2006年1月 目次


I画伯                    小島希里
アヤちゃん                  佐藤真紀
豊多摩の姿見ず橋──緑の虱(15)      藤井貞和
アジアのごはん(7)タイの鍋物       森下ヒバリ
モスクワへ                  御喜美江
カミ                     三橋圭介
一年の計は元旦にあり?             大野晋
年末年始の時間〜赤穂浪士からとんどまで    冨岡三智
製本、かい摘まみましては(14)       四釜裕子
しもた屋之噺(49)             杉山洋一
電子「公共圏」はどこへいった(その3)    石田秀実
輪廻           スラチャイ・ジャンティマトン
水の音楽 音楽の芽生え            高橋悠治
  




I画伯  小島希里




電話がなる。
「『がやがや』の小島希里さんのお宅でしょうか。お忙しいところ申し訳ありませんが、小島希里さんに一つ、質問があるのですがよろしいでしょうか。今度の『がやがや』はいつになりますか。」
Iさんだ。Iさんは、礼儀正しい。わたしに電話をかけてくる知人、友人のだれよりもていねいな話し方をする。
「決まったら、連絡します。」

あわててわたしは電動自転車を二十分ほど走らせ、区民センターにいく。社交ダンスを踊って上気したおばあさんとおじいさんたちで、ロビーはごったがえしている。部屋の予約状況を示すボードには、「予約済み」を意味するマグネットが隙間なく並んでいる。わたしたち「表現クラブがやがや」は障害者団体として登録しているから、一般の団体よりも優先的に部屋を予約することができることになっている。それなのにわたしがいつもぐずぐず計画を先延ばしにしているせいで、その優先権をじゅうぶん活用しきれていない。
なんとか部屋を予約し、日時と会場、参加費などを書いたお知らせを書く。漢字には全部ルビをふる。二十名ほどの「がやがや」メンバーにファックスで送るが、Iさんの家にはファックス機がない。で、犬の散歩のついでに、ポストに投函することにしている。

また、電話がなる。
「チラシ、入っていました。出席します。ところで、ひとつ、質問してもよろしいですか。こんどの劇はなんのお話なのでしょうか」。電話のむこうから、答えを聞き逃すまいと耳を傾けている様子が伝わってくる。Iさんのひょろっと長いからだは、今きっと、かすかにななめにかしいだはずだ。Iさんはつねに控えめ。のぞむ答えが返ってこないことに我慢ができなくなり、しつこく同じ質問を繰りかえすというようなことは、けしてしない。「何もきまっていないんですかあ。ではお会いできるのを楽しみにしています」

二七才、男性。軽い知的障害があるということだが、どういう障害か?ときかれても、わたしにははっきり答えることができない。数も数えられ、字も読め、公共の交通機関をつかってひとりででかけることもできる。家事の手伝いをして家族を助けるかたわら、自宅のアトリエで絵を制作している。彼の日々は、年に一度、お母さんといっしょに開催している展覧会を中心に動いている。そしてたびたび、家族で遠くに旅行する。わたしの知らないいろんな国に行き、いつもおみやげを買ってきてくれる。そこでみた景色や人や舞台が絵の題材になる。

「がやがや」の劇づくりで、Iさんはかならず「絵描き」の役を演じる。あるときは、絵が描けず悩む画伯――うなだれながら、うろうろと歩き回り、失意の末倒れる。あるときは、怒りくるうアーティスト――怒りにまかせ、筆を荒々しくキャンバスに走らせ、一気に作品をかきあげたかと思うと、倒れこむ。ふだん、物静かで落ち着いた青年が、家からもってきたルパシカ風のシャツとベレー帽をかぶったとたん、荒々しく動きまわる情熱的な画家に変身する。終わったあとでIさんは小声でそっとこうたずねるのだった。「乱暴すぎませんでしたか」

「がやがや」の休憩時間は、いつもおやつつき。参加費のなかから買ったおやつに、みんなが持ってきたチョコレートやポテトチップスが加わり、テーブルの上はお菓子の山だ。心配になるほどももくもくと食べ続ける人。他人の分にまで手をだそうとする人。驚くような静けさが部屋中を包みこむ。食欲の嵐だけが轟音をたてて吹き荒れている。が嵐になんかびくともせず、いっさい何も手にとろうとしない頑固者もいる。

テーブルが空っぽの袋に埋めつくされるころ、とぎれとぎれのおしゃべりが始まる。ことばの雲がふわふわと浮かび沈み、また浮かび沈む。――ボーナスでました。お母さんとお父さんに「藍屋」でごちそうします・・洗剤で手が荒れてさあ、皮膚科に通ってさあ、それで土曜がつぶれちゃってさあ・・おかあさん、迎えにくる?おかあさん、迎えにくる?おかあさん、迎えにくる?

「がやがや」に来ている人たちの大半は、知的障害をもつ二十代の若者たちで、レストランや病院で皿洗いをする人たちもいれば、福祉作業所に通い幼児むけ雑誌の付録を袋に入れるとか、割り箸を袋に詰めるとかといった仕事をしている人たちもいるし、就職活動のために訓練センターで研修中の人もいる。とにかくみんな「働いて」いる。Iさんが深刻な顔で、こう質問した。
「ピカソやゴッホのような絵描きになるには、どうしたらいいのですか」
Iさんの質問に答えられず、わたしは黙ったままでいる。Iさんも黙ったままだ。




アヤちゃん  佐藤真紀





僕はアヤちゃんのことをすっかり忘れていた。たぶんイブラヒムもすっかり忘れていたのだろう。帰国がまじかに迫って来ると、いろいろな人に挨拶したり、電話でさよならを言ったりするわけだ。

アヤちゃんは、イラクから来た6歳の女の子だったが、骨のがんらしく右足はすでに切断していた。ヨルダンの病院で治療中だ。彼女の場合は、治療費はヨルダン政府が出してくれるが、ホテル代は出ないというので、アパートの一室を借りているそうだ。病院に別の子どものお見舞いに行ったときに、イラクから来たというので、イブラヒムが彼女の母親となにやら話し込んでいた。「是非、遊びに来てください」と誘われたが、あれから一ヶ月たってしまった。どんな家を借りているのか関心があってのでイブラヒムに頼んで、電話してもらい家を訪ねることにした。
一方、今までモーメンホテルに泊まってた患者と家族のホテル代はヨルダン政府が払ってくれていたが、もう払えないということになったらしく、彼らも全員ホテルを追い出されることになった。イブラヒムの話によるとアヤちゃんの一家は相当安い家を借りているというのだ。

夜、出かける間際になってイブラヒムが騒ぎ出した。「人形、人形」陽子がイラクの子どもに挙げてくださいと日本から預かった人形がほしいらしい。「急に言われても困るわ」と陽子がいうと、「自分で買う」とイブラヒムはすねてしまった。おもちゃやにいくとイブラヒムは「歌を歌う人形をください」という。「あやちゃんと約束したんだ。歌を歌う人形をあげるって」

そういえば、イブラヒムが一ヶ月前にアヤちゃんからアクセサリーをもらっていたのを思い出した。イブラヒムがバスラに残してきた娘ファーティマに会いに行くというので、アヤちゃんが「ファーティマに上げて」といってくれたそうだ。そのお返しにというわけだ。お店の人が出してきた人形は、赤ちゃんがしゃべる人形だった。「なんだか違うんじゃないか」しかも高い。イブラヒムの給料では到底買えるものではなかった。そこで、仕方なく私も半分出してやって、歌わない着せ替え人形を買った。「イブラヒムが約束したのだから、代わりにアヤちゃんの前で歌えばいいさ」と慰める。

アヤちゃんのおじいさんは、とおりまで迎えに来てくれた。路地裏を入っていくと薄暗いアパートがあった。寒々とした部屋の真ん中にポツリとアヤちゃんが座っていた。アヤちゃんは、小学校一年生になったばかりのとき、具合が悪くなり、入院。結局足を切断することになりヨルダンまで治療に来たのだ。5月に右足を切断するが、がんは進行して、8月には同じ右足を付け根のところから切断しなければいけなかった。その後、化学療法をつづけているので髪の毛はない。

