『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』 藤本和子編

藤本和子による解説
 目次
  


1 過去を名づける


2 たましずめの歌

3 喉をつまらせている女たち

4 新たなる沈黙に声を

5 衰弱そして再生

6 体験の存在空間

7 反悲劇
『語りつぐ』より

反悲劇 『語りつぐ』ゾラ・ニール・ハーストン ルシール・クリフトン

わたしは悲劇的に黒いのではない
  ――ゾラ・ニール・ハーストン



 本巻は最終巻である。「語りつぐ」というテーマで、ふたりの女性作家の仕事をおさめた。彼女たちが語りつぐのは、民族独自の完結性と生命力と精神世界のありようである。いい伝えや習慣や価値観を静止したものとして伝えるのではなく、文化や伝統や歴史の生成のまっただなかにいる者として、生成のプロセスをまるごと伝えようとするのである。よろこびと豊穣を。圧迫する外界に暮しを左右されながらも、特異性を再生産する生命の働きを伝えること。集団の想像力と創造性を、その作用の中でとらえ伝えること。魂の遺産を伝えること。
 この選集におさめた作家の中でも、すでに没しているのは、ゾラ・ニール・ハーストンだけである。一九〇一年頃に生まれたと推定され、一九六〇年に病いと貧困の中に死んでいったハーストンは、長いことおとしめられ、打ちすてられ、忘れられていた先駆者の黒人女性作家であるが、ハーストン再発見は比較的最近のできごとであることを考えれば、この選集の最後をしめくくるのがハーストンであるのも不思議なことではない。アリス・ウォーカーがいうように、モデルを持たずにやってきた彼女らにも、気づかれぬままに、先駆者がいたのだった。
 ハーストンは再生する。今日の黒人女性作家の中に。時間を裏返すようなかたちで、ハーストンの『騾馬とひと』の抜萃を収録するのはそういう理由からである。


1 母たちは、父たちは

 壊れはしないのだ。持ちこたえる。細々ながら線はつながり、それがいつまでもいつまでも続き、やがて個々の生はたまってきたイメージや言葉がつくる子孫となる。「やつらより、わしらのほうがうまく生きのびたのさ、ルー」ととうさんはいったが、わたしは自分の六人の子どもを見て、それが本当だと知っている。自由な民の自由な息子や娘たちとして、堂々とこの世を歩く。なぜならば、かあさんがわたしにいったことは、奴隷の身分は一時的なものだった、わたしたちはおおかた自由であった――ということだったが、母は正しかった。そういって母は微笑し、父も微笑して……

