見てしまう反近代的共同性へのあこがれ、あるいはそれへの郷愁に、媚びているとしかいいようがない。幻想をかきたてるだけの、ずるい商業的戦略である。擬似的な身体性に幻想を膨らませるのは、オタク達がそこに閉じ込められていると同じ種類のフェティシズムだからである。


  3.

グローバル・ビレッジなる共同体が成立するとしよう。この地上にあるほとんどの共同体は、ある範囲を囲み、その外側を排除することによって「共同体」として成り立っている。すると「グローバルな」共同体は、地球すべてを囲むのだから、その外に排除される(地球人としての)他者が原理的にはないことになる。

もちろんかつてこうした共同体を想像し、そこに自己のアイデンティティを見出しえた人々がいなかったわけではない。ただし彼らは通常、コスモポリタンと名づけられた故郷(共同体)喪失者であった。シノペのディオゲネスによって唱えられたとされるコスモポリタン(宇宙市民)という言葉自体の成り立ちが、かれらの出地を語っている。ギリシャの都市国家(ポリス)が滅びていく過程で、ポリスの(すなわち共同体の)制約から抜け出た、何者にもとらわれない人を指す言葉として、コスモポリタンなる言葉は生まれたからだ。

つまりかれらは、共同体を抜け出てしまった、そのいみでは「ビレッジにもはや住まない」人々である。「ビレッジにもはやすまない人々」からなる「グローバル・ビレッジ」とは、どのようなビレッジなのだろうか。それは「共同体を抜け出たり、追い出されてしまったばらばらの個人」を理想とする近現代社会と、どう異なるのか。

後ほどジャン=リュック・ナンシーや古東哲明の思考に触れる形で、わたしはこうした「ビレッジにもはやすまない人々からなるグローバル・ビレッジ」の問題に戻ろうと思う。だが、その前に、共同体の問題とは少しはなれたところで、グローバルな公共圏なるものを考えたもうひとつの思想を検討しておこう。アドルノとホルクハイマーの理性と啓蒙批判を受けつぎつつ、批判的理性者の「絶えざる」対話が生み出すであろう「公共圏」を夢想した、ハーバーマス系の思想である。彼の公共圏は、その絶えざる対話という条件を考慮すれば、ウェブのような速いコミュニケーション回路でこそ可能となるだろうからだ。





「水牛のように」第2楽章  御喜美江




アコーディオンの楽譜とCDを専門に扱っている、あるドイツのミュージック・ショップから、3日前に1通のメールがきた。内容は「ウィーンのシャイベンライフ氏からメールで『非常に面白いCDを新しくリリースしたが、興味がありますか?』との問い合わせがきた。高橋悠治の「水牛のように」らしいが、なんでも8人の奏者に加えてオリジナル・ソングや様々なポエムも入っているらしい。8人も弾いているのだったら、貴女ももしかして参加しているのではないかと思ってメールをした。もしこのCDのことを知っていたら、ちょっと教えてほしい」これを読んだとき思わず「なるほど、これぞ水牛:第2楽章」と感慨深い気持ちになった。

高橋悠治作曲アコーディオン・ソロのための「水牛のように」が1985年に作曲されたとき、何の宣伝もしないのに、譜面の注文がどこからともなく起こり、コピー譜が地球のあちこちに送られた。私の手から異国の地に住む見知らぬアコーディオン奏者たちに送られた譜面は、そこからまたさらに旅を続け、水牛の譜面はだんだん薄く読みづらくなりながらも、静かに歩み続けた。このはなしは2001年6月号に詳しく書かせていただいた。

それから20年が経ち、2005年4月1日に“4人の(8人ではない!)アコーディオン・ソロによる「水牛のように」”が水牛レーベルからリリースされたとき、私はほんとうに、ほんとうにうれしかった。そして編集長の八巻美恵さんへ以下のメールをおくった。

     *

素敵なCDが出来上がって
それが何より!!!!!
これからは私ものんびり、ゆっくり、
楽しみ味わいながら、売ったりプレゼントしたり
世界に【水牛CD】をばらまきます。
足りなくなったら、連絡します。
"水牛のように"の手から手へが、第2楽章に入ったみたいです。

      *

美恵さんからのお返事は:


ほんと!
第2楽章もうつくしいものでありますように。

    *

ところでシャイベンライフ氏とは、このCDの中で演奏とロシア語のポエムを朗読しているフリードリヒ・リップス氏の友人&マネージャー。この文面を見るかぎりでは、まるでリップスがリリースしたように聞こえる。すご〜くおかしいなぁと笑いながら、でも何とも幸せな気持ちになった。

もう一つ。5月23日、ヘルシンキのシベリウス・アカデミーでアコーディオンを勉強しているヘイディという女学生が私の大学に聴講にきた。遠路はるばる訪ねてきたのだからプレゼントとしてこの「4人の水牛CD」をあげようと思ったら、「そのCDなら、もう持っているわ」と言う。フィンランド人でこのCDに参加しているマッティ・ランタネン氏には、4月4日に日本から35枚を小包として送ったが、はたして着いたのか着かないのか何の返事もない。「気に入らないのかな〜」と心配で、こちらからも連絡をしなかったのだが、ヘイディ曰く「マッティはこのCDがとても自慢です」とのこと。それを聞いて私は心底ホッとした。