「この子はたった2日しか学校にいっていないのです」アヤちゃんは、かばんからノートを取り出して、イブラヒムに見せた。ほとんど笑わない女の子だが、イブラヒムだけにはなついているようだ。ヨルダンでの滞在費も底をついたので、明日にでもイラクへ戻るという。選挙のために国境が閉ざされていたのが、開き、車代の相場は跳ね上がっている。おじいさんが、イブラヒムに諭され、パスポートのビザの有効期限を調べる。パスポートに挟んであった100ドル紙幣が落ちた。100ドルでは車は頼めない。私たちは、お別れを言って外に出た。満月が笑っていた。子どもが描く絵のようにけらけらと笑っているのだ。

翌日は、朝から風が強く、寒い日になった。僕は、アヤちゃん一家を見送りに、立ち寄ることにした。イブラヒムも歌う人形をあげようという約束を破ったことの罪悪感か、腹を壊して寝ていたが、無理やりに連れて行った。

「さあ、ご飯でも食べていってください」イブラヒムは、腹を壊していたのでほとんど食べなかった。「ヨーグルトでも食べなさい」
静かな時間が過ぎて言った。アヤちゃんは、両手と左足で這いながら部屋の中を移動していた。
イブラヒムも腹の調子が悪いのかいつになく寡黙だ。静かな時間が流れて行った。私はわずかだが生活の足しにとお金を渡した。

その夜、アンマンは大雨になった。アヤちゃん一家は、バグダッドを目指して去っていった。
一方、モーメンホテル。こちらは病院からも近くて立派なホテルだが、滞在していたがんの5家族も近日中に追い出されるというので荷物をまとめている。廊下では、子どもたちは狂ったように大はしゃぎだ。別れのときはいつも大はしゃぎするというのはイラク流だろうか。私は彼らに別れを告げて飛行場へと向かった。
2006年が、よい年でありますように!



豊多摩の姿見ず橋──緑の虱(15)  藤井貞和





豊多摩の、
姿見ず橋に、


きのうもきょうも、
橋占(はしうら)は立ち、


あのひとが、
そのひとを恋い、


どのひとかが、
だれかに会いたいとき、


「姿に、
めぐりあうことは、


かなわぬものか、 
橋占よ。」


橋占は訊ねられて、
ひらく祭文(さいもん)、


「さあて、
ここは姿見ず橋、


袖モギさんも立つ、
市(いち)のように。


姿 髣髴(ほのか)に、
会おうとお思いかえ、


恋しいおんなよ。
転ばぬように、


この橋を渡りきったら、
渡りきるなら。」



(「豊多摩の姿見ず橋を うれひつゝ、わがゆくこゝろ 人は知らずも」と、折口信夫短歌の拾遺にある。袖モギさんに呼びとめられて、転びでもすると、あなたはコオロギになる。コロコロコロ、橋のたもとで鳴いて暮らすの。キリキリキリ、これはキリギリス。)





アジアのごはん(7)タイの鍋物  森下ヒバリ




あんまり寒いので、温かい鍋物の話を。暑いタイにも鍋があるの? と思われる方もいるだろうが、タイ人はけっこう鍋好きである。ただし、もっとも日本人の鍋の概念に近いタイスキと呼ばれる鍋物は、冷房の効いたタイスキ・レストランで食べるのがふつうで、家庭ではあまり作らない。タイスキの正式名はスキヤキであり、略してスキー。日本人はタイスキと呼ぶ。どこかで名前が入れ違ったらしく、日本のスキヤキとはまったく別物で、むしろしゃぶしゃぶに近いともいえるが、やっぱり一番近いのはふつうの鍋でしょう。大きな違いは鍋の形とつけダレである。

タイスキのルーツは中国の火鍋料理で、それがタイふうにアレンジされて現在の形になった。火鍋には真ん中に炭火を入れる煙突がついている。ドーナツ状の鍋の部分にスープを張り、白菜や空心菜などの野菜、春雨、つみれ、餃子、肉、魚介類などを入れて煮て、タレにつけて食べる。この鍋の形は時代とともに変化して、現在では煙突のない電気鍋が主流である。

つけダレは見た目がオレンジ色で、どろりとしており、香菜のパクチーがたっぷり散らしてある。このタレを碗に適量とって、スープで薄め、煮えた具を浸して食べる。味は、う〜ん、形容が難しいが大変コクがありおいしい。タレに生トウガラシの刻んだものとニンニク、タイのレモンであるマナオの汁を加えると、さらにおいしくなる。各タイスキ・レストランではタレに工夫を凝らし、それぞれの店に秘伝のレシピがある。

タイスキのタレの成分を類推すると、味のベースは中国の発酵した豆腐である「紅腐乳」。これは沖縄の豆腐ようの親戚で独特のうまみがある。そして、チリソース、ごま、ごま油、中国甜醤油、さとう、ニンニク、ショウガなどなど。どろりとしているのは、片栗粉か米粉を加えているようだ。

バンコクでいつも行くのは、定宿からも近い、伊勢丹向かいの路地を入った「テキサス」というチェーン店だった。いろいろな専門店があるが、わたしはこの店の味が一番好きで、おいしいと思う。老舗には他に50年近い歴史を持つコカやカントンなどがある。ところが、去年の夏にテキサスに行くと、マネージャーが「お客が減ったから、この店はちょうど今日で閉店なの」と寂しそうに言うではないか。いつも満員だった頃に比べ、最近はあまり客の数が多くなかったのは確かだ。タレの味が変わったとか、材料の質が落ちた、というわけではない。数年前にすぐ近所に、一階に衣料品テナント、二、三階にビッグCスーパー、四階にレストラン街、五階に映画館というビッグCグループによる複合ビルが建ったのだ。そこのレストラン街に、最近タイ人にとても人気のMKスキというチェーン店が出来た。このあたりでスキを食べていた客の多くがMKスキに流れたのである。通りを隔てたワールドプラザにもMKスキはある。
長い間このラチャダムリ通りのテキサスを贔屓にしてきたので、かなりショックであった。この店との付き合いは、考えてみれば十六、七年になるのではないか。

ちょうど、日本から友人が数人来て近所に泊まるので、一回はテキサスでタイスキを食べるつもりだった。この辺りにあるタイスキ店はMKスキしかない。仕方がないので、ビッグCの四階のMKスキに味見に行ってみた。MKスキは、明るく清潔な店内で、ファミリーレストランそのものである。セットを頼むと、大皿に盛られた野菜とかまぼこなどが出てくる。魚などを追加して食べてみる。
「う〜ん、なんていうか……」始めはこんなものかな、と食べていたが、はっきり言って薄っぺらい味。野菜もおいしくない。つみれなどはまさに安物のファストフード的というか、工業製品的味である。いや、紀文とかカネテツのほうが数段うまい。食べるのが苦痛になってきた。二度と来ないぞ。まわりを見ると、昼食時間のせいかこぎれいな格好をしたオフィスガールや、同僚たち、若いカップルなどが中心で、みな楽しそうに食べている。けっこうな賑わいである。

「どこがおいしいの?」という味なのに、雰囲気と安さで人気なのか? 資本が大きいようなので宣伝力か。あちこちにあるし。こんな味に満足しているとは、タイ人の舌は大丈夫なのかと心配になってくる。比べ物にならないうまさの鶏肉の焙り焼きガイヤーンがあるのに、高いケンタッキーフライドチキンに喜んで行くようなタイ人も多いから、舌で食べているのではないのかも。

そこで、もう一方の鍋の雄、東北イサーン地方の鍋、ジェオホーンを食べに行くことになる。(ジェオホーンはバンコクではチムチュムと呼ばれている)小ぶりな土鍋にスープを張り、炭火の卓上コンロの上に乗せて、野菜や肉などを煮ながら食べる。コンロがしっかり固定されているような店を選ばないと、倒れてきそうなところが、スリリング。近所の店で、人気だったジェオホーンを突然止めてしまったことがある。どうしたの? と聞いても、うう〜んと誤魔化して答えないのは、たぶん鍋が倒れて怪我人が出たかどうかしたのではないか疑っている。屋台のテーブルはガタガタだし、コンロの安定は悪い。

