2005年10月 目次


しもた屋之噺(46)               杉山洋一
『モダニズム変奏曲〜東アジアの近現代音楽史』   三橋圭介
循環だより 夏を超える              小泉英政
ホットルケンの人──緑の虱(12)        藤井貞和
ランダと金魚                   佐藤真紀
プカンバルより その1              冨岡三智
アジアのごはん(4)カオニィオ         森下ヒバリ
種子と水の身体                  高橋悠治





しもた屋之噺(46)  杉山洋一




今月は何だか宙ぶらりんのまま瞬く間に過ぎて、相変わらず目の前にぼんやり浮いている気がします。北イタリアの秋は、乳白色の靄につつまれた、静謐な印象です。9月の声を聞き、ローディというミラノからボローニャへ向かう道なりにある、ちょうどモンツァのような大きさと美しさを湛えた古都に出掛けました。ContemporaneaMente音楽祭初日で、ヴェッリ高校の古い講堂が演奏会場でした。

「とても響きがいいんだ」。ローディ生まれのアルドが、誇らしげに話してくれた通り、見事な木張りの古い階段教室で、床も椅子も天井も、年季の入った深いニスが光っています。電燈がほとんどなくて、昼間なのにとても薄暗く、せり上がった座席の奥の大きな薔薇窓から、にごった光がほんの少し上部を照らすばかりでしたが、少し音を出してみると、文字通り講堂を染みとおるような、味わいのある音がして、闇の中に消える、えも言われぬ響きに、思わず鳥肌が立ちました。あの夜の満員の聴衆の熱気には、独特のぬくもりがあったのもそのせいでしょうか。まるで講堂が熱気を吸込み、脈打っているようで、眩暈を覚えたほどです。聴き手のほんの小さな動きでも、椅子と床がキュウときしみむのが、妙に生々しく感じられたのを覚えています。

この講堂を出てすぐの広場に、パオロ・ゴリーニ像が建っています。ゴリーニは1813年にパヴィアに生まれ、1881年にローディで永眠した、数学者であり地質学者でもあり、解剖学者であって偉大な科学者と呼ばれた、偉人の亡骸の防腐処理で名を馳せた研究者です。この広場の奥、古い病院にあつらえられた博物館には、169もの遺産が陳列されているそうですが、皆からきつく止められて、実物は見られませんでした。ジョゼッペ・マッツィーニやジョゼッペ・ロヴァーニといった19世紀の名士の在りし日の姿を、遺族の要望で剥製にしたわけですが、数々の死体と長年一緒に一人で暮らしながら、夜な夜な作業に励んだと言われています。それらが美術解剖の見地から高い芸術的評価を受け、記念像まで建てられているのですから、少し不思議な気もします。

イタリアやヨーロッパには、古くから数多くの美しい解剖学の蝋人形があって、それらを美術品として集めた博物館も多数あります。見目麗しい裸婦像から皮膚から一枚外すと毛細血管と筋肉が、もう一枚剥ぐと内臓の上部が、次は内臓の内部がという具合に、信じられない緻密さで構成されていて、最後は骨のみになってしまいます。皮膚を一枚剥いだ次点で、美しい少女からは到底想像出来ない、あられもない姿になり、最後にはグロテスクな骸骨になってしまうわけですが、美術の友人宅でこの本を眺めながら思い出したのは、養老猛さんが「死の壁」で書かれた、我々の死への畏怖や無常観みたいなものと、1773年刊行の杉田玄白の「解体新書」の断片的な記憶でした。

日本では未だ腑分けが始まったばかりの時代に、あれだけ美しい解剖美術の蝋人形が地球の反対側で作られていたと思うと、「死」へのアプローチの根本的な違いに愕然とさせられます。イタリアに暮らし始めた当初、あちこちの近所の教会に聖人のミイラが大事そうに祭壇に奉られているのがどうも苦手でしたが、当時から、彼らが肉体と精神を明快に線引きしていたのは容易に理解できました。肉体は自分のもの、精神つまり命は神から授かったもので、死んでめでたく天に戻るわけですから、肉体に対し不必要な畏れなしに、冷静に接することが出来るのかも知れません。

死体の防腐処理、剥製化を、伊語では通常「imbalsamare――内部に香料を注入する」と表現し、比喩的に「immortalizzare――不滅にする」とも言いますが、とどのつまり、西洋音楽も同じ視点で発展してきたように思うのです。音楽という不可視の精神と、楽譜に書かれた音符(視覚化できる部分で言えば肉体)を、彼らは昔から明確に区別していた気がします。音楽を「不滅にする」ため記譜法が発展し、作品を構造化して毛細血管の一本一本までていねいに分析してみせる様は、何だか腑分け図のようではありませんか。