そしてもう一つ。5月21、22日はハンブルクにおいて全国音楽大学コンクールがあった。これはドイツ国内でアコーディオン科のある大学がそれぞれ2人の学生を参加させるコンクール。大学試合のような雰囲気もちょっとある。ここでは何と「水牛のように」が課題曲で、第一次選では12回の水牛を聴いた。ワイマール音大の学生はテンポがとても速く、大きな音で元気いっぱい。このような水牛を聴いたのは初めてだったのでちょっとびっくりしたが、と同時に20年経ってもまだまだ変化があるのことにいたく感激。

ところで、やはりこのCDに参加しているエルスベート・モーサー女史がコンクール開催会場に来ていたのだが、トイレで「ねぇミエ、これだけ様々な『水牛』を聴くのって、最高に面白いと思わない? これでまたCD作ったら?」との大きな声がドア越しに聞こえてきた。そうね〜、たしかに面白いかもしれないけど……

ちなみに私このコンクールでは、花粉症の悪化と風邪で声が全く出なかったから、一言も喋れない惨めな審査員。わがエッセンのフォルクワング大学から参加しているアレキサンダー・マトロゾフとマルコ・カッスルには仕方がないので前の晩に「声が全然でなくて電話ができないけど、明日は討論を全く必要としないような圧倒的な演奏をしてほしい」とのメールを携帯に送った。「そのような演奏をするよう心がける!」との返事があって、結果はアレキサンダーが第一位、マルコが第三位になった。アレキサンダーは詩をロシア語で朗読したあと、静かに流れるような美しい『水牛』を演奏した。マルコは軽く爽やかで明るい『水牛』。う〜ん、確かに面白いと改めてこの音楽に感動。

譜面が手から手へ旅した第1楽章に続く、第2楽章“4人のアコーディオン・ソロによるCD『水牛のように』”も確実に旅を始めた、ということを実感する5月だった。
ここでも何か素敵なことが起こりそうな予感がする。

(2005年5月30日ベルリンにて)



循環だより  小泉英政




 
  立夏・豊作

いつもながらゴールデンウィークのあたりに五月の嵐がやってくるのだが、今のところそれがない。激しい風雨、時には雷、大粒の雹を伴うこともあるから過ぎ去ったあとの畑は無残だ。そんな記憶や不安など忘れなよと、夏の始まりの畑は満面の笑みをうかべて、ぼくたちを迎えてくれる。

少量多品種栽培の循環農場の畑は多彩だ。色や形や大きさのちがう野菜たちが整然と、でも伸びやかに並んで波うっていて、思わずうっとりとしてしまう。

サニーレタスの紅、エンダイヴの緑、ミニレタスの黄緑、小松菜、小かぶの緑、べか菜の黄緑、マスタードグリーン、クレス、ルッコラ、コリアンダーが続き、さらに、ラディッシュ、レタス、サラダ菜などが並んでいく。レッドキャベツの紫、キャベツ、茎ブロッコリーの緑が続き、その先にフキ畑が微風に揺れ、畑を守るようにコナラやシラカシ、モミジたちの新緑がまぶしく輝いている。

初夏のお陽さまにあたり、そんな風景を仕事の合間に見ているだけで心が洗われる。

今年は今のところ、全般的に野菜たちの生育がいい。落ち葉堆肥と米ぬかの発酵肥料が適量ほどこされていて、考えあぐねている野菜は少ない。例によって畑のなかで野菜たちにかじりつく。一時は霜にやられて、どうなってしまうかと心配した小かぶさん、個体数が減ったために、ひとつひとつが大きくなって、とってもジューシー、春播きのホーレンソウ、甘みはないがアクが少なくシャキシャキといただいちゃう。ミニレタスをバリバリ、ラディッシュをポリポリ、野菜たちが元気に育ってくれると、幸せな気分になってくる。

「考える野菜たち」は「考えあぐねる野菜たち」と紙一重で、ちょっと不安定なところがある。「考える野菜たち」のその先に見えてきた伸びやかな野菜たち、見ていて心がはずむ野菜、解放的で自由な野菜、それは生産者にも会員の人たちにも安定感と幸福感をもrたらしてくれる。

今年は豆類もとっても元気。さやエンドウ、スナックエンドウ、グリーンピース、どれも目を見はるほどで、白い花が次々と咲いている。豆採りが大変だとおそれをなすほどなのだ。

カモミールが匂い、玉ねぎがふくらみはじめ、麦が出穂し、キャベツも巻きはじめてきたよ。

セロリを植え、トウモロコシの種をまき、しょうがを植え、これから、里芋、ナス、ピーマン、ミニトマトと続いていく。夏も秋も、そして冬も、豊作でありますように。



アミラ・ハスと写真  くぼたのぞみ




ここ1年あまり、窓に面した仕事机に向かうと、左手の、天井まで届く書棚のまんなかあたりから、1枚の写真がじっとこちらを見ていた。ネットからダウンロードして印刷し、縁なしのフォトスタンドに入れた、アミラ・ハスの正面写真だ。こちらを射すくめるようなその眼差しにうながされて、わたしはパソコンの蓋を開け、キーボードをたたく。そんなふうにして、のろのろと、このユダヤ系イスラエル人ジャーナリストの著書「Reporting from Ramallah」の翻訳は進み、5月の連休明けに、ついに『パレスチナから報告します――占領地の住民となって』(筑摩書房 本体価格2400円+税)として書店にならんだ。内容はタイトルが示すとおり、とても具体的だ。
訳書のカバー折り返しに使われた著者の近影写真は、斜め前方やや下側をじっと見つめる横顔で、読者を睨みつけることはないけれど、凛としたその表情が、見る者の想像力をかきたてる(撮影は、解説とインタビューを担当していただいたフォトジャーナリストの土井敏邦さん)。