でも、その危険を冒しても食べたくなるほど、ジェオホーンはうまいのだ。タイスキの味は中華系だが、ジェオホーンはまさにメリハリの効いたタイの味。ジェオホーンは、タイスキと違って、スープにレモングラス、南きょう(生姜の一種)、こぶみかんの葉、トウガラシなどのハーブを加えて煮出す。そこに空心菜、白菜、キャベツ、バジル、ミント、パクチー、春雨、そして肉類か魚介類を入れて煮る。スープごと碗に取り、粉トウガラシにナムプラー、マナオ汁、炒り米粉を混ぜたタレを少し混ぜて食べる。ジェオホーンはもともと牛肉鍋だったが、バンコク進出で魚介類のバージョンも生まれた。

このジェオホーンは、イサーン料理屋で食べることが出来るが、そのほとんどが屋外の屋台だ。目の前で炭火を使うので、大変暑い。タイの暑季には、さすがに食べる気にならない。コンロが危ないこと、暑すぎることのほかにまだ欠点がある。それは、鍋が小さいので、たくさん野菜を煮ることが出来ず、タイスキのように思い切り野菜が食べられないことと、具を煮た後のスープが本当においしいのに、雑炊にできないことである。

タイスキの最後に残ったおいしいダシで雑炊を作るのを、日本人は長い時間をかけてやっとタイ人に認めてもらえるようになった。十年くらい前までは、タイ人は残ったスープで雑炊を作るのは豚の餌だと嘲笑していたのである。その激しい軽蔑の視線に耐えながら、ごはんと刻んだネギ、醤油と生卵を注文してタイスキの最後を雑炊で締めくくるのが、その頃のタイ在住日本人の楽しみであった。わたしも友人達とテキサスの雑炊認知運動に強力に参加してきた一人である。今ではどの店でも雑炊にする、といえばあれこれ細かく言わなくても刻んだネギなどの一式が出てくるようになっている。

ところが、ジェオホーンの方はハーブを沢山入れるので、色々煮て食べた後のスープはどうも雑炊の味に馴染まない。むしろ、極上のハーブスープになっており、最後の一滴まで飲み干したいくらいだ。しかし、最後にはお腹は一杯だし、土鍋は水分がなくなると割れそうになるので、いつもスープを残してしまう。こんなうまいものを残さなくてはならないなんて、なんて罪な鍋、ジェオホーン。テキサスが近所になくなった今、君だけが頼り。お願いだから倒れてこないでね。




モスクワへ  御喜美江




12月10日午後2時50分、アエロフロート118便でデュッセルドルフからモスクワへ飛んだ。まだ学生だった頃、このアエロフロートは他の航空会社と比べて圧倒的に値段が安かったので、日本へ帰国するときはいつもフランクフルト→モスクワ→東京というルートでここを利用していた。しかしモスクワの町を訪れるのは生まれて初めて。ロシアも初めて。

昔に比べてここ数年、東欧への旅行は信じられないほど簡単になったが、ロシアはいまだロシア。ふと思い立ったから、気が向いたから、時間が取れたから、ちょっと旅してみる、なんてわけにはいかない。特に仕事で行く場合は、ロシア側からのオフィシャルな招待が在独ロシア領事館に送られ、それをもらってからヴィザを申請し、早くて3時間後(155ユーロ)、普通は一週間後(65ユーロ)にヴィザがおりる。これがないと絶対にロシア入国は出来ない。

尚、我家からはボンのロシア領事館が一番近いのだが、ヴィザの申請は9時―12時、受け取りは12時―13時のあいだだけ。驚いたことは午前9時半に領事館を訪れると、鉄の門が閉まっていて、外には30人近い人たちが立って待っている。「どうして中へ入れないのですか?」と人に聞くと、「係りの者がきてこの門を開けないと入れない。10分位のこともあるし、1時間待つこともある。」と。外は零下の気温、30分以上も路上で待っていると、もう足の感覚がなくなるほど冷え切ってしまう。やっと中に入れたら、今度は怖い顔をした係員が「お前はこっち、あんたはあっち!」と命令している。私もその一人なのだが、まるで犯罪者扱いのように私には感じられ、“ロシアの旅”はこの領事館まででもう十分と、心底うんざりしてしまった。

しかし人間というのはおかしなもので、一週間後にヴィザがおり、無言の係員から紙に指示された金額を別の建物の中で払って(不思議とカードしか使えない。もちろんカード手数料も取られる)、その領収書をしっかり手に持って再び鉄の門をくぐり、メガフォンから自分の名前が呼ばれると、ばね仕掛けの人形のように立ち上がって窓口へ進む。「貴女Mie Mikiに、ロシア政府は、文化交流のための、ヒューマニティー・ヴィザを、2005年12月5日より2006年1月4日まで、与える!」と、割れんばかりの大声でプロレスラーみたいな体格のロシア人から読み上げられ、ヴィザが記載されたパスポートをめでたく手渡されると、何となく表彰状をもらったような気分になってしまった。「全くこれってどうなってんの?」と自分で自分が分からなくなる。

モスクワはバヤン・アコーディオン・コンペティション2005というもので、一週間にわたって昼間はコンテスト、夜はコンサートという内容のフェスティバル。フリードリヒ・リップス氏がチーフで審査員は合計13人、ソリストが6人。びっくりしたのはジャズ・アコーディオン奏者で今年85歳のアート・ヴァン・ダムをはじめ、J.マチェロロ、M.ランタネン等、アコーディオン界では誰でも知っている人物ばかりが名前を連ねていたから、きっと半分以上は来ないだろうな、と思っていたら、何と全員がモスクワに到着していた。後で知ったのだが、3人のロシア人と1人のウクライナ人以外は、みんな私と同じような「ロシア領事館・涙のヴィザ物語」があって、そのエピソードには、多分いろいろな尾鰭もつけられ、ある晩すっかり盛り上がってしまった。人の苦労話に爆笑するのは失礼だけれど、「私だってひどい目にあったんですもの……」というわけ。尚、ここで結論を出すと、ロシア領事館というのものは、アメリカもカナダもイギリスもフィンランドもイタリアもフランスもドイツも、みーんな同じということだった。

さて、12日夜は私のソロリサイタルだった。初めてロシアで演奏する、ということは“ロシア・デビュー・コンサート”。ここで私がまだ十代なら“デビュー”に光が当たるわけだが、50歳を目前にしてはデビュー&ラストになるかもしれないから、曲目はじっくりと考え、ラモー、グリーク、高橋悠治、ジョン・ゾーンを選んだ。これらは私の最も好きとするレパートリーだから、プログラムに心配はなかったのだが、あいにく昼頃から熱っぽく、審査が終わる6時には最悪の体調。体はほてるように熱く、関節はギシギシと痛む。もうこうなったら音楽しかないと諦め、他の事はもう何も考えられなかった。

8時過ぎに舞台へ。ラモーを弾き始める。すると満席の聴衆側から2000ボルトの静寂が迫ってくる。これはいったい何だろうと不思議な気持ちになる。グリークではこの静寂がさらにクレシェンドしていく。その頃から、私の中に眠っていたアコーディオンを弾く魂のようなものが目覚めた。高熱も、首のリンパ腺の痛みも、咳も鼻水も、どこかへ置き去りにして、ただただ夢中でアコーディオンを弾いた。それはほとんどトランス状態だったように記憶する。高橋悠治作曲の「水牛のように」は、ロシア語で詩を朗読してもらった。ほんとうは私も日本語で朗読したかったけれど、声がまともに出なかったのでやめた。プログラムが全部無事終了すると、“ブラボー!”がユニゾン合唱となってホール全体を揺らし、私は感動と高熱の中を夢心地で彷徨っているようだった。

このような聴衆を私は他に知らない。モスクワの聴衆は私の中に眠っていたもう一つの私を、その2000ボルトの静寂エネルギーで目覚めさせてくれた。「モスクワは危ない、恐ろしい、絶対に一人で行動しないように!」といろいろな人から言われていたので、今回の旅行は夫も同行していたのだが、彼は楽屋へ入ってくるなり「歴史に残る演奏というのは、こういう演奏だ!」と感激してくれた。そしてこの日を境に、私はロシアとロシア人を別々に見るようになった。

最後に:
2005年も残すところあと一日となりました。
『水牛』の編集長、八巻美恵さま、スタッフの方々、読む水牛のクラスメート、そして何よりも毎月私の拙い文章を読んでくださる読者の皆様、ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。
2006年が皆様にとって健康、幸せ、平和、そして夢あふれる年となりますよう、
遥かオランダよりお祈りしています。
雪のラントグラーフより〜 (2005年12月30日)