音楽が元来神のものだったかどうか知りませんが、少なくともごく最近まで、天使はラッパを吹いていたのです。絵画が彼らの宗教観を土壌として発展したことを鑑みれば、それを音楽に当てはめるのも、至極当たり前の論法ではないでしょうか。事実、邦楽の分野で音を不死身にするために、記譜法を発展させ、複雑化した経緯はないように思います。命はその音そのものに宿っていて、消えゆくもの。そんな無常観が、元来日本人にはあると思うのです。

それに比べ、西洋人の執着心は計り知れないものがあって、畏怖がない分、どこまでも突き抜けてゆくようなところがあります。日本人の無駄な勘繰りか、むしろ肉体の方が静かにその様を観察しているようで、ゴリーニが製作した剥製の写真を眺めていると、養老さんが「静かな死体」と表現されていたのを、ふと思い出しました。

(9月30日モンツァにて)





『モダニズム変奏曲〜東アジアの近現代音楽史』  三橋圭介




現在、インターネットの普及によって、さまざまな情報をパソコンから引きだすことができるようになった。パソコンの背後には膨大な「世界」が開けていると錯覚させるほどだ。とはいえ、多様なメディア社会にあって、現代音楽の世界に限っていうなら、いまだわれわれの視線は戦前から西洋中心に向き、文化的に関係深い東アジアの中国や韓国といった国々に関しては、その距離的な近さより、遠さが先んじている。そこには戦後教育を含む日本の文化的な背景や、中国、朝鮮の日本の侵略戦争や植民地統治などがあり、複雑な歴史問題が音楽の世界にも影を落としているからだろう。だが、西洋に追いつこうとする時代も終わり、複数の視野が開かれた現在、日本、中国、韓国の音楽創造の世界は同一線上に並んだといってもよい。石田一志氏が書き下ろした『モダニズム変奏曲〜東アジアの近現代音楽史』(朔北社 税込み5040円)は、そのことを明らかにすると共に、東アジアという大きな枠組みで三国の西洋音楽の受容から発展、成熟への歩みを明らかにする力作である。

本書は、大航海時代のキリシアン布教にたいする各国の対応を話題にした序「東アジアにおける洋楽受容の前史」にはじまる。本論はアヘン戦争から20世紀終わりまでのおよそ150年間を対象にした近現代音楽史で、第一部「日本」、第二部「中国」(補章として台湾と香港を含む)、第三部「韓国」から構成されている。特徴は、非西洋後発社会の近代化と平行する西洋音楽の定着までの歩みが前半では、海禁止政策時代に形成されたそれぞれ独自の音楽文化との間に、どのような対応があったかが教育、宗教、政治などを背景に詳しく語られている。また、創作活動を中心とした後半では、作曲家たちが自己の創作の普遍性と特殊性、あるいはグローバリゼーションとリージョナリズムにどう対応したかが問題視される。そして「モダニズムを主題とする七つの変奏曲」と題された終章では、こうした各国別の対応の違いを、文化のモダナイゼーションを進めるエナジーの、それぞれの変奏として比較し、今後の音楽文化圏の方向性や可能性が展望される。

本書のタイトルに「モダニズム変奏曲」とあるように、アジアの作曲家は自己を発見するために西洋の理論を必要としなければならなかった。音楽それ自体の自律に向け、呼吸する空間を響きへと置き換えたが、この格闘こそが世界を前にしたアジアの自己主張だった。モダニズムを追いかけ、いつの間にか追い越した三国の作曲家たちの格闘の歴史がここに詳細に渡って描かれている。韓国のペク・ヒョドン氏が「国内の学者より詳しい内容」と言葉を寄せているし、中国に関しては本国のプロパガンダ芸術重視の立場よりも芸術音楽、特に器楽作品に重点を置いた視点も新しい。

『モダニズム変奏曲〜東アジアの近現代音楽史』はおそらく、日本側から、正確にいえば石田一志氏にしか書けない音楽史である。氏にそれを許したのは、韓国や中国との文化交流を通して日本の音楽文化を深く考察していたことが挙げられるだろう。この本はインターネットでつながれた「世界」にない。美しい装幀(杉浦康平)に閉じこめられた550ページのずしりと重い本は、重さと測りあえるだけの情報によってそこだけにある。さらにいえば、本書は東アジアの連帯のなかで対話の可能性を開く掛け橋としての使命すら帯びている。その意味でも、英語版の翻訳が望まれる。
 