英訳として出た原著は小型のペーパーバックだった。全4章の扉の前に、それぞれ見開き写真が使われている。日本語訳もそのかたちを踏襲したが、版権の都合で1枚だけオリジナルと異なるものがある。第2章の扉に挿入された写真だ。日本語訳ではカバー(すばらしい仕上がりで、装丁家の間村俊一さんに感謝!)にもなったイスラエル兵とパレスチナ人の写真の代わりに、原著で使われていた写真には、前方右手に洗濯バサミでロープに留められた洗濯物と、その下を走る白い乗用車、なかほどの上り坂を移動する戦車、そして後方に瓦礫の散らばる空き地と樹木が写っていた。コラージュではない。パレスチナの日常だ。洗濯物、乗用車、戦車、瓦礫、そして樹木が、1枚の写真におさまる日常。はじめて見たとき、なぜそこにこの写真があるのか、わたしにはとっさに意味がのみこめなかった。

第1章の扉写真に対して抱いた感情もそれと似ていた。この遠景写真には、よく見ると中央に、ドミノ倒しさながらに、凸凹した太くて白い帯が、右肩上がりに走っている。その帯の向こう側には大小さまざまな四角い建物が密集し、こちら側には三角屋根の似たような建物が整然とならび、ゆったりとした空間が広がっている。
翻訳を終わり、もう一度この写真を見ると、この白い帯が分離壁だということはすぐにわかる。パレスチナをばらばらの飛び地に分断し、囲い込み、パレスチナ人住民の移動の自由をイスラエル軍が思いのままに操作するためのコンクリート壁。なのに、最初見たときは気づかなかったのだ。おなじ写真でも、見る側の変化によってどれほど違って見えるか、それを思い知らされる体験だった。どの写真にもキャプションがついていなかった理由も、いまならわかる。

本のみほんが出来あがった日、空はからりと晴れて、わたしは解放感に誘われ、神保町のすずらん通りにある画材店でパウル・クレーの絵はがきを何枚も買った。そして家に帰り、書棚のフォトスタンドから、こちらを凝視するハスの写真をはずして、買ってきたクレーの絵はがきを1枚入れた。いま一度、「訳者あとがき」に引用した詩を思い出しながら。

敵を恐れることはない……敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
友を恐れることはない……友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
無関心な人びとを恐れよ……かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、無関心な人びとの沈黙の同意あればこそ、
地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。

ロベルト・エベルハルト
(ヤセンスキー著『無関心な人々の共謀』より)

 

* * *

『パレスチナから報告します――占領地の住民となって』(アミラ・ハス著 くぼたのぞみ訳)




昼間の停電に思う  冨岡三智




珍しいことに、先日、5分間くらいだったが停電があった。ちょうど停電になった時には駅前商店街の西にあるお店に買い物に来ていた。別に地震も雷もあったわけではなく、五月晴れという言葉がぴったりくる日の、正午頃のことである。お店を出るところで突然電気が消え、奥に引っ込んだ店主がまた表に出てきた。辺りの店を見回しても停電している。正午とはいえ、商店街のウィンドーから照明が消えると少々寂しい。商店街を東へ100mばかり歩いていると、通り沿いの店の人がわらわらと表に出てきて、停電を確認し合っている。停電は自分の家だけかしらん、と皆思うらしい。昔じゃあるまいしねえ、と言っている角の煙草屋のおばあちゃんの声も聞こえる。商店街端の交差点に出る。ここから向こうの垣内(かいと)も停電しているようだ。インドネシア風に言うと、隣のRTも停電している。隣のRTにある銀行からお姉さん達が何人も表に出てきて、こちらのRTをうかがっている。さらに驚いたのは、交差点の信号まで止まっていること。停電では信号機も止まるなんて、今まで考えたこともなかった。

停電の商店街を歩きながら、インドネシアのことを思い出していた。インドネシア(私がいたソロ)ではよく停電したので、私もロウソクを買い置きしていたし、留学生で一足お先に帰国する人の置き土産の中には、たいていろうそくがあった。もっともロウソクが必要になるのはひどい大雨や雷で停電する夕方から夜の間だけだが、じつは普段の昼間などにもしょっちゅう、短時間、あるときは何時間か、よく停電しているのである。冷蔵庫を開けてみて、あれ停電してる、と何度思ったことか。また、芸術大学の授業が停電で中断したことも何度かある。舞踊科の実技の授業ではカセットをかけて練習する。始めのうちは先生が説明したりちょっと見本を見せたりしていても、停電が長引くと困ってしまう。

けれど、モスクのアザーンが停電で聞こえなくなるのは(不謹慎ながら)嬉しい。これはインドネシアの音風景(バリなど非イスラム圏は除く)を特徴づけるものだと言っていい。アザーンは1日5回のお祈りの時刻を知らせるモスクからの呼びかけで、スピーカーで一帯に響くように呼びかける。異教徒にとってはぎょっとするような大音量で、特に慣れないうちは、明け方これで目が覚める。アジアのイスラム圏にスピーカーを売り込んだのは日本の音響会社だという話を聞いたことがあるが、本当だとしたらハタ迷惑なことをしてくれたものだ。スピーカーが普及する前はイスラム導師がモスクの上から大声で呼びかけていたらしいが、町の小さなモスクならそれで十分だという気もするし、その方が宗教的な風情もあるだろうに。