カミ  三橋圭介





 いちばんたいへんなのはカミです。カミはやっかいです。いつのまにかたくさんあります。そこにもここにもカミ、カミ、カミです。つくえのうえもソファのうえもカミだらけです。げんこうのカミ、こうせいのカミ、まいにちなんつうかおくられてくるコンサートのカミ。せいきゅうしょのカミ。そういうものがなんとなくそこいらにあります。すこしはタバになっていて、そうじのときにカミバコにかさねていきくと、10センチくらいにはなります。

 さいきん、カミはカミの日というのがあります。これはカミか、それともゴミか、よくわかりません。カミをクチャクチャにするとゴミになります。クチャクチャのカミをきれいにたいらにのばすとカミになります。ではカミとゴミのさかいはどこでしょう。また、すこしやぶれたカミはゴミでしょうか。すこしならきっとカミです。はんぶんならゴミでしょう。でもどこまでやぶれたらカミはゴミでしょう。また、カミにコーヒーをこぼすとすれば、どこまでカミでいられるでしょう。

 かいたげんこうはいちおういんさつしてみます。よんでみて、これはゴミだなとおもいます。そんなときはおもわずゴミのはこのなかにまっさかさまにすいこまれていきます。すいこまれずにカミにもゴミにもなれないなにかがウヨウヨしています。




一年の計は元旦にあり?  大野晋





まず、昨年の反省から。2005年はとにもかくにも、書けなかった。いろいろと原因はあるのだが、書き下ろしの技術系読み物本の原稿から始まり、雑誌の原稿、その他の雑文、青空文庫のテキストに至るまで、ありとあらゆるモノに手が付かなかった。
このままではまずいと、2006年は「まず書く」という習慣がつくようにがんばってみようと思い立った。思い立つのは自由だが、思うだけでは元の木阿弥と化すのは時間の問題なので、宣言しようと思う。

  「今年は書く」

面白いもので、書かないと読むことも少なくなる。ただし、本の購入量はあまり変化しないので’積読’する本の山ばかりが増えてしまう。そうでなくとも、資料として「牽く」ための本も結構あるので、そういった本も合わせると膨大な未読の本の山ができあがる。そんなに本を山にしなくても、と言われても、最近の本は専門書にしろ、一般書にしろ、ビジネス書にしろ、寿命が短いから「いつか」とばかり言ってはいられない。しかも、たいていの場合、「良い本」から先になくなってしまう。変な世の中になってしまったものだ。

しかし、本の替わりに文章を溜め込むことになったインターネットの世界も大変なもので、いろいろな文章にあふれている。本の替わりに文章はインターネットに移ったのだ。と言われても、ずぼらな店員のいる書店よりも乱雑に並んだインターネットの本棚はどこに何が埋もれているのか、突き止めるのに骨が折れる。検索エンジンを使っても、最近では商売に励んでいるようで、
探していないスポンサーのサイトばかりが並んでいる。こうごちゃごちゃになっては後が大変だ。インターネットにもライブラリアンが必要だなと思う毎日である。

以上、雑文終了。ここまでお付き合い頂いた方に感謝する。



年末年始の時間〜赤穂浪士からとんどまで  冨岡三智




年の瀬の追われるようにあわただしい雰囲気の中を駆け抜け、新年に突入してぼーっとする、という日本の年末年始の雰囲気が私は好きだ。

インドネシアでは西洋暦の正月だけでなく、ジャワ・イスラム暦正月、ヒンズー暦正月(ニュピ)に太陰暦正月(スハルト政権が倒れてから祝日に加えられた。中華系の人たちが祝う)が祝日になっている。ジャワで一般の人たちが一番盛大に祝うのはイスラム暦正月だ。宮廷行事や年忌法要、80歳のお祝いなんかはこの暦に従う。また兄弟姉妹が同じ年には結婚式を挙げないという時の暦もジャワ暦で、生活には西洋暦よりもジャワ暦の方が重要だ。

それでもジャワ暦も西洋暦も、大晦日を寝ずに過ごして翌朝の元旦を迎える点は日本の(かつての)正月と同じだ。ジャワだと通りのあちこちで紙製のラッパが売られ、ラッパを鳴らしたり爆竹を鳴らしたりしてにぎやかに大晦日を過ごす。市役所や劇場なんかではワヤン(影絵)や特別豪華版の舞踊劇が催されて人々でいっぱいになる。

ただどちらにしろ、ジャワには大晦日から正月への移行はあっても年の瀬がないという気がしてならない。1年がもうすぐ終わるという追い立てられるような気持ちにならないのだ。旧い年の残りの日々をカウントダウンして、大掃除をして、旧いことは忘れて(忘年)ご破算にして、まっさらの1年に更新しようという気持ちが、ジャワでは沸いてこなかった。暦がたくさんあるのもその一因かも知れない。各正月が巡るごとに追い立てられてはたまらない。あるいは、雨季と乾季のサイクルで巡る国では、時は循環しても前進しないのかも知れない。逆に四季がある日本では、時は循環するにしろ、春から夏を経て秋、冬へとゴールに向かって直線的に進む部分もあるのかも知れない。

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唐突ながら、年の瀬の感を強くするのが赤穂浪士ものの番組だ。日本人は(もちろん私自身も)なんで赤穂浪士の話が好きなのだろう。それはきっと、年末に達成感やこれでおしまい!という気持ちを刺激してくれるからなのだ。12月14日という日も良い。これが暖かく眠気を催す春先だとか、蚊の多い夏だとかだと、討ち入りの悲壮さに欠けてしまって共感できないかも知れない。それに1年の先はまだ長いから、これですべて終わったという心持ちにもなりにくい。やはり寒くなってからがいい。かといって、大晦日近くの本当に忙しい時に討ち入られてもはた迷惑な気がする。正月準備に取り掛かる事始めの日(12月13日)を迎え、なんだか気ぜわしくなってきたところに討ち入りだと、良かった良かった、浪士も本懐を遂げたし、私もこれであとは大掃除と年賀状を出せばおしまい…という気持ちにはずみがつくのだ。

ところで、早や昨年となった12月の始め頃に、赤穂浪士の講談を聞く機会があった。それも別注ネタである。注文主は討ち入り後の赤穂浪士のお預け先となったお家の1つの末裔の方である。そのお家は赤穂浪士へのもてなしがあまり良くなかったと言われているのを口惜しく思い、「大変結構にもてなした」というお話にしてほしいと注文されたのだ。会場はそのお家敷で、八畳座敷を二間続きで使い、床の間を背にした講釈師の前に、その末裔の一家(子や孫も含め)と友人たちの20人足らずが座っている。こんなアットホームな会場に呼ばれたのは初めてですと講釈師も言っていたけれど、こんな風に自宅に芸人を呼んで楽しむのは、現在の日本ではほとんど見られないだろう。今ではなんでも劇場芸術になってしまい、個人がチケットを買って入場するというのが普通だ。このお宅で講談を聞いていると、ジャワの個人宅で催される音楽会だとか影絵だとかを思い出す。ジャワではまだこんな楽しみ方が廃れていない。

それはともかく、昔はある講談を本にするとなると、ネタに関係する大名家などに本をまとめて買い上げてもらいに行ったという。そこで値切られたりすると、講釈師は講談の中でその大名家のことを散々悪く言って恨みを晴らしたらしいのだ。そのために、たとえば蜂須賀家は泥棒呼ばわりされる破目になったという。だから今回別注ネタを注文したお家も、もしかしたらご先祖が協賛金をケチったのかも知れない。そんなことを講談終了後に講釈師が話してくれた。

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こうしてめでたく正月を迎えるのだが、年の瀬がないのと同様、ジャワには正月の時間の長さもない気がする。翌朝は確かに前日よりも静かで、道路には一晩寝ずに騒いだ人たちのラッパやらゴミやらが静かに散乱している。けれど、正月はそれで終わりなのだ。特別にごちそうを食べることもないし、その日の昼からはもう普通の生活に戻ってしまう。