循環だより 夏を超える  小泉英政





「友だちで最近、自給用の畑を始めた人がいて、是非、小泉さんの畑を見学させてほしいと言っているのですけれど」と、知人から頼まれた。夏の忙しい時だったけれど、時間をつくって、畑のあちこちを案内した。後日、何か感想を言っていましたかと、その知人に聞いたところ、驚くべき答えが返ってきた。知人はちょっと言いにくそうな表情で「あのね、彼女が言うには、小泉さんの畑は草がほとんどなくて、農薬を使っているんじゃないかって言うの」と、申し訳なさそうに小声で話した。

畑を案内しながら、どうやって雑草を防止しているかを話したり、「それでもこれだけ草をとっているんですよ」と、畑の隅に積んである草の山を見せたり、その雑草の腐葉土と米ぬかで発酵肥料をつくることを教えたりしたのに、一体、あの人は何を見て帰ったのだろうと思った。

またこんなこともあった。自然食品の店の人を案内した時のこと、その人がふともらした言葉も忘れられない。「何か、畑が草だらけのほうが、有機農業らしいんだよね」。

農家は昔から畑に草の実をこぼさないように、それはそれは念入りに手入れしてきた。一度、草の種をばらまいてしまうと、何年も何年も出続けるからだ。

腰をかがめて草をとるかわりに、今は除草剤を散布する姿が、農民の働く姿となった。有機農業をやっているからといって、その様を安易に非難する気持ちは少しもない。農家は減少し、畑に立つ人は高齢化の一方で、誰がその雑草をぬくのか、それは人ごとではない。

先の畑見学の話は、大分以前の、日照りの年の話だ。畑が乾いていると、雑草も少ない。今年のように適当に雨がある夏は草の生長が著しい。里芋畑、ネギ畑、人参畑、この夏も雑草の難所をいくたびも超えてきた。トウモロコシ畑、南瓜畑など、草に負けてしまった所もある。

自分の畑ならまだしも、人から畑を借りて、大草(作物よりも草の方が優っている状態)を出してしまうと、地主の人に申し訳ないと思う。自分がその畑を耕せるのも限りがあって、その後、その畑に立つ人のことも、考えなければならない。

今年の救世主はNさんだ。自分の自給用の畑を二の次にして、循環農場の草とりにかけつけてきてくれた。「草が伸びるのってすごいですね。何日か前、一列とると、草を入れる袋に二袋だったのに、それが一列、四袋、昨日は八袋、今日はついに袋に入れないで、後で運び出そうと思って置いて来ました。草をとるのが先だと思って」と目を輝かせて話してくれた。Nさんたちのおかげで、この夏も超えられそうだ。





ホットルケンの人──緑の虱(12)  藤井貞和




ホットルケンの人が、来ちぇや、
それがもう、弓も鉄砲も、
わざわい(たいそう)、
はばしか(すばしこい)人じぇ(で)、
このまま置(え)ぇたぎり、もう、もなあ、
絶えちぇしもう(絶えてしまう)、
ちゅうちぇ(と言って)。


まあ、どうっしぇも(どうしても)、
此奴(こりょう)、手(ちぇ)入れんばいけん、
ちゅうちぇ、そいから、
其奴(そりょう)手入れちぇなあ、
そっしぇ、此処(こけ)ぇ居っちぇ、
鉄砲も巻(ま)あたり(作ったり)や、
鉄砲巻き(鉄砲作り)が、
わざい上手じぇ、
鉄砲も巻(ま)あたり、そうっしぇ、もんも、
何っちゅうかも。


人にも習わしたりよろい(など)、せんばいけん、
ちゅうとこいじぇ、そいからそうっしぇ、
ものー、為(し)ょうったればや、
暇じぇ置(え)ぇちゃあ、どうっしぇもいけん。どうっしぇも、
きっと、ものー為(し)ぇんばいけん。


(鉄砲作りの技術は習っておいて、そのほうびに「女を与え」て、一計を案じ、女が死んだと言って、葬式までしてみせると、あきらめて帰っていった、というような昔話。やってきたホットルケンの人(二人)を何とか追い出したい、村人の知恵を、中種子町の鎌田マツ(明治6年生まれ)が語る。下野敏見編著『種子島の昔話T』(三弥井書店、1980)から、そのまま引用する。ホットルケンは、ポッルトゲ、ポルトガルではなかろうか。)