話がそれた。ソロのような地方都市だけではなくて、首都ジャカルタでも停電はあるようだ。昨年、ジャカルタのあるお役所に夕方行ったら、停電していて弱ったことがある。役所に着くと、大勢の人がいっせいに階段から下りてくる。聞くと、30分くらい停電していて仕事にならないので、いつもより早い時間だが退社するという。えっと思ってアポを取った人に携帯電話で連絡する。その人は退社せずに待っていてくれた。が、待ってくれている以上、行かねばならない。降りてくる人とぶつかりながら、狭い階段を9階まで必死で駆け上がったが、ジャカルタのような都市でも停電はあるのかと驚いたことだった。

いまや日本では、普段の日に停電するなどと誰も予期しないだろう。駅前商店街で停電して家に戻り着いたとき、(実は私の家もその並びにある)、「電気が消えると、人間て、思わず外に飛び出すもんやねえ。」と言った母の言葉がなんだかおかしかった。停電から1時間ほどたってから電力会社の車が廻ってきて、「さきほどは、突発的な事故停電によりご迷惑をおかけしまして……」とアナウンスしていた。そうか事故か、と原因を知るだけで、なんとなくほっとする。どこかで電気工事をしていて、誤って電線を切ったのだろう。こういうアナウンスはインドネシアでは全くなかった。それだけ停電が常態化しているのか、そこまで(過剰に)親切にする習慣がないのか。逆に言えば、日本では停電はアナウンスしないといけない異常事態ということにもなるのだろう。

珍しい停電に遭遇して、日本の電力は安定して供給されているということも、あらためて思い起こす。インドネシアでは、電圧が日本ほど一定に保たれていないみたいだ。220vとあっても、うまく電力がコントロールできないとそこからはみ出すことがあり、だから電気製品がよく壊れるのだという。冷蔵庫だとかパソコンだとか、高価な電化製品を使うなら必ず電圧安定装置(スタビライザー)を使うこと、直接コンセントにさしては駄目だよ、と、パソコンが壊れてからアドバイスされた。そういえば大学のパソコンでは必ずスタビライザーを使っている。テレビだけはブラウン管を通るからスタビライザーを使わなくても大丈夫、と言う人がいたが、それが正しいのかどうか私は知らぬ。
 

最後に余談だが、インドネシアでパソコンを使っている時に、近くで雷が落ちたことがある。外は雨でゴロゴロと遠くで低く轟く音がしていたが、あまり気にならないくらいだった。私は床に直に座って、ラップトップのモバイルパソコンを、文字通り膝の上にのせて使っていた。そこに急にものすごい落雷音がして家の電気が消え、同時にラップトップからしびれるような衝撃がきて、思わずそれを放り投げてしまった。これが感電か、雷で一気に電圧が高まるんだなあ、と体感したことだった。



不自由の女神  佐藤真紀





NYっていうのは、不思議な街でかっこいい。というわけで、初めて海外に旅行したのが、87年のニューヨークであった。ソーホーの画廊を毎日見て回り、ビレッジ・バンガードではミンガス・バンドにいたダニーリッチモンドがドラムを叩いていたので感動した。でも、それから94年に日本を飛び出した私は、イエメン、シリア、パレスチナ、ユーゴスラビア、イラクと渡り歩いた。

アメリカとは見事なくらい裏側の世界で暮らしてきたので、今回NPTの見直し会議があるのでNYに行くことになったのだけど、内心とても不安だらけ。どうも居心地がわるい。居心地が悪いと思うのはどうも僕だけではなさそう。911以降のニュー・ヨーカーはいつも何かにおびえているような気がした。

例えば、サダム・フセインは一言、「アメリカがこれまで犯してきた犯罪的行為を考えれば当然の報いを受けたといえる」というような発言をした。結果、911のテロの証拠が見つからないと、もし、イラクが大量破壊兵器を持っていたら、とてつもないテロが起こる。大量破壊兵器を持っているのに違いない、だからイラクを先に攻撃しようというのが、専制的自衛権の行使である。結局、イラクは、大量の爆弾の嵐が降った。なずけて「衝撃と恐怖」作戦。すごい名前だ。

NYっていう町でテロが起きたときも、ニューヨーカーたちは「衝撃と恐怖」を感じたそうだ。もうかれこれ7年くらいNYでアートセラピーをやっている友人は教えてくれた。「みんなそれは怖がりましたよ。明日から、もうニューヨーカーじゃなくなるんじゃないかって。特に中国系、アジア系、アラブ系の人たち、迫害が始まるんじゃないかって心配したんです。だって今まで一生懸命しがみついて生きてきたわけでしょう」

なるほど、NYは移民の町だからそこで認められようと思えば、自分に何が貢献できるか体で示していくしかない

  ブロンクス

今回のイラク戦争に従軍して劣化ウラン弾のせいで体調が悪いというハーバード軍曹に会いに行った。地下鉄Dラインに乗って167ストリートで降りる。ここは黒人の居住区のようだった。住所を見せて道を聞く。今日は母の日だそうで、花屋がにぎわっている。ハーバードさんの家は3階建てのフラットで、この地域では、裕福そうにも見える。