けれど日本でのお正月は松の内の間中続いている。その間に学校や会社は始まっているにしろ、正月気分というのは何となく残っている。松の内の最後の1月15日の夜に青竹を高さ3mくらいに組んで燃やし、正月飾りをその火で燃やす。それがとんどだ。私の地域(奈良県)ではとんどと呼ぶが、他にどんど焼きとか左義長とも呼ばれる。この時、書き初めも一緒に燃やし、それが空高く上がると書道の腕が上達すると言われている。県下には大勢の観光客が見に来るような有名な由緒あるとんどもあるけれど、どの地域でも田圃や広場で普通にやっている(と思う)。

子供の頃はとんどを心待ちにしていた。誰が始めたのか、とんどの夜にかくれんぼして遊ぶという習慣があったのだ。大体中学に上がる頃までそうやって遊んでいた。親も公認で、この日は夜遅くまで遊んでいても叱られなかった。とんどに点火される夜8時頃、子供たちは懐中電灯持参で集まる。しばらくは火に当たりながら書き初めの上がる高さを競い合ったりしているけれど、そのうちかくれんぼになる。思いがけない所、たとえば葉が落ちて裸になった柿の木の上なんかが、夜には立派な隠れ場所になるのが楽しかったものだ。今になって思えば、これでお正月も終わりという気分が子供の側にも強くあったような気がする。夜のかくれんぼは1年に1度、とんどの夜だけの楽しみであった。過ぎ行く正月の最後の夜だからこそ、あんなに時間を惜しんで遊んだのだろう。

  ●

今では松の内の語も7日までを指し、百貨店は2日から営業している。年末の大掃除やお節料理づくりも大層なことはしなくなっている。それでもお正月をはさんで年の瀬、松の内という時間の移り変わりがあることが、私には嬉しい。正月は時間軸上のデジタルな点として存在するのでなくて、旧い年から徐々に新しい年に脱皮して生まれ変わるその時間の幅に存在していてほしい。




製本、かい摘まみましては(14)  四釜裕子




1965年に「現代の眼」(現代評論社)に連載された寺山修司の小説「あゝ、荒野」が翌年単行本となったとき、表紙カバーの写真撮影に寺山が指名したのが森山大道だったそうだ。昨年同タイトルでPARCO出版が刊行するにあたって、森山さんは211枚のプリントを引き伸ばしたとのことで、カバー袖には「本というリングの上で、小説と写真が熱く火花を散らす!」とある。そのリングを整えたのが装幀と写真構成を担当したグラフィックデザイナーの町口覚(マッチアンドカンパニー)で、作家から印刷・製本、書店まで、本づくりに関わるすべてのひとが持つ紐を縄に編み上げるような仕事ぶりに、今回も目をひかれたのでそのことを。

町口さんはこれまで、佐内正史写真集『MAP』(佐内正史事務所)、三代目魚武濱田成夫詩集『二万千百九十一俺』(メディアート出版)をはじめ多くの本の装幀を手掛けており、印刷や製本工場でのやりとりをウェブサイトで早くから公開していたのが印象的だった。最近は写真家の大森克己さんらとワークショップも行っていて、写真を発表するには「マナーじゃないけど、(印刷物をつくるうえでの)必要最低限のルール」を「身につけることは大事」と、製紙・印刷・製本の現場の人をゲストに迎えたいと考えているようだ。

ちょっと話は飛ぶけれど、マンションやホテルの偽装建築には驚いた。最も深刻な問題だなと感じたのは、最終的な商品は一棟の建物なのに、細分化された期間と予算を消化することが第一義となった各業種のひとたちが、入居者の笑顔を想像してこっちもうれしくなってしまう、なんてことを少しも思うことなく日々を過ごしてきたであろうことだ。大なり小なり、物づくりは分業が進むほど、多くのひとの知と悦びを糧とするいっぽうで、そうした危険を含んでしまう。これは本づくりにも言えることで、だから町口さんが、写真で表現したいと集まるひとたちに、一冊の写真集を読者に届けるためのさまざまの専門域のひとたちと往来するきっかけを作ってあげたいというのは、とってもいいなと思った。

さて2005年版『あゝ、荒野』の表紙カバーは、3枚の写真をレイアウトしてくろぐろと刷られ、刷毛で塗ったように赤と青のボーダーが斜めに入れられている。カバーの表面はPP貼りではなくニス引きのようだ。背のタイトル文字のあいだに猫が顔をのぞかせ、三沢の犬よろしく振り向いて半開きの口もとから「あゝ猫荒野」と言っているようでもある。表4のバーコード一式は黄色地のシールに刷られている。カバーをはずすと全面に別の写真、背にシルバーでタイトルと著者名。花ぎれと見返しは揃いの濃赤色、スピンは濃青色。本文は、十五章それぞれの扉の前にモノクロ写真が数ページまとめてあるので、天地小口は灰色と紙色のボーダーにみえる。

全700ページ、厚みは40ミリくらいか。表紙ボールは1ミリ厚程度のものが使われているのでやや薄い印象だが、おかげで軽くて持ちやすい。左手にのせて、写真をぱらぱらめくって小説を読み続けることができるし、糸かがりなので、見開きに入れられた写真も思いっきりページを開いて見ることができる。みすず書房の大人の本棚シリーズも、厚さ1ミリ程度の軟らか表紙の上製本だが、ふたつを比べてみると、『あゝ、荒野』はずいぶんはりのあるボール紙を使っていることがわかる。本全体の大きさや内容とのバランスにおいて、両者それぞれ好ましい。

『あゝ、荒野』の各章の扉のあとには、右ページに写真、左ページには、それぞれの写真の、見た目の印象に添って選んだと思われる寺山の短歌が一首ずつ添えられている。たとえば第一章は、扉にもたれかかって煙草くゆらす女性に、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」が並ぶ。2005年版『あゝ、荒野』という「リング」に寄せて言えば、「マッチ擦る音」をゴングとしてマッチこと町口覚のリング作りがはじまって、赤と青のコーナーにふたりのボクサーをむかえたのだろう。

刊行記念展(2005.12.1〜13 於:ロゴスギャラリー)の会場に出かけると、もう次のマッチが擦られていた。ほのかに照らす「リング」に鎮座するのは赤と青の2冊のダミー本。なんと、革で装幀した特装本を刊行する予定だという。革装・赤と青表紙の2冊セット(函入り・写真プリント付)、限定50部、20万円、PARCO出版。



しもた屋之噺(49)  杉山洋一




一月が経つ早さに改めて目を丸くしながら、布団にもぐり込み原稿を書き始めました。
今年の2月に申請した労働ビザが、10ヶ月経ち、殆ど不可能かと思われた矢先に、突然発行されたのが、今月一番の出来事だったかも知れません。

労働ビザの発行は、国ごとにイタリア政府が定めた定員に入れるかどうか、当人の仕事が認められるかどうかが、大きなポイントになります。今年2月4日に政府が受入れ定員を発表と受付を始め、2月7日には申請書を出し、定員に洩れず済みましたが、それからが文字通り梨の礫でした。4月10日に自分の滞在許可証の期限が切れ、担当弁護士から労働ビザへの書換え申請中は、最後に労働ビザさえ下りれば大丈夫だと言われても、気が気ではありませんでした。そう言っていた当の弁護士が、7月になっても全く何の音沙汰もないので、学生ビザを更新した方が良いでしょうと言ったくらいでしたから。

仕方なく、書類を揃えてイタリア大使館へ出向いたところ、イタリア人書記官から「お前にはもう学生ビザは発行しないよ、どうせ働くのは分かっているんだから」と素気無く言われた上、「労働ビザの書換えだってどうせ無理だ。音楽家なんかに労働ビザを出せる筈ないじゃないか。そんな怪しげな仕事なんかに。職を変えるか、北欧でもどこでも外国へゆくんだね」そう懇ろに駄目出しされ、八方塞がりになりました。

こうなれば、どうにかして労働ビザを待つしかありません。8月末になって、突然労働局から、仕事内容を保証する証明書を提出せよという通知を受取り、訝しがりながら商工会議所に出向くと、音楽家などに証明書は出せないと言います。劇場の生涯雇用でもなければ無理だし、挙句の果てには、どうしてわざわざそんな職業を選ぶのか、等と説教される始末で、弁護士を通じて内情を調べると、今年から責任者が変わって、今まで以上に厳しくなったと言うではありませんか。その頃には家人と息子のイタリア滞在を保証するためにも、こちらの労働ビザが不可欠ということも分かり、弁護士からもお手上げですと謝られ、四面楚歌の焦燥感が漂ってきました。この時点で自分の滞在許可証の期限が切れ、半年経っていましたから、学校側から滞在許可を提出せよと言われれば、職を失う危険すらありました。