ランダと金魚  佐藤真紀




2003年冬、アンマン山の小さなクリニックに日本人の看護婦がボランティアで働いていたことがある。そこはイラク難民のためのクリニックだった。ヨルダンの英字新聞は、イラク戦争の直前だったこともあり、日本人が働いていることに関心を持ちある日、記者がやってきた。

たまたま、風邪を引いたという5歳女の子が来ていて、その子はランダという名前だった。父は、サッカー選手でゴールキーパーをやっていたが、サダム政権下ではゴールを許すとお仕置きされる。殺されてしまうこともあった。そんな、体制に嫌気がさして数年前にヨルダンに出てきたのだ。
「サダムのためには戦わない。でもイラクのためにはいつだって銃を持って戦う」
彼は戦争が始まればどうしますかという記者の質問に答えていた。ランダは「イラクへ帰りたい」と答えていた。

戦争が始まって、私はイラクへ向かった。その後彼ら家族に会うことはなかった。イラク戦争はもう過去のものになりつつある。イラクにかかわっていた人たちもそれぞれ別のことをやっていたり。看護婦も日本に帰って働いていた。私は相変わらずイラクにかかわっている。
「ヨルダンへ行くんだったらランダにあってきてよ。赤ちゃんが生まれているよ」
看護婦が電話番号を教えてくれた。私は何度かヨルダンに行ったときに電話してみたが、誰も出なかった。彼らはイラクに帰ったのかもしれなかった。

この夏、看護婦が再び、ヨルダンに短期間ではあるがボランティアとして派遣された。クリニックに行ったら偶然ランダたちの一家に会ったという。それで私も家まで連れて行ってもらうことにした。家具も殆どない家の中にはイラクの国旗とシーア派のイマーム・フセインの肖像画。イラクにいるような錯覚。ランダがすっかり大きくなっている。赤ちゃんの面倒を見たり、すっかり大人びてしまった。お絵かきが上手くなっているのだ。でも色鉛筆が買えないのだろう。殆どは鉛筆で描かれている。弟のアリは、相変わらず猫の絵をかいていた。猫が好きなんだ。明日はご飯をご馳走してくれるというのでもう一度訪ねることにした。

アンマンは坂の多い町である。金持ちは山の頂上に住み、貧乏人はふもとに住む。山といっても丘と言ったほうがいい。山の頂上でタクシーをおりて下っていくことにした。途中で金魚を売っている店がある。アラブ人のペットといえば小鳥か金魚である。でも最近は猫とか犬も売っているのでちょっとびっくりした。生まれたばかりの猫が5000円くらいで売っている。アメリカンショートカットのシルバーだから日本だと十万円くらいしそうだ。でも殆どの猫が目やにをだしているのがちょっと気になる。アリ君に買ってあげようとおもったが、えさ代が大変だろうと思いとどまり、金魚を3匹、150円で買った。

お店を出るとイラク人らしき親子がダンボールに子犬を入れていた。
「買わないかい」と声をかけられる。一体こういうペットはどこから持ってくるのだろう。明らかにこの辺にはいない種類である。

さて、坂を下ってゆき、わき道に階段があるのでそこを下りるとランダの家だ。昨日とは異なり、洗濯物がたくさん干してある。ランダが出てきた。なんと金魚色のドレスを着ている。今日はとってもおしゃれなのだ。金魚をわたすと大喜び。早速名前をつけている。「これが弟のアリ、小さいのが生まれたばかりのモハンマッド、そして大きいのが私」彼女の赤い金魚色のドレスがまるで、イラン映画でも見ているような錯覚になる。でも、どうせ、金魚は数日しか生きないだろうと思うと少し哀しくなった。

そしてランダの金魚色のワンピース。スカート長が短い。日本なら別に普通なのだが、この国では子どもでもミニスカートははかない。ランダが成長して服が小さくなってしまったんだろう。そう思うとなんだか切なくなってくるのであった。そんなランダの夢は大きくなったらスチュワーデスになることだそうだ。将来、イラク航空の飛行機でイラクに行くのならちょっとスカートが短めの美脚スチュワーデスは、ランダかもしれない。


注:中東でも金魚は飼われている。イラン映画にも金魚が出てくる。「運動靴と赤い金魚」(マジッド・マジディ監督)
そして、現在岩波ホールで上映中のイラク戦争と子供たちをテーマにしたクルド映画「亀も空を飛ぶ」(マフマン・ゴバディ監督)でも金魚が効果的に使われている。