ハーバードさんは、「家族にとって母の日はとても大切なんだ」そういうと妻へのプレゼントに添えるカードを一生懸命書いていた。

コートニー君は6歳。「父さんにあこがれて、警察官や軍人になりたいと思っていた。でも、父さんは良くないって言うんだ。将来? わからないよ」イラクの子どもの絵を見せてから、彼にも絵を描いてもらった。コートニー君はパパの絵を描いてくれるという。お父さんは、軍服を着た自分の写真を持ってきて「これを見て描くかい?」というと、コートニー君はきっぱりと「いやだ」というのだ。

イラク戦争の間は、子どもたちには、なんて教えていました? 「できるだけ、そういう話はしなかったんだ。ピアノとか、ダンスとか、そういう習い事に専念させていた。」

シモーネちゃん、8歳も出てきて絵を描いてくれた。「私も将来は、何になるか決めていない」
二人ともきちんと鉛筆で線を引いてから色をつけていく。厳しくしつけられている。家の中はこぎれいだ。
「私は、ベトナム戦争のときから軍隊や、警察で働いてきた。国を守り、家族を守ることが大切だといつも思っていた。大量破壊兵器があるというから、私は、探しにいったんだ。でも、そんなものはどこにもない。挙句アメリカ人がばら撒いた劣化ウラン弾に被爆してしまったのさ。子どもたちにはこんな仕事はしてほしくないんだ」

18年前、自由の女神なんて、きっと馬鹿らしいに違いないと思っていたら、それは、奈良の大仏に匹敵するくらい見る価値のあるものだった。心のそこから自由を感じさせる像だ。もう一度、あの時感じた「自由」を感じたくなって出かけていったが、残念ながら船に乗って近くまで行く時間はなかった。

しかし、桟橋には自由の女神を装ったおばさんが立っている。アメリカの旗を持ちながらきょろきょろとあたりを見回して、自由の女神のマスクをかぶった。この自由の女神と一緒に記念撮影する人からお金をせびっている。果たして儲かる商売なのだろうか。女神なんてしょせん不自由なおばさんに過ぎなかった。結局、肝心のNPT会議はアメリカが実用可能な小型核兵器の開発をするといって譲らず、核軍縮へ向けての合意はなんら得られず幕となった。自由の女神のマスクをかぶる前のおばさんがにんまり笑っていたのを思い出す。



しもた屋之噺(42)  杉山洋一




半月ほど前、ボローニャに一週間ほど通いつめた時のこと。毎朝6時過ぎの列車に乗って、ミラノ中央駅で乗換えには20分ほど時間がありました。ホームのバールでカップチーノを頼むとこれが案外旨くて毎日のように通いつめましたが、ガリバルディ駅のバールに似た味で、恐らく同じ豆だったと思います。朝の眠気には心地よい苦味で、南イタリアで呑むコーヒーの味に、少し似ていました。それからボローニャまで2時間弱、湧きたつ朝ぼらけにイタリアの田園風景が映えていました。

9時からの練習に間に合わせるため、駅から27番のバスに駆け乗り、中央にそびえるアシネッリとガリセンダの斜塔を過ぎ、石畳の辻に差し掛かった処で降りると、街の朝独特の匂いが立ち昇っていました。挽いたばかりのコーヒー豆の香りと、焼き上がった菓子パンの甘い匂いが入混じった、はつらつとしたイタリア独特の暮らしの匂いです。アーケードのつづく赤煉瓦の街並は、とても美しくて、練習前から豊かな心地に気分になれます。

ボローニャを訪れるのはほぼ10年ぶり。街と人の素晴らしさに改めて感嘆するには充分過ぎる時間でした。練習場の門前で作曲のアラッラと演奏者のみんなが出迎えてくれて、練習中はいつも楽しく、気持ちの良い仕事ができました。

ボローニャのアンジェリカ音楽祭は、クラシックからジャズ、ジョン・ゾーンまである、なかなか面白いフェスティバルで、コントラバスのスコダニッビオが演奏会をするとあったので、練習に遊びにゆきました。
「俺は棒振りじゃないから、恥ずかしいぜ」と、自作を振りながらはにかみつつ、満更でもない様子が愉快でした。

ノーノの「プロメテオ」の最初の独奏者の一人で、世界中の難曲をたやすく演奏する名手として、名前は昔から知っていましたが、数年前にローマで初めて一緒に仕事をしたとき、噂どおりの辣腕に文字通り舌を巻きました。あそこまでいくと、チェロを立って弾いているようにさえ見えますが、魅力的なのは、彼の演奏が鮮やかで生命力に溢れていて、まるでスリリングなジャズ・ベースの魅力を、現代作品で体現する感じがするからです。

この2月にも、学校で彼にばったり会いましたが、丁度テリー・ライリーと演奏会をするところで、即興にも長けた彼の一面を思い出しました。今夜のミラノ現代美術パビリオンでの演奏会で、Mdiがスコダニッビオの「Mas Lugares」を演奏するので、彼もリハーサルから立ち会ってくれるはずです。