ところが、純粋な無神論ながら、息子が生まれた時点で、自分を導く何かを信じるようになっていて、最後には絶対に何とかなる筈、これで何ともならないなら、それも何かの印だろうという妙な確信だけはあったのです。ならば最後の手段として、労働局の責任者に直に談判に行きたいと弁護士を通じて話したところ、この責任者は「国際的知名度の高い芸術家、アバードやムーティくらいなら、証明書を出してやる」と返答を寄越しました。普通ならこの辺でめげる所でしょうが、今更放り出しても、一歩後ろに踏み出せば崖の下に落ちるのが分かっていましたから、「わかりました。自分の活動歴で何とか説得させます」とだけ言い、今までの仕事の有りっ丈の資料、「パリの秋」やら「ウィーン・モデルン」、「スカラ座」など、出来るだけわかりやすい資料を揃え、アンサンブル・モデルンから送ってきた分厚い新聞批評のリブレットも添えました。

音楽を知らない人間にこの程度で通用しないのは分かっていたので、クラウディオ・アバードの実姉ルチアーナに、駄目で元々と思いながら、「本当にほんの一行でいいのだが、クラウディオに頼んで、この男に就労許可を出すようと書いてほしい」とお願いすると、すぐ電話が返ってきました。
「クラウディオはあなたのことを知らないから、あの子の性格からして書かないと思うの。でもあなたは今ダニエレと一緒に仕事しているじゃないの。だから彼にすぐに電話したのよ。そしたらそんな事は何でもないって。指揮者としても作曲家としても、あなたのこと良く知っているから大丈夫だって。良かったわね。心配しちゃ駄目よ。絶対うまくゆくんだから」
ダニエレというのは、レッジョ・エミリア劇場の芸術監督をしている舞台監督で、クラウディオの息子、ルチアーナの甥に当たります。元来シチリア人の血を継ぐアバード家が家族の絆が強いのが幸いして、レッジョ・エミリアの本番の後、ダニエレはそっと懐から手紙を出し、こんな事で役に立てるのなら何時でも言ってくれと微笑みました。

さて、弁護士を通じてダニエレの手紙と資料を労働局の責任者に持ってゆくと、ダニエレを何者か知らないので、彼の素性を証明する文書を劇場から発行させるか、スカラ座に同様の手紙を書かせれば証明書は出してやる、と言ってきました。こんな厄介にも、レッジョ・エミリアの劇場は思いのほか親切に対応してくれました。レッジョの仕事が大成功したのも幸いし、忙しい中Visuraという企業の沿革にあたる内部書類をすぐにファクスしてくれ、労働局の責任者は「これなら現在までの部分に関して問題はない。では、現在この時点でお前が働いている証明をしろ。それが出来れば証明書はやる」、と改めて弁護士を通して言ってきました。何と矛盾した世界でしょう。労働ビザの貰えない人間に、実働の証明書を提出しろと言うのですから。それでも運良く秋は演奏会が多くありましたし、各企画責任者に頼み込み証明書を提出して貰い、何とか事なきを得たのが11月下旬の事です。

すると途端に、ぱったりと労働局から連絡が途絶えたのです。弁護士を通じ責任者に連絡しても、書留郵便で当事者に返答済みと繰り返すばかりで、要領を得ません。ところが、その書留郵便は、3週間経っても届かないのです。今年定められた労働ビザの定員は、12月を過ぎれば無効になってしまいますし、気がつけばもうニューヨークに出かける1週間前。忙しさからメヌエルの発作で文字通り目も回って床に着いていると、弁護士からどうやら証明書は発行されるようだ、すぐに労働局へ出向くようと連絡が来ました。

自律神経系の発作なのだから、こんなニュースが来れば、吐気も飛んでいってくれそうなものが、行き先々喫茶店のトイレで、全身の反抗を受けながら嘔吐を繰り返し、へろへろで労働局へ倒れこむと、担当の気の強そうな女性曰く「何これは。滞在許可証が4月で切れているじゃないの。いい加減にしてよ。発行できる筈ないじゃない」、と取付く島がありません。手続きの最中は滞在許可証の更新は出来ないと説明しても聞く耳すら持たず、こちらは頭も朦朧として、どこで何をしているのか半分すら判然としない中、彼女の上司である一連の責任者、トマルキオ氏に直に会わせてくれとだけ嘆願しました。渋々書類を持って出かけ、随分待たされた挙句、浮かない顔で戻ってきた彼女は、仏頂面のまま、ここにサインして、とだけ言うと、黙って証明書を発行してくれました。突き上げてくるのを必死に堪えつつ、あらん限りの笑顔で「良いクリスマスプレゼントになりました。有難うございます」と言うと、「どうせ駄目よ。警察署にゆけば、そんな期限の切れた滞在許可証、通用するわけないわ」と言い捨てて、奥へ消えてゆきました。

この証明書を携え、商工会議所で別の証明書を作成し、三日目にはミラノの中央警察署で労働ビザを受取ることができたのは、信じられないことです。最後になって労働局が連絡を絶ったのは、12月の期限を越せば、一連の手続きが帳消しになるので、恐らく時間を稼いでいたに違いないとのことでした。果たして、ニューヨークに発つ前日になって郵便局から通知が届き、労働省から文書85554/85557の発行許可がある旨すぐに出頭せよとのこと。見れば件の女性が発行してくれた証明書番号でしたから、嬉々として通知は破り捨て、薄い吐気を抱えつつ、賑々しいクリスマスのニューヨークに向け、デルタ機に乗り込みました。

(12月25日モンツァにて)




電子「公共圏」はどこへいった(その3)  石田秀実




 9.

自律したばらばらの個人をモデルとする近現代社会が産み出した電気的コミュニケーションが、逆説的にも、反近代的な「小さな村レベルの深層にまで及ぶような関係性や身体的コミュニケーション」を可能にすると考えたマクルーハンの夢は、やはり夢に過ぎなかった。

他方で、複数の批判的理性による絶えざる対話が産み出すであろう「公共圏」を夢想したハバーマスのような人々の思想も、その実現の場を見出すことができずに頓挫してしまっているように見える。国連は「近代国家の制約を抜け出たもの」であるどころか、その下位に置かれた、近代国家の力の均衡が支配する無法地帯に過ぎなかった。経済=オイコノミーというなまなましい生の欲望がもちこまれてしまった、公共という概念から最も離れた政治の場である近代国家の力がせめぎ合う場で、批判的理性が働くことを夢見ることのおかしさに、ハバーマスは気がつかなかったのだろうか。

この事情は、電子的メディアという場に複数の批判的理性の働く場を夢想した人たちにとっても、変わらなかった。もちろん良心的なウェブサイトはいくつかある。だが、オフィシャルという権力的概念を「公共」という概念とすり替えようとするアナクロニスティックな人々の介入しない場のように見えた電子的メディアで、主にうごめいているのは、私秘的で脆弱なナルシズムの精神か、近代国家以上に露骨な排除を示す小さな共同体の極私的欲望、そしてそれらの微細な差異を操ることで、大きな利益を上げようともくろむ欲望の市場主義だったのである。

ノージックのユートピアのようなものを、ここで取り上げることは時間の無駄だろう。開拓期のアメリカ大陸をモデルとしたようなそのユートピア論が、実際にもたらすのは、自律することのできる少数の個人以外は人間の数に入れようとしない弱肉強食の経済競争をよしとする、アナーキズム資本主義帝国にすぎないからである。電子「公共圏」の夢は、どこへいったのか。

 10.