プカンバルより〜第4回コンテンポラリ舞踊見本市〜 その1  冨岡三智





8月24日〜26日に、インドネシアはスマトラ島にあるリアウ州・プカンバル市で行われた第4回コンテンポラリ舞踊見本市(Pasar Tari Kontemporer)が開催された。私も招待されて作品を上演してきたので、今月はこの見本市を紹介しよう。本当は先月号用にとこの原稿を書いていたのに、インターネット・カフェのコンピュータはなぜか原稿の入ったフロッピーを受け付けてくれず、挙句にはコンピュータの方が壊れてしまった。断じて私のせいじゃない!と思いつつ、送れなくて残念であった。

プカンバルというのはリアウ州の州都で、人口100万人くらいの石油商業都市であり、カルテックス石油の本社がある。地理的にはスマトラ島の中部東側にあって、シンガポールから近い。最近インドネシア政府はバンカ島に次いでリアウ州への経済投資を熱心に呼びかけているらしい。6車線のまっすぐに延びる幹線道路沿いに、市役所や銀行、州の各種機関、今回の会場なんかが並んでいる。

会場のBandar Seni Raja Ali Haji(アリハジ王芸術センター)は州立のタマン・ブダヤ(アート・センター)※とは別の組織で、州の芸術文化の中心になっているみたいだ。広大な敷地に、リアウ州の各カブパテン(県)の伝統的な家屋が再現されていたり、リアウ州芸術家会議の事務所やリアウ・ムラユ芸術アカデミーがあったり、ギャラリーや各種スタジオなどが点在していたりする。今回の見本市を主催するYayasan Laksmana(ラクスマナ財団)もここに拠点を構える。ただ劇場だけはまだ建設中(2006年完成予定)で、見本市は仮設の野外舞台で行われた。この劇場は、完成すると、ジャカルタ芸術劇場(GKJ)をしのぐインドネシア最大の劇場になるらしい。

(※インドネシアでは1980年代から1990年代にかけて全州にタマン・ブダヤが設置され、州の文化活動の中心となっている。)

この野外仮設舞台というのは舞踊にはあまりふさわしくなかった。人の背丈ほどの高さの舞台で、観客は数十メートル離れた所から見上げるように舞台を見るようにしている。2日前にここでロックコンサートがあったらしく、予算の都合でその設備をそのまま使ったらしい。客席からは舞台の奥行きが全然感じられず、床面も全く見えない。それだけでなく、本番直前になって舞台の両脇にスクリーンが現れた。主催者は動きの細部が見えるように設置したと説明していたけれど、そうであれば観客席と舞台を近づけるべきだ。舞踊というのは踊り手が観客の反応を受け、観客が踊り手の息遣いを直に感じ取るところに成立するもののはずなのに。ただでさえ舞台は遠く、これでは野外でテレビを見ているようなものだ。と言ってみても、このスクリーンはスポンサーのTELKOMSELが提供していたから、主催者は嫌でも断れなかったに違いない。

出演者は全部で18組である。地元のプカンバルからも3組出るのは、この地域の現代舞踊のレベル向上のためだということだ。残りの15組のうち外人はシンガポールから2組、日本から私の合計3組。ただ外人と言ってもシンガポールの2組はどちらもマレー系、私もインドネシア語を話すから、共通語はインドネシア語(マレー語)である。なんだかマレー系民族の祭典に見えないこともない。私は一応外人であるものの、STSI(インドネシア国立芸術大学)ソロ校で合計5年間学んでいてジャワ宮廷舞踊をベースにしているから、気分的にはソロ出身である。だから私の関心や不安は、自分の舞踊がジャワのコンテキストを離れたところでどのように評価されるのか、という点にあった。この点については後で触れる。そして国内組の出演者の内訳は、同じスマトラ島内ではアチェ、メダン、パダンパンジャン(2組)から計4組、カリマンタン島(ボルネオ島)から1組、ジャワ島はジャカルタ、ソロ(2組、2組ともSTSIソロ校の卒業生)、ジョグジャカルタ、スラバヤ、マランの6組、バリ島から1組、となっている。

18組のうち、I Nyoman Sura(バリ)、Sianne(スラバヤ)、私の3人がソロ(単独)で踊った。I Nyomanは先月号、先々月号で書いたIPAM(インドネシア舞台芸術見本市)に出演していて、なんとなく私と関心のあり方や趣味が似ているなあと思っていたら、今回の公演ではお互いのテーマはほぼ同じだった。簡単に言えば、人が生まれてから死ぬまでのプロセスをテーマにしている。でも彼と私とでは表現の仕方は大きく違う。私が初日、彼が2日目の公演で、初日の私の上演が終わったときに彼から「テーマが同じなんで違う日で良かった。けれど同じ日に公演しても、お互いに表現が違うから面白かったかも知れない」と言われた。彼の舞踊にはバリ舞踊の、あの骨や筋肉の緊張感、時間の緩急が感じられる。どちらも私にはないものだ。