今夜のためパリから訪れている作曲のペソンも、独特の魅力に溢れた人物です。二日前に空港で会うと、想像より一回り小柄な紳士が現れました。彼からのメールはいつも仏語で、こちらも不得手な仏語で返していましたが、会ってみると伊語が思いのほか堪能で驚きました。イタリアの現代文学にも通じていて、長く音楽雑誌の編集にも携わり、著作も多い彼の一面を垣間見ましたが、ミラノは初めて訪れるという彼のために、パビリオンの辺りを散策しようと地下鉄に乗ると、目的の駅の一つ手前で、「本日、交通封鎖のため、次の駅には停車しません。パレストロに御用の方は、当駅で下車願います」というアナウンスが流れ、何かと思って外に出ると、目の前のブエノス・アイレス通りは一面の人だかり。くしくも自転車レースの「ジーロ・ディタリア」の最終日で、その上、運悪く丁度ゴールの処に出くわしたわけです。目当てのパビリオンはレース・コーナーで仕切られた中央にあって、外からはどうやっても渡れないようになっていて、仕方なく、ドームの裏、スカラ座脇と進んで、ブレラ地区の路地をのんびり散策しました。

ペソンは、ジェルバゾーニに言わせると、「フランスのドイツ音楽」とでも言う対象なのだそうで、確かにラッヘンマンとシャリーノの影響はあるかも知れないけれど、音楽はどこまでも透明で、深い慈しみに溢れています。観念で人間の生理を無視するわけでも、情熱で周りが見えなくなるわけでもなく、音一つ一つを丹念に磨き上げていて、演奏するたび、奏者に喜びを与えてくれます。

彼との練習も、とても内容が深いもので、今まで曇っていた古い銀食器を少しずつ磨いていき、それが最後には思いがけない輝きを放つような、貴重な時間を共有することが出来ました。さて今夜は、その素晴らしさをどこまで聴き手に伝えられるでしょうか。

緑に囲まれたガラス張りのパビリオンと、佇んでいる色とりどりの美術作品たちは、静謐な彼の魅力を、美しく縁取ってくれるに違いありません。さあ、そろそろ彼を迎えにゆき、最後のリハーサルにかかることにします。

(5月31日モンツァにて)



山野は慟哭する  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




列車が
旅路の半ば
おふくろの命を奪った
あとかたもなく
その夜月も星も暗く
山野は慟哭し
森林はざわめき
村も田も風に身を震わせて
おふくろを悼みうち沈んだ


故郷からの手紙が
変化を伝える
社会は中から腐敗 国家は退廃
もう治療できる範囲を越えている
庶民は泣くにも涙が枯れた
1981年リー村長が鐘をたたいて
村民集めた
焼け付く日照りに干上がって
村には年寄り、老人、老婆
干からびた顔並べて
米が高い 物が高い
リー村長返すことばもない
若者は天秤と籠捨てて
パーシン(腰巻き布)をジーンズに穿き替え
都会へ
男は生きるため労働売り
女は食べるため身体売る
眼もかすんだ老婆が孫と
乞食になって身を晒す


手紙の最後におふくろの消息
田畑と共に生きてきた人、おふくろの


列車が
旅路の半ば
おふくろの命を奪った
あとかたもなく
その夜月も星も暗く
山野は慟哭し
森林はざわめき
村も田も風に身を震わせて
おふくろを悼みうち沈んだ
村も田も風に身を震わせて
おふくろを悼みうち沈んだ



この歌はカラワン楽団が水牛の招きで初めて来日したとき(1983年)持ってきたアルバムのタイトルだったと記憶しています。スラチャイが北部の山岳地帯にいたとき故郷の友からきた手紙で母親の死を知った、と聞きました。汽車で東北の町、スリンに帰ってくるはずなのに戻ってこなかったのだそうです。スラチャイの父親が探し回ったけれど、ついにその遺骸もみつからなかったそうで、途中の森林地帯で汽車から落ちたのではないか、とスラチャイは言っていました。

スラチャイはバンコクで歩道橋の上やたもとにすわりこんで物乞いしている老婆を眼にするたび「おふくろを思い出す」と、言っていて、東北方言で「おふくろ」という歌を作っています。自分の畑でとれた野菜を市場にもっていって売っていたという老いた母の姿が、バンコクの物乞いの老婆にいつも重なって見えていたようです。父はたしか村の小学校の校長でしたが、当時のタイの公務員の給料はあまりにも低かったのでたくさんのこどもたちを学校に行かせるためには母の努力があったことをスラチャイはこころに刻んでいたに違いありません。

1981年リー村長が鐘をたたいて村民集めた、というくだりは1965年リー村長が云々、という昔大ヒットしたコミカルな歌をもじったものです。(荘司和子)



運び屋  三橋圭介




昔、運び屋をやっていた。運び屋は世を忍んで生きなければならない。運び屋が「わたし運び屋です」なんて顔をしたり、振るまいをすることがあっては絶対ならない。近ごろの運び屋は黒猫をつれて「わたし運び屋です」と自慢気で、さらに堂々と愛想がいい。これでは運び屋の名がすたる。運び屋の本道たるは誰にも運び屋だと悟られず、そしらぬ顔で平常を生きるのが本来の在りようであらねばならぬ。もしも運び屋の正体が知れようものなら、物(ブツ)は強奪され、ひっかき回され、皆に知らしめられ、届く物も届かないことすらある。そんなとき運び屋は運び屋たるを失格する。これを避け、息を潜め人目を忍ぶのが運び屋の使命である。

運び屋とは送り主Aと受け取り主Bを一直線に結ぶ媒介者である。だがときには運び屋は運び屋の連携によりAとBを連結させることもある。安全のための遠隔操作である。早い安いだけが仕事ではないのだ。回り道も大切なのだ、黒猫よ。だが運び屋たる私は運び屋Bが運び屋であることすら知らない。実はAも運び屋かもしれないのだ。知っているのはある時間にある場所である目印をもつある人物に物を渡すということだけである。だが私の場合は特殊事例であり、AとBを知っていたから運び屋となった。つまり運び屋である私がAとBと知っていることが重要で、AとBが内通していることが世間様にあからさまにされてはならないのである。つまり湿った関係を取り持つ影の運び屋である。