ここまで検討してきたグローバルビレッジ論や公共圏論に共通するのは、理性的でかつ深層的なレベルで親密な共同体が、地球規模の大きさで成立しうるという夢である。

理性的であったりルールを作ったりするということは、アドルノが看破したように、それによってそこに前提されている暴力的な事態を隠すことでもある。そのことと深層的レベルで親密な共同体という夢とが、うまくやっていけるかどうかはとても怪しい。

地球規模の共同体であるとは、少なくとも地球という場について言う限り、その外に排除される他者が、原理的にはないということを意味する。前に確認したように、コスモポリタンという言葉の原義から考えても、排除される人がいない状態は、共同体が無くなることによってもたらされるはずであるから、「地球規模の共同体」という言葉自体が形容矛盾だろう。事実、私たちが宣伝し、自分自身でも信じたがっている地球標準や地球大という意味を含むグローバル共同体という事態は、そうした「その外に排除されるものがないこと」と、まったく逆の、かつてなかったほどのひどい排除やジェノサイドの現実をもたらしている。

であるなら、私たちはもう一度ここで、ビレッジとか共同体といわれるものが本質的にどのようなものであるのか、問い直して見なければならない。

 11.

かつて自然発生的に在った、いわゆる前近代的なビレッジや共同体とは別に、わたしたちがそうしたものをいわば人為的に作り出してみようと試みた時期があった。19世紀から20世紀にかけて、様々な地域で試みられたアナーキズムやコンミューンの思想や実験である。社会主義や共産主義、キリスト教のコンミューン、そしてそれらの影響を敏感に感じ取った芸術家や思想化の作ったいくつかのコロニー的集まりを思い出そう。バルビゾン派のコロニー、ノルマンディーのロマン派コロニー、ゴッホが夢見た芸術家村、ドイツのヴォルプスベーデに集った様々な詩人、作家、思想家、さらには日本の新しき村などの実験と苦い思い出の数々。それらは第二次大戦後も繰り返され、様々なコンミューン実験や、移住者の群れが生まれては消えていった。そして、そこで起きた多くの争いと排除の事実。

理念としてのアナーキズムも、無政府という言葉とは裏腹に、ばらばらな個人の集まりからなるものであるどころか、共同体と不可分である。トルストイやクロポトキンの予定調和的アナーキズムは、結局のところ老子が描いたような自然発生的な農本主義ビレッジの夢であったし、伊藤野枝が語った「アナーキズムの事実」も、何もないばらばらの個人ではなく、ビレッジに集っていた前近代の人々のアナーキズム的生活に夢を託すものだった。弱肉強食のばらばらな個人を想定しているように見えるノージックらのアナルコキャピタリズムでさえ、開拓時代のアメリカがモデルであるのなら、実はその裏に、私刑さえ伴うかもしれないような狭い相互扶助的な共同体や、北欧型協同組合の支えのようなものを必要とする。それがない完全なアナーキズムは、弱者も強者も共倒れの事態を招いてしまうはずだからである。自然に生きる生物達が形づくる競走と共生の弁証法的モデルも、完全なアナーキズムの逆説を示唆しているだろう。

だから理念ではない、自然発生的なアナーキズムが、かつて現実のどこかにあったとして、それがどのようなものであったのかを想像することも、それほど難しくないだろう。それは間違いなくある共同性のもとにあるアナーキズムであるはずで、その共同性がその外に排除するものを持っていた事も、残念ながら認めねばならない。何らかの目的をもって群れることと、排除とは分かちがたいもののように見える。

 12.

人為的であれ、自然発生的であれ、あるいは権力集中型であれ、権力分散型や権力排除型であれ、人がある共同性を持って群れ、さらには共同体を作る事に伴う問題とは、だからある領域を定め、その外なるものを差異付け、ある場合には排除する事である。その意味において共同体とは、古東哲明がいうように排除体である(『他界からのまなざし』講談社 2005 p. 142)。

それは近代国家のような、理念上はばらばらの、だが自律している個人の寄せ集めとして構想されている、建前上はあたかも共同体であることを否定しているかのように見える共同体においても例外ではない。近代国家の矛盾は、理念的にはK..ポパーが描いたような、ばらばらで自律しているはずの理性的な個人達が、実際には自由ばらばらではなく、ある狭い地域ごとにネーションという名の共同体を作って群れ、その外なる(この外には、もちろん内なる外も含まれる)ものを差異付け、排除している事である。

理念的にのみ言えば、ばらばらの自律している理性的な個人が活動する場としてふさわしいのは、群れ的な共同性の何もないコスモポリタンな場である。そこで自律した理性的な個人が、アナルコキャピタリズムの主張するような弱肉強食の競走をすることこそ、絶対的自由のはずである。

もっともこのアナルコキャピタリズムの自由は、近代が主張する別の理念である平等を破壊し、博愛を妨げる。群れることによって生まれる排除の代わりに、弱肉強食の競走が絶対的な排除を生むからである。そしてそこからは、前述したように相互扶助的な共同性の要求が出てきて、アナーキズムの皮肉である、ある種の相互扶助的な狭い共同体が、いくつも生まれてしまうことだろう。

現実の歴史の上で近代が成し遂げたのは、慣習的なルールに縁取られた前近代的な狭い共同体をこわした後に、明示的で合理的なルールに枠づけられたもうひとつの共同体を作る事だった。これらのルールは、自由・平等・博愛という互いに矛盾する普遍的でコスモポリタン的な理念に縁取られながら、近代国家という普遍的でもコスモポリタン的でもない共同体を枠付けている。人々は、その自由・平等・博愛という偽りの建前を看板とする共同体の中で、自由でも平等でも博愛でもない弱肉強食の競走を、共同体の外なる他者を排除しつつ、合理的ルールに則して続けねばならない。

 13.

この明示的ルールに枠づけられた近代国家という共同体=排除体には、外なる者に対するあからさまな排除のみではなく、共同体の内なる者に対する目に見えない監視の目が有る事が知られている。ベンサムが語ったパノプティコンのようなしくみである。個人の心にしくまれてしまったパノプティコン様装置が果たす自覚的でない自己規制こそ、近代社会の「自律セル個人」の本質であり、自由な個人という普遍的理念によって隠されているものであることが、M..フコーをはじめ多くの人々によって語られつづけてきた。近代国家において自律するとは、パノプティコン様装置の規制を、知らず知らずに自己の理性による当為として、行為することに他ならない。

ところで、こうした心の中に仕組まれたパノプティコン的装置は、なにも近代国家に特有のものというわけではない。前近代の自然発生的な共同体や、「アナーキズムの事実」として語られそうなビレッジにおいてさえ、共同体の内なる者達は、相互監視の目によって互いに規制し、されあっていた。それを破った者に対する私的制裁の厳しさについてはいうまでもないだろう。近代における自由という意味のかなりの割合は、こうしたビレッジの自然発生的パノプティコン様装置から逃走する自由を指している。人為的に作り出された様々なアナーキズムやコンミューンの実験の場も、例外ではなかった。現代社会の電子的メディアによる共同体の多くも、残念ながら例外とはいえないだろう。ある目的の下に、群れて互いに助け合う事は、その外を排除し、内を相互に監視することと不可分なのだ。

こうしたいわば共同体における「自然発生的パノプティコン様装置」の役割と、その人為的組織化の重要性について、最初に自覚的であったのは、西欧近代社会ではなく、中国の儒教の徒である。刑法による厳格な法治によって広大な中国全土を統治しようとうして失敗した、秦の始皇帝の後を受けた漢帝国の統治理念として、慣習的な見えない礼の役割の重要性を説いた彼らが強調したのは、あからさまな刑罰によってのみ統治することの愚かさである。

「刑罰は人々がすでに行為してしまった後にその行為を罰するが、それではその行為の結果は、もはや取り返しがつかない。一方礼は、人々が行為する前に、人々の心を律し、悪なる行為を行わせないようにする」という彼らの主張を見よう。そこでは心の中に仕組まれたパノプティコン様装置としての礼が、人々を内側から自己規制し、「自律スル」事が説かれている。西欧において封建的王権があからさまでむごい刑罰によって人々を規制したこと、その後を受けた近代国家がそれをパノプティコン的装置による、実際には他者による規制であるのにもかかわらず、他律的でないかのように思われる、「近代的自律」に置き換えた事と、事情はほとんど同じである。

中国の儒教帝国に赴いたイエズス会の宣教師が驚いた、当時としては洗練を極める支配装置の本質も、この自然発生的パノプティコンを自覚的に組織しなおした礼教のパノプティコンである。王朝を変えながら恐ろしく長い間続いた中国の儒教帝国の最大の秘密は、多分この自然発生的パノプティコンに自覚的であったことである。近代には魯迅が、この礼教というパノプティコン装置のからくりを糾弾して、礼教は人を殺す、と叫んだ。古くには荘子が、この装置の息苦しさを語って余す所がない。

 14.