Sianneは中国系で、バレエの他(スラバヤではバレエのグループはたくさんあるらしい)、中国とインドネシアの伝統舞踊もベースにしている。彼女は尺八の曲を使って上演した。彼女の舞踊は、ジャワ舞踊ほど大地にひっついていなくて、でもロマンチックバレエよりも低い所を滑らかに浮遊していくような感じだ。赤い扇子を使っていたけれど、単に中国風に見えなかったところがいい。どうも彼女は赤い色が好きらしく、毎日赤いTシャツを着ていた。ちなみに彼女は最終日のSukarji SrimanI(ジャカルタ)の作品にも出演している。 NyomanもSianneも、静かでとても強い存在感を持っている。私自身は、舞踊には何よりも個人の存在感を重視する性質なので、やっぱりこの2人に魅かれた。

この2人は2日目の公演だったのだが、惜しかったのは2日目に大雨になったこと。観客が皆屋根のあるところに避難したから、観客席はさらに遠くなり、激しい雨音に観客の集中力は遮られがちになった。それでも2人の上演には魅きつけられるものがあった。また舞台の後ろは幕がなくて(開始前の話では黒幕があるということだったが)、背後に大きな木が見えている。Sianneの時には木にライトが当てられ、その向こうに何度も稲光が光るのが見えたのが、私には思いがけず効果があったように思う。神秘的な映像を見ている気がした。

カリマンタンのHariyansaの作品の中に、彼が単独で伝統的な男性シャーマンの舞踊をベースにした旋回舞踊を踊るシーンがある。そのシーンでの彼はとても存在感があった。本来は強いアルコールを飲み、半トランスになって病気治癒のために踊るというこの舞踊には、森の精が踊っているような雰囲気が感じられた。けれど作品全体の出来はいま一つだった。彼以外の4人の群舞の踊り手は高校生から大学1年生とまだ若くてあまり表現力がなく、カリマンタンの森林が伐られてゆく悲しみを描いているという群舞の振付も説明的だったからだ。彼はこの群舞のシーンでコンテンポラリらしさを出そうとしたに違いない。けれど、従来の伝統のコンテキストを超えた舞踊になっているという意味で、旋回舞踊のシーンの方がコンテンポラリになっている気がする。

シンガポールの2団体はマレー系の舞踊なので、シラット(伝統武術)をベースにした動きにしても衣装にしても、スマトラ島の舞踊と印象が似ている。しかし動きや構成はより凝っており、テンポも速くて洒落ている。ただ今回出演した団体に限らないのだが、シンガポールの舞踊というのは総じて、どうも伝統の型を見事にアレンジするだけにとどまっているような気がしてならない。だから見終わった途端に印象が薄れてしまうし、1人1人のダンサーの個性も見えてこない。

Fitri Setyaningsih(ソロ)とBesar Widodo(ジョグジャカルタ)はあの大仮設舞台を使用しなかった。前者はコンクリートの上にネオン・サインのような明かりを置いての、後者は木の植え込みのある所でロウソクの明かりを置いての上演だった。全員が同じ舞台を使用するものだと思っていたから、正直なところ、そんなの有り?という気がする。両者ともあの仮設舞台で上演していたら効果は半減しただろうから。

これらの公演はすべて夜に実施され、25日と26日の午前中はセミナー、午後からはワークショップという予定が組まれた。ギャラリーといってもドームのような空間で、入口を入るとその中央にある池が目に入る。池には水草が茂り、魚が泳いでいる。池の真ん中に浮島みたいなスペースがあって、橋がかかっている。島の背後は黒い幕で閉じられ、三方に開けている。私達が島でワークショップをしているのを、展覧会を見に来た小学生や中学生の団体が橋の向こうから遠巻きに眺めている。この半ば孤立し半ばオープンな空間は私には面白く、また居心地が良かった。ここでソロとかデュエットの小品を踊れたら良いなと思う。