一般に運び屋は運ぶ相手のことだけでなく、何を運んでいるかも知らない。知らないでのはなく、知ってはならないのだ。これは掟であり運び屋の定めである。何を運んでいるかを詮索すること自体が深刻極まる犯罪に加担する。ときに恐ろしい薬物などを運んだりしてお縄ちょうだいとなるおっちょこちょいの運び屋がいるが、そんなとき「知りませんでした」と切り抜けることができる、かもしれない。

「今日はこれを」と神妙な顔で渡された物は、いつもの見慣れたノートだった。何の変哲もない大学ノート、受け取るその手は少し汗ばみ震えていたかもしれない。あたりを見回し、人に気づかれないようにカバンに素早くしまう。この人に気づかれぬように意識すること自体が人を気づかせてしまう。だが、この瞬間が一番緊張するし、運び屋の醍醐味でもある。

でも気づかれずにすんだようだ。受け取ったノートをBに届けようと思うが、なぜかその日指定された時間と場所に奴はあらわれなかった。事件に巻き込まれたか? そんなとき静かに連絡を待つのも運び屋の仕事である。それゆえノートは我が家で夜を越すことになる。このとき運び屋の仕事は継続する。運び屋とて欲望の人間である。神でも仏でもない。秘密のノートが目の前にあるのだ。世界を揺るがす暗号が記されているかもしれないし、明日の晩飯のことが記されているかもしれないし……いろいろな猥褻な妄想が脳裡をかすめ、罪の意識と共にモンモンと時間が過ぎていく。過ぎ去ってゆく時間のなかで眠ってしまい運び屋の使命を一応全うすることもある。そんな朝は不眠にもかかわらず爽快だ。一山越えたのだ。だが物を渡すまでは油断大敵である。気持ちを引き締めて仕事に取りかかろう。

運び屋をやっていたのは昔だ。何を運んでいたは知っている。愛を運んでいた。愛というには幼稚かもしれないが、そのようなものだ。でも欲望に負けた。なぜ負けたかは明らかである。運び屋は命がけであり、それなりの報酬をいただく。だがこれはボランティアだった。いまではパシリともいうのかもしれない。盗み食いをする一人前のパシリか半人前の運び屋か。



製本、かい摘まみましては(8)  四釜裕子




引越しして一年、棚の奥におしやっていたダンボール箱を、衣替えのついでに整理した。一番奥から出てきたのは、日記帳を入れたダンボール箱。小学生のころ日記が宿題で、それ以来とぎれとぎれながら続けているから、それなりの冊数だ。どうせ読んでも恥ずかしいだけなので、ページは開かない。

中学、高校時代の日記帳の多くは、両親や親戚のお兄ちゃんからもらったものだ。布装の角背ハードカバーであったり、どこかの会社の記念品の天金されたノートだったり、「日記」には、ちょっと背伸びして向かう感じがあったのだろう。そんななか、普通のノートの表紙に「数学D」と書いてカモフラージュしたり、表紙を開いた一ページ目に「見るな!」と書いたノートを使っていたのが、中三のころ。かわいい。

社会人になってからは、薄手のノートが増える。B5サイズで、無地や升目のものを探して買ったものだ。手帳とは別にいつも持ち歩き、内容からすればらくがき帳といったところ。日記、手帳、らくがき帳、それらを使う時間と場所が入り交じるにつれ、使い分けも曖昧になってゆく。

したがってこのダンボール箱には、いかにも「日記帳」のみならず、手帳やメモ帳や雑多な紙片も混じっている。なかには、社用箋や会議資料の裏に、会社や上司をネタにしてパロディ作品を同僚と描いていたものもある。あまりにも可笑しいので、これらはのちに編集し、栃折久美子氏考案の「ド・ダン」という方法で製本して仲間に配った。中綴じでA6サイズ、表紙は色付きダンボールの手軽な装丁、限定10部。

手帳機能の多くが携帯電話に移行したいまは、掌にのせてメモれるくらいの大きさで、リング綴じで堅表紙のノートを持ち歩いている。一日のうち、まとまった時間に書くのではなく、思いついたときに記すから、日記というよりネタの羅列だ。こうしてノートの選びかたを見るだけでも、「日記」にたいする気張りも恥じらいも年々薄れていることがわかる。気張ったり照れてなお、一夜、自分に言い聞かせたいことがなくなったということか。

「思いついたときにどこでも書き込める」ことに焦点を絞った、インターネット上の日記サービスがある。昨年第5回SICFグランプリを受賞した「Cal.Log」(カルログ)がそれだ。会員登録(http://www.callog.com/ 2100円/年)してCal.Log内の自分のメールアドレスに日記を書いて送ると、ウェブ上で読むことができる。このシステムがおもしろいのは、より多くのユーザーを得ようとしていらぬサービスを一方的に付加するのではなく、ブログのように手軽ながら、使用にあたってはいくつかの制限を与えていること。それらは全て、日記をまとめて冊子にする「Cal.Logbook」サービスを活かすためなのだ。

登録してから一年後、希望すれば、365日分の日記を写真付きでフルカラー印刷し、角背ハードカバーに仕上げたCal.Logbookを、13,200円(税込、送料別)で得ることができる。一冊にまとめる日数やデザインにバリエーションをもたせないのもCal.Logのこだわりで、この思いきりのよさは気持ちいい。