自然発生的もしくは人為的共同体やヴィレッジ、あるいはアナーキズムの集まりにしても、ともかく人が「群れ」ることに伴う問題とは、それが外に向かっては排除体になり、内に向かってはパノプティコン様装置として人々を規制することである。

従って深層的レベルにおいて親密な共同体が、地球的規模で成立する可能性を探ろうとすれば、上述の共同体=排除体やパノプティコンとは無縁なところに、その場を求めねばならないだろう。その唯一の可能性は、「群れていない」もしくは「群れから出てしまった人」の間に開かれているといえはしないだろうか。つまり「ビレッジにもはや住まない人々」の間に、逆説的に開かれるかもしれない、排除もパノプティコンも伴わない共同体。それだけが私達に唯一実現可能な、深層の深いコミュニケーションを可能にする、対話的なグローバルヴィレッジを開く場ではないだろうか。

この間の事情をもう少し考えてみよう。私達人間が作ってきた共同体は、言語によってまとまった自然共同体であれ、農林漁業や牧畜からギャンブル資本主義にいたる産業、さらには宗教や文化によってまとまった共同体であれ、人為的に作られた様々な共同体と同様に、群れとして構成されることによって、排除体になってしまっている。その共同性とは、自己たちを心理的に監視しつつまとめ、他者を排除することである。共同とか共在ということが、本来はあいことなる自己と他者との「共に在る」ことを指すのだとすれば、こうした「他者を排除する」共同性は、共同とか共在という言葉から最も遠いところにあるだろう。

そこにおいて「自己と他者とが共に在ること」の代わりに、「共に在る」のは、自分「達の目的」とか自分「達のアイデンティテイ」といった、自己でも他者でもない画一化の装置である。現代にまで連綿と作られつづける様々な形の目的共同体や、ロマン主義の時代に近代国家がたどった、言語や文化を指標とする愛国主義的アイデンティティの高揚を想いおこしてみよう。自分「達」という、群れる事を枠づけている画一化の言葉が、こうした共同体=排除体の共同性の鍵である。

互いに同じではない、その意味において自由な自己と他者とが「共に在ること」が、共同とか共在ということの本当の意味だとすれば、自分「達だけ」が群れる共同体は、実は共同体だといえはしない。共に在るとは、自分達ではなく「互いに他者である自己と他者」の間でのみ可能な事態だからである。

 15.

群れる事をしない人々の間に開かれる共同性、「共に在る」こととはどういうことか。マルクスを精神的に援用しながら、ジャン・リュック・ナンシーは次のように答える。「私達は共に世界に到来=誕生する。__中略__ 世界への到来と、共に在る事はあい等しい」(大西雅一郎ら訳『共出現』松籟社 2002 P.74。)私達は互いに異なるもの、絶対的他者でありながら、たまたま同じくこの世に到来=誕生してしまっている。ことさら群れることをしなくても、いやむしろ群れないことによって逆説的に明らかになる根源的共在の事実。

私達がこの事情を深深と悟るのは、他者の死にめぐり合うときである。死に行く人は、私が決してかわってあげることの出来ない絶対的他者として、私と別れを告げる。その時ほど、その死者が根源的な意味で他者であり、その他者と私とが、「今までここに共に在った事実」を悟らされるときはない。その他者は、これからは私とわかれて、すでにいってしまった多くの他者と「共に死という虚無の内に在る」。

こうしてたがいに絶対的他者である私達は、生と死というふたつのあい異なる「共に在る」事態を、最初から、そして常に、共にしている存在である。その共同性、共在の形は、地球規模であり、かつ排除=共同体のような区切りがない。というよりそうした事態は、無限の共在という意味で、ほとんど宇宙的である。そしてその時、私達はほとんど宇宙的な規模で、互いに他者であり、絶対的孤独者でありながら、根源的に共に在り、共同的である真のコスモポリタンであるといえるのかもしれない。

 16.

私達が死を契機として悟る根源的共在とほとんど同じ事態を、私は、ある時、意識的にか、もしくは致し方なく、排除体=共同体を出て、もはやどの排除体=共同体にも戻らないと決心した時点で、味わうのかもしれない。人は孤独であればあるほど、群れの排除=共同性にとらわれることなく、私達が「最初から共に在る事実」を知ることができる。

コスモポリタンという言葉を、現代の私達は、様々な群れに出入りする、狡知にたけた、いわゆるグローバルに動く人々を指す言葉として用いている。だが、シノペのディオゲネスが述べたコスモポリタンという言葉が指している意味は、たぶんそうした人々からは最も遠い。意図的にせよ、そうでないにせよ、群れ=ポリスを出て、戻らないし、戻れないと悟ってしまうこと、そして地球規模、もしくは宇宙的な共在を共にすること、それはあらゆる形で群れて排除=共同化するのをやめてしまうことである。

コスモポリタン的でかつビレッジの深層的親密さをもつ共同体というものが、どこかに可能性としてあるのなら、それが開かれるのは、こうした孤独の内にあらわとなる根源的共在を悟った人々の間ではないだろうか。電子的であったり紙であったりする媒体の有無は、二次的なものだ。ビレッジにもはや住まない人々からなるグローバル、もしくはコスモビレッジの夢。彼らは排除=共同体を出たり追い出されたりして、もはやそこには戻らないと心に決めた、しかもばらばらではない孤独で自由な他者達である。

現代という時代は、皮肉にも多くのこうした孤独な他者達を、産み落としてしまっている時代である。なによりもこの時代を特徴付けているジェノサイドの連続や、地域的なのにもかかわらず考えつく限りにむごたらしい紛争と、合理的な手続きを踏んで行われる詐欺と搾取の数々が、多くの人々をもとあった地から追い出し、戻るまいとさえ考えさせているからだ。これらの人々、G. アガンベンがゾーエーという言葉で指し示そうとしている人々の間に、それでも共同性があるとするなら、それはもはや失われた群れの共同性ではない。排除=共同体から離れて、私達の共に在る事の根源性におもいいたることから、古くて新しい共同性の事実が現われてくる。





輪廻  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




人間とは
こんなもの
あんなもの
多くのものがたり
多彩ないろどり
人は
生まれて死んで
輪廻をめぐり
めぐって遊泳する


河はどこから来る
流れ流れては
空へ駆け上る
溢れだしては
降りてくる
激しい雨となって
天咎となって


山は溶けだして
コンクリート セメント
みごとなビルになる
建ち並ぶ浪費
そして人は
街を緑にしようと努める


生まれて死に至るまで
終わりの地点に向かって
信念を懐き
輝きを求めて
人びとの喜ぶ
道はできる
哀しみ 震え
痛み 希望
確信は力
車輪はなお進んでいく


ものがたりは
こんなものよなぁ
天も聞こえた
地も聞いただろう
夢の中に響く
はるか遠くの鐘の音のように
はるか遠くの
はるか遠くの
はるか遠くの
はるか遠くの


90年代後半のアルバム「カーター2580年(2037年の経文)」の中の一曲。(荘司和子)





水の音楽 音楽の芽生え  高橋悠治




たとえで考える 見聞にことよせて

  種には 殻がある
  かたちをまもるために

種は 土にかくれて見えない
とりどりの種をまいておく

  種が 芽生え
  ほそい根を はりめぐらし 
  苗が 枝分かれし
  花が さく

書けること 書けないこと の ちがい
書くことによる支配と排除 ではなくて 

  花が 実をつけ
  実が おちて
  種だけが のこる
  草のしらない 未来

鳥が種をついばんで ひろい空に飛びさる
音楽は その場のもの 消えさるもの

  水が 渦をまき
  渦を解いて また 流れゆく
  水は 行く先をしらない

水の迷宮 meander
目標がなければ 方法はない
方法のあるところに 支配がある

後追いする 抽象化する理論でなく
囲いこめないもの 音楽 踊り そして詩
時間の深み 歴史 
こたえのない問い あたらしい問いを生む問い
記録のない 記録できない 記録してはいけない 記憶

時間の枠の内側で 自由にふるまうリズム
思いがけなくはじまり とつぜん終わるメロディー
階層をつくらない 水平の重層 と 逸脱
ことばにいろどられる 抵抗 と 反規律
世界の闇にきらめく 時間のかけら





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