さて、自分の舞踊については……来月に書くことにしよう。



アジアのごはん(4)カオニィオ  森下ヒバリ




ひと月半ほどタイへ行っていた。京都に戻ると、さっそく街の大きな本屋に行き、日本にいない間に出版された文庫本のチェック。「あ、クッキングママ・シリーズの新しいのが出てる!」「お、警視の・・シリーズも出てるやないの〜」と好きなミステリーを見つけ、ほくほく。ついでにふと目に留まったのが、粗食のすすめシリーズの幕内秀夫さんの文庫『ごはんで勝つ!』。別に勝つ必要はないけど、おもしろそうなのでこれも買う。

本の内容は、とにかくお米のごはんを食べなさいと言うことなのだが、読んでいて、はっとさせられるところがあった。それは、戦後のアメリカの小麦輸出戦略に操られた政府や欧米式栄養学者、そしてそれを信じた学校や母親がずっと言い続けてきた言葉である。
「ごはんは残してもいいからおかずをしっかり食べなさい」
 この言葉で育ったわたしは、立派なおかず食いになるに至った。昼食にはご飯をかるく一杯は食べるが、夕食は酒のつまみとしておかずをもっぱら食べ、お腹が満ちるとごはんは食べないことも多い。朝はあまり早く起きないので、コーヒーのみ。昼にパンやスパゲティ、蕎麦などを食べることも多いので、去年まではほんとうにお米を食べていなかった。ちょっとおかずを食べる量が多すぎる……とは思っていたので、去年あたりからお米をなるべく食べるようにしてはいた。しかし、麺類やパンの回数が減っただけで、夜はやはりあまり食べなかった。昼も軽く一杯。だって、あんまり入らないんだもん。

しかし、幕内センセイは女性にも毎食どんぶり飯程度の量をすすめておられる。おかずは油や肉などの少ない伝統的なものを少しでいいと。ごはんが主体の伝統的な食事が身体にいいのはよーく分かる。ではどうすれば食べられるのか? あっ、そうか!「おかずを残してもいいから、ごはんをしっかり食べなさい」ということか。おかず食いのわたしにはこれはコペルニクス的発想の転換であった……。

いろんなおかずを作って、それをもりもり食べつつさらにごはんを山盛り食べられるわけがない。で、さっそくごはん茶碗をふだんより大きいのにして、ごはんをたっぷりよそった。ごはんを食べるのが目的であるので、あまりおかずを食べ過ぎないように気をつける。当然、おかずなしでごはんだけをもぐもぐ食べる回数がふえる。
「あれ、ごはんってこんなに甘くておいしいものだったっけ……」と、驚きながらふむふむと噛み続けた。いつもろくに噛んでないというか、おかずとミックスしてごはんそのものの味を忘れていたようである。丁寧に作られた無農薬の玄米をさっき五分搗きにして炊いたばかりのごはんだからまずいはずがないが、いつもろくにごはんを味わっていなかったのだな、とちょっと反省。「ごはんは残してもいいからおかずは食べろ」という母親の声が左から聞こえる横で、祖母や祖父は呪文のように「この米はお百姓さんが八十八回の手間をかけて作ったもんじゃ、一粒も残すな、バチが当たる」と右の耳に言い続けてくれたが、その結果は、ごはん茶碗は小さいものを選び、量はふんわり軽く盛る(ことによって残さず食べる)ようになっただけ。「ごはんは太る」という俗説を信じたことはない。ただ、おかずをたくさん食べるのでごはんをたくさん食べられなかっただけなのだ。

ごはんの甘みを噛みしめていると、ラオスやイサーン地方の主食、蒸したもち米・カオニィオを噛みしめているような気がしてきた。そうそう、この甘み。

タイやラオスにいる間、食事はほとんどが外食になる。昼は屋台でおかずかけごはんや焼き飯、米粉の汁麺のクイティオ。夜は友達と飲みながら屋台やレストラン、たまに総菜屋の持ち帰りごはん、という暮らしである。タイの屋台や料理屋は、家庭料理と変わらないバラエティ豊かで野菜たっぷりのおいしい料理を出してくれる。そのうえ、辛くしろ、甘くするな、味の素を入れんといて、この味つけはこうしてああしてと料理にあれこれ注文できるので、ほとんど我が家のシェフ(もっとも、あ〜言われたこと忘れてた、ごめん……という場合もよくあるけど)。

最近バンコクでよく食べに行くのがソイ・ランナムにあるイサーン料理屋だ。イサーンとはタイ東北部のことでそこに住んでいるラオ族の料理がイサーン料理。イサーン地方はほとんどの住民が農民で、タイでも貧しい地域、遅れた地域とされてきた。