見本をみると、正方形の判型で装丁はシンプルで美しいが、表紙の芯ボールや本文紙が厚すぎるように思う。写真を両面カラー印刷したときに裏うつりしない紙を選ぶと、それを基準にして全体がこうなってしまうのかもしれないが、おそらく読み返されることはない日々の戯言にとって、そこは居心地よき場所となるのだろうか。「世界にたった一冊の宝物」には違いないが、だからといって装丁が、豪華であったり堅牢である必要はない。よけいなお世話なんだけど、もしもわたしが「戯言」ならば、ちょっと窮屈だなぁと思った。



『クモラス』論──緑の虱(8)  藤井貞和





多分「詩」という、言葉は、
作品「ポー川」と、「雨の音」とに出てきて、
詩の書き手にとって、もの凄く困っている、
抑えられない、悩みがあって、
それは何だと思う? 問いおろす。


   「浅い川底から
   砂金をすくって集めるくらしのように
   あなたのことを思って
   詩をつくる」     (ポー川)


ちがう国で、詩を組み立てて、
本当にあった、ことのように、
未来の記憶に、右肩をねじり込ませて、
あなたが閉じこめられる、と、
そう書いて坂輪が、電話ボックスの扉に凭れて、
外側から、あなたを思う。


   「詩はつづいてゆく
   どこへ?」     (雨の音)


と問う、詩の書き手、
クモラスをする、しなければならなくて、
詩の書き手がしなければ、うそになる、
生涯、七十歳を越えて、
それでもしなければならない、クモラスの、
「時間と体」
現在が夜明けで、ひとりで去って、
地下水よ、おもてを映す。



(談話文法主義は言語を伝達のためにあると主張し、分かりあう、道具としての言葉だと思いこむ。しかし言語にはdiscommunication=非疎通という、特色もあって、個人言語、方言dialectや、隠語slangを発達させて倦まない。世界が差異化を繰り返して諸言語を量産してきた、理由はそれだろう。変わり果ててゆくのが自然だとすると、棄〈う〉つ=日本語とutt-u〈棄てる〉=タミル語とが一致するという、現象はむしろ差異化をくぐりぬけてきた、残存と見なせる。ドナーと檀那〈喜捨〉とはもと一つだったそうだ。くぐりぬけ旦那となって日本語にはいりこんだ。関係ないが『クモラス』〈思潮社、2001〉により、以前『ミて』に載せた、坂輪綾子論の敷き直し。詩の詩というような、テーマかな。)



ある風景  高橋悠治




戦後の東京をとった写真家たちの展示の前で それらの風景を自分たちの身体を使って読んでみるワークショップ 近くの世田谷美術館が閉じた後での発表会を見に行って感じたこといくつか

写真は展示室の四方の壁に貼ってある 観客とともに演技者も部屋から部屋へ移動する ステージもないのに 一方を向いて座るように頼まれた観客の前で寸劇が演じられる

演じているのは中学生と大学生とおとなのはずなのに 同年代にしか見えない こどもはすでにくたびれていて おとなはおとなでありたくない これがこのくにの いまなのだろうか

食べるシーンが多い 戦後すぐはたしかにみんなが飢えていた だがその時は 食べること以外に考えることもすることも いくらでもあった あるいは おなじことだが 食べること飲むことでさえ きらくにできることではなかった 

いつ頃からか 家族が食卓で会話をするかわりに 家族が食べながら食べる話をしているテレビドラマを見るようになったのは そしてふたたび 食べることはきらくに どの店にでも行ってできることではなくなった 安全な食べ物 健康食品、うまいものをさがして食べる カネのかかったものを食べる あるいは食べるところを見せる 格差のある社会になったのだ

東京の街には日本人だけが歩いているような錯覚が かつてはあった それはあたりまえだと思うかもしれないが そんなことはない アメリカでだれかが 日本に行ったらみんなが同じ顔と黒い髪をしているのでびっくりした と言っていたのを思いだしたが そうでもなければ朝鮮戦争やベトナム戦争はできなかったかもしれない とも思う 昔から黒い髪は脇役か悪役に決まっていたし 全員が同じ顔をした集団を見るのは恐怖だろう

ところで この寸劇に登場する外国人は フランスの女とアメリカの男で なぜかフランス女は標準日本語をしゃべり アメリカ男は片言ニホン語で しかもひっきりなしに食べている 食べることはあこがれだった時もあった しかし食べつづけているのはやはりあんまりだ それでも そこにすりよる犬のような日本男がいる やはりブッシュのポチか

日本という窓 どこへでももちあるき めがねのようにその枠を通して世界を見るものさし はるかに見上げるフランスとアメリカ 文化と物質

最後に 演出家が宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を朗読し ゲストパフォーマーが身振りで演じた 他人の台詞をしゃべりながら他人を演じる近代劇に感じる居心地の悪さはなかったが 奇妙におもったことが二つ

一つには 宮沢賢治のでくのぼうも よく食べていた 日照りの夏に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べるのはたいへんな労働だ 小さな小屋に住んで たくさん食べるのが 生活であることは昔から変わらなかったらしい 外ではおろおろ歩き 家に帰ってしっかり食べる

二つには 東には と言って 右手に歩き 西には と言って 左手に行く ところが南は正面で 北は後にあるようだ この世は逆立ちしている



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