 ルシール・クリフトンの『末裔たち』は淡々とした文体で、じつに多くのことを伝えている。なお口伝の様式を生かしつつ、書き記す行為をもって、黒人の生の連続のありようを伝えている。貧しさと身分差別の中に押しこめられてきた人びとが、その事実にもかかわらず、貧困や身分的な圧迫の中で人間らしく生きる生命力を崩壊させてしまわなかったその足どりを伝えてくれる。主体的な世界の存在を見せてくれる。貧困や差別という物差しで第三者が彼らを眺める時にはけっして姿をあらわすことのない自立的な精神世界である。性愛の関係を持った白人の男との間に、腕の萎えた息子をもうけたキャロラインの娘ルシールは、その男を四つ辻で待ち伏せライフルで撃ち殺したが、人びとは彼女がこの白人の男と関係を持ったのは強いられたからではなく、彼女自身がそれを望んだからだといっていた。たしかに白人の男に暴力や脅迫でねじ伏せられる黒人女性の肉体というイメージは歴史的な事実に基づいている。だが、個々の生は、それぞれのたたかいをたたかってきた。
 黒人は奴隷の身分であったことからいまだに立ち直っていない、という一般的な概念に対して、ルシールの母は、すなわち、世間知もとぼしく、家の中にいて働きまわるだけの人生を送り、夫からは様々な虐待を受けてわずか四十四歳で急死したルシールの母は、黒人が奴隷の身分であったのは一時的なことだった、おおかた彼らは自由であったのだと感じ、そういいきることができたのである。それは彼女が、民族の歴史や主体性が奴隷の身分であった過去の数世紀の事実によってのみ形成されたものではないことを感じていたことを物語っている。奴隷であったことは確かだが、それは一時的なできごとであったし、この民族は奴隷の身分という物差しだけで測定しえない世界観と生命力と伝統を持っていることを知っていたのである。
 そればかりではない。かつて奴隷であった彼らは、その経験によって打ちひしがれ、解放後は白人社会の寛容さ、もしくは非寛容の度合いにその運命を左右されてかろうじて生きのびてきたという通念に対して、ルシールの父は、「やつらより、わしらのほうがうまく生きのびたのさ、ルー」といった。彼は経験を客体化して眺め、人間を奴隷とした白人の行為そのものの中に避けがたく内在していた退廃のにおいを嗅いでいる。黒人が肉体的な傷を受けていた時、あらゆる残虐さの中で人間性を剥奪されつつあった時、そのような仕打ちを黒人に与えていた白人の側では、当然のことながら矛盾が生まれ、彼らの人間としての存在の根そのものは腐《くさ》れたのだったから。ルシールの父は、その腐れた根は再生しえたのか、その事実から彼らは回復しうるのかを問うている。奴隷制度によって深い傷を負ったのは誰だったのか。腐れた根からそれでも生まれてくる者たちは、根の退廃から自由でありうるのかという根源的な問いを問うのである。小学校三年ぐらいまでしか行けなかったために、三、四行の手紙をしたためるのにも一日かかるというこの人物が、民族と民族の関係の弁証法を見通している。白人の末裔たちはただ単に「人びと」になるにすぎないが、黒人の末裔たちは「家族たち」となる、という感じかたを支えているのも、虐げられた者たちが歴史的な経験の結果の中に、「虐げられた」というレッテルをはじきとばす精神作用の弁証法を直観しているという事実だろう。虐待という力のベクトルは、民族の主体にぶつかってはねかえされた。彼らは圧迫の腕を逆手に取り、きりきりと捻《ねじ》りあげ、そこに倫理的な優越がこぼれ落ちるのを見てきたのだろう。
 奴隷制度の時代に、制度のかみそりによって黒人の男たちは去勢され、男としての責任感も誇りも失くしてしまい、かくて今日も男たちは父として夫としての自覚が持てないのだと、白人は黒人社会に母子家庭の多い事実を説明してきた。ルシール・クリフトンはそのような通念に対して、自分の父の姿を差し出してみせた。もうすでに子らは散ってしまった時に、ようやくためた金でわが家を手に入れた父は、「一緒に住むために、わたしたちのために、この家を買った。なぜならわたしたちは父の家族であり、父はわたしたちを愛し、わたしたちが一緒にいることを望んでいたから」。そして、「わたしらのとうさんはわたしたちと一緒にわたしたちの家に住んでいた。それがそれほどありふれたことではなかった時代に」。