カオニィオと呼ぶ蒸したもち米が主食で、スシ飯ぐらいの量を右手でかるく握って固め、おかずをちょっとつけて口に入れる。おかずはたけのこの煮物のスップノーマイ、青パパイヤと塩辛の和え物ソムタム、肉や魚のたたき和え物ラープ、牛の喉肉の焙り焼きスアローンハイ、地鶏の焼き鳥ガイヤーン……と店では肉や魚がたっぷりの豪華な料理が並ぶが、実際のイサーンの村では、こういうのは特別な時のごちそうだ。

今まで、いろいろなイサーンの村の家庭でごはんをごちそうになってきた。どこでも、とにかく蒸したもち米がまず出され、おかずは数人で1匹か2匹の小さな塩魚、トウガラシと塩辛などを混ぜた付け味噌みたいなナムプリックとそれをつけて食べる生野菜やハーブだけとか、ものすごく辛いソムタムだけとか、タムルン草というその辺に生えている葉っぱのスープとか、ふだんの食事はおかずの量がすごく少ない。おかずは、もち米をたくさん食べるための添え物だ。

おかず食いのわたしとしてはちょっと寂しい。でも、もち米はおかずがなくても、おいしくて食べられる。カオニィオはねばつくので、よく噛みしめなければ飲み込めない。もぐもぐと噛んでいると、お米のおいしさ、甘さが口の中に溢れてくる。

日本でごはんをもぐもぐ噛みしめながら、改めて気がついた。イサーンの村の蒸したもち米山盛り、おかずちょっぴりの食事は、貧しいためだと思われているけれど、それはちょっと違うのでは? おかずが少ないのは遅れた栄養不足の食事なのか?

日本の伝統食と同じように、お米をたくさん食べるというのは、古代から続いてきた健康を支えるイサーンの伝統食だろう。その組み立ての基本は、もち米と塩辛、そしてトウガラシと野草(たまに虫や卵)。塩辛は、日本のナレズシに近い発酵した魚の保存食で、魚の肉を食べ、漬け汁を調味料に利用する。とても栄養豊かな食品だ。日本の伝統食の組み立ては、米と雑穀と大豆(発酵させたり加工したり)、そして野菜とわずかな魚。

タイの都市部の人間も欧米式の栄養学に毒されて、イサーンの伝統食を、不潔で栄養不足の貧しい食と決めつけてきた。だから、エスニックな食としてバンコクではイサーン料理がブームになってはいるものの、人気があるのは塩辛(プラーデック)抜きのソムタムやごちそう料理ばかり。でも、イサーンの食の本質は、もち米山盛りと塩辛にある。ソムタムの塩辛は少なめでと注文するわたしもあまり大きな声では言えないのだが。

さて、日本のごはんのおいしさも再認識したことだし、ごはん食いになるべく、毎日ごはんを山盛りにしてみようっと。おかずは減らして……作る手間が減るな。これで、身体の調子がよくなって、おまけに食費まで浮く……一石三鳥、そ、そんなにうまくいくの?



種子と水の身体  高橋悠治




たくさんの公演がかさなりあった月になってしまった 一つの公演について数回の練習がある そのなかには作曲も必要になる そして予測できない状況のなかでは即興できりぬけていくよりない 

作曲と演奏と即興のように分離してしまった音楽創造行為を一つの行動をめぐる三つの視点と考えるようにしようと思っていたのが 不用意なうちに現実の必要になって現れると そのどれもが中途半端に終わってしまうのか

踏み固められた道をもう一度踏みならすような 確信にあふれた演奏をきくたびに いやだと思っていた 風に揺られるロウソクの炎のように ともすれば消えかかる響きを抱いて 踏み外しそうな細い道をたどる歌 同時にそこから離れて立ち 音といっしょにころがっていく身体をじっと観ている いや聴いている だれでもないものがいる そういう演奏でありたい 

歌うよりさきに楽譜を書くことに慣れてしまった作曲 紙に押し付けられたインクがたちまち乾くように 紙に書かれた音はもう歌わない だが どうやって消えていく音の記憶を伝えられるのか 種子のようにちいさく乾いたものがなければ どこから草は顕れるのか 種子は地に隠れる 草の上に水の身体が降りて来る 水は流れやすい道をさぐる 即興が流れを変える

音はそのすぐ前の音に応えるためにある では 最初の音の前には何がある まだ音でない音か 聞こえない音を感じるためには 音を小さくする 大きな音は感じない 小さな音は感じる それ自身を その音を送り出している身体の内側のうごきを 



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