クリフトンは父が家族の者をひどく傷つけたことは事実だといい、また子どもたちも彼をひどく傷つけてたのだという。それは、しかし、愛し合う者たちのつねであると。だがたしかに、子どもたちがさまざまな苦しい体験をしなければならなかった原因の多くは父にある、ともいっている。そのようにして彼女は父親を丸のまま引き受けるのである。理想化したり美化したりすることによってでもなく、また断罪することによってでもなく、父の生の脈絡の中で彼を理解し受けいれようとする。そこで初めて生の連続の意味と重みが把握され受けいれられることができる。クリフトンはわたしたちに起こったつらいこと、すばらしいことについて語ることはいくらでもできるが、わたしたちという人間をつくりあげるものは、個人の一生に生起するできごとのみではなく、それを超えた持続、血の持続であることを知らねばならないと語っている。その時、アフリカの緑の中に、八歳で捕らえられ奴隷になった著者の曾々祖母の姿が髣髴とする。
 クリフトンのいう「血」が血縁を軸とする排他性のことをいっているのではなく、血縁を軸とする包括力をいっていることはあきらかだろう。そのような性格の血縁観念は血の外へも広がっていく包容力を持っている。ルシールの母は夫の前妻の子ジョーと、ルシールとほとんど同時に生まれた夫の愛人の子どもパンキンを育てた。これは排他的独占的なわたしたちの「家」観念とは違う。(正妻がめかけの子どもをイエに入れてやって育てる、という優越的なものではないだろう。)むしろ血縁でない女たちが、生まれた子どもらの「いのち」そのものに対して感じる、あたりまえの責任感なのだ。クリフトンの父である一人の男をめぐる三人の女たちは、それぞれ友人だった。ひとりの男をめぐり、その男を「所有」することができるか否かが決定的に女たちの関係の性格をきめるわけではなく、女たちの間には葛藤はあろうとも、関係そのものを決定する要素はそれだけではないようだ。男を所有できるかどうかということを超えて、いくつもいくつもの要素が女たちの関係の性格をきめ、豊かにし複雑にしている。女がその存在を男に依存させるだけになった時に、女どうしの関係が痩せ細ってしまうのと反対に。
 このようなことについて、アリス・ウォーカーの近作『むらさきいろ』という小説に手がかりが見える。アフリカへ宣教師となって渡った黒人の女性がその姉にあてて書いた書簡の中で、一人の族長に娶られた多くの妻たちが、夫を所有することで競り合うのではなく、むしろ夫から疎外された存在であることを共通項として、たがいに心をくばり合い助け合う関係をつくっていることを報告しているのだ。そして同時に進行している、アメリカにいる姉のほうの生活でも、一人の男をめぐる複数の妻たちが心をくばり合い、助け合い、子どもを育てることにも力を貸しあっている。なまなましい葛藤のさなかでさえ、いのちを培うことが優先する女たち。
 これは、たとえばダオメー族として生まれたキャロラインがアフリカ大陸を離れた時にもってきたものであったのか。「マミー、あなたのアフリカ名はなに?」という問いに対して、何とも答えずただ首を振った彼女に、サミュエル・セイルズは「だめだ、だめだ、忘れられちまう!」と叫んだが、キャロラインは彼女らの魂の遺産は受け継がれ受け継がれていくだろうことを承知していたのだ。ほほえみとともに発せられた「心配ないんだよ、おまえ、心配ないよ」という言葉は血の連続だけでなく、無形の魂の遺産についても伝えようとしていたのだった。
 この回想記の記述のきっかけになっているのは、著者の父の死である。訃報を受けて葬式に向かう著者は、父が語っていた一家の歴史を思いおこす。語る者がこの世を去って、いまは彼女がその言葉を記しておかなければならない。父の言葉を書きつけることによって、著者は彼の遺産を受領するのであるし、その言葉を聞いた者としての責任も果たすのである。そして続いて自らの生いたちを語ることによって、語る者としての役割を引き継いだことも示している。文字として残すことで、それは自分の子らへのおくりものとなるのみならず、セイルズ一家の私的な記憶を超えた、集団的な記憶の証言となった。それは無数の「セイルズ一家」の記憶である。人間らしく生きようとたたかい続けた無数の家族たちの足跡の証言だ。彼、彼女らのアフリカ名は、その生のありようによって回復されるものなのである。


2 ゾラ・ニール・ハーストン再発見

 ワシントンの解説の題名が示すように、ゾラ・ニール・ハーストンという小説家、フォークロリスト、ジャーナリスト、評論家で(演出家でさえ)あった女性の生涯については、まだわからないことが多い。彼女の著作生活は三十余年にわたったが、著書は三十年も絶版になっていた。ワシントンやウォーカーなどの努力で、一部再版されはじめている。
 ワシントンの「なかば蔭の中の女」とウォーカーの「自分の生を救い出すこと」は、もっとも同時代的な視点を見せてくれる。わかりにくい部分に光をあててくれる。光はこの二人の女性とハーストンとの出会いの衝撃が閃きを放ったところからやってくる。二人は知性の実験として評論を書いているのではない。
 アリス・ウォーカーが、母の繰り返し語る話には、たんなる個人の過去のエピソードをはるかにこえた意味があることを直観して、それを文字にしてよみがえらせようとしていた時、南部の黒人のフゥードゥーの伝統について知る必要を感じたのだった。読む本、読む本、白人のもので、軽蔑と偏見をむき出しにしていた。「黒人で伝承民話を集めた者はいなかったのか」と彼女は思った。その時はじめて、ゾラ・ニール・ハーストンの名を脚註に見出したのだった。ゾラとアリスは一本の線で結ばれた。ゾラはアリスの手本となった。ゾラは黒人の作家がしておかなければならないはずの仕事を指さして伝えようとしていた。暗闇に放置された物語や記憶を書き記すひとつの方法を示していた。
 その時のことについては、アリス・ウォーカーはロバート・E・ヘメンウェイの大著『ゾラ・ニール・ハーストン――文学伝』に寄せた序文でも書いている。ウォーカーが強い印象を受けたのは、ゾラがその著作のなかに「民族の持つ健全さ」を表現しえていることだった。すなわち、黒人を、一つの民族として完結している集団として、複雑ではあるが、衰亡してしまってはいない集団として存在するという印象を伝えていたということである。『騾馬とひと』を見つけて読んだウォーカーは「これだ!」と膝を打ったが、その本をあっちこっち持ち歩いて、南部を出て東部の都会へ散って行った親類の者たちに読んで聞かせた。すでに南部を忘れかけ、都市生活者になっていた人びとだった。彼らの中には『騾馬とひと』で語られているように伝承民話を語ることのできる者はすでにひとりもいなかったが、彼らが示した反応は一様だった。ゾラの聞き書は、彼らが忘れかけていたもの、あるいは恥じていたものを彼らに返してやり、それらの物語がどれほどすばらしく、かけがえのないものであるかを証していた。はじめは冷淡に反応したり、ひどく慎重にかまえていた人びとも、いつも最後にはほほえみ、大声あげて笑い、ゾラの示した黒人の姿に出会うよろこびを隠すことはできなかったのである。
 ハーストンが「民族の持つ健全さ」を疑ったことがなかった根元には、彼女の出身地がフロリダ州イートンヴィルという黒人ばかりの自治の町であった事実が強い影響を与えている、と多くの批評家が考えている。自伝にあるように、イートンヴィルは黒人が建てた町で、自治をしき、ゾラの父親は町の法律を起草した人物だった。イートンヴィルの住人は自尊心を持ち誇り高かった。つまりゾラの育った環境はゾラの生存権を無条件に認めていた共同体だった。ゾラが自分自身を受けいれる素地そのものが培われたことだろう。膚の黒さは、そこでは、欠陥ではなかったのだから。
 ゾラが登場した二〇年代には、他の黒人の文学者たちはまだまだ西欧的なものに心を奪われていた。ゾラの、黒人に対して抱いていた誇りがあまりにも大っぴらに表現されると、彼らはゾラの本音はなにかと怪しんだり、不快に思ったりしたことだろうと、ウォーカーは推測している。ゾラがアフリカやハイチやジャマイカに関心を寄せていることを、すぐには理解できなかっただろうと。
 作家として出発したばかりのウォーカーが読んだハーストンに関する評論は、どれも拒絶的なもの、侮蔑にみちたもの、不正確なものだった。一九七三年、ハーストンの生涯と仕事の意義をはじめて正当に評価しようとしているヘメンウェイの評論を読んで、打ちすてられていたゾラの墓を探し、墓碑を建てようと考えたのだった。「その頃にはすでに、彼女はアメリカの生んだ天才だと考えるようになっていたけれど、わたしは(墓石を置きに行くことに)荘厳な歴史的意義を持たせようと意図していたわけではない。むしろ、ひとりの黒人として、女として、作家として、わたしが担うべき当たりまえの義務として受けいれたのだった。なぜならゾラは死んでいて、わたしはさしあたりまだ生きていたのだから」(同序文より)
 女としても、作家としても、時代精神より先を歩いていたハーストンは、長く闇に葬られていた。ウォーカーはハーストンのそれのような生活態度が受けいれられるようになったのは、六〇年代以降のことだという。生前、彼女は服装が大胆すぎるとか、アフリカ風に頭に巻いた布はよろしくないとか、女である官能をまるだしにしすぎるとか(結婚や離婚の回数が多すぎるとか)、喋りすぎるとか、笑いすぎるとか、白人の金を貰いすぎるとか、非難された。六〇年代には、以上のようなことは、「かまわない」ことになった。
 そのように活気にあふれ、自分が正しいと信じたことを実行した彼女も後年になって変わった。ヘメンウェイの伝記を読むと、それまで大胆につらぬいてきた生活態度に、ハーストン自身が恐怖を感じはじめたらしいことがわかる。ウォーカーは「そして著作も反動的な性格をおびて、平坦で臆病なものになった。重なる不運がゾラの勇気と肉体の健康を打ちひしいだ。無一文になった」と書いている。貧困の末にメイドになったこともある。初版が一九四二年に出版された自伝『路上の砂塵』の後年に関する部分は不正直で韜晦的であると多くの人が感じている。
 ウォーカーのヘメンウェイ著書への序文を読んで、わたしが目をみはったのは次の点だった。
 ウォーカーは、ゾラを文学者、知識人としてよりは、むしろ黒人女性歌手たちの伝統に属する女性だと考えている、というのである。ビリー・ホリデーとベシー・スミスとゾラ・ニール・ハーストンの三人は、一種の聖ならざる三位一体であると。生涯における極端な隆盛と没落、おそれを知らぬ冒険心、情熱的な体験、自由への渇望などの点で、この三人は共通してるではないか、というのである。ビリーとベシーとゾラがそれぞれ苦しみの中にあった時、たがいに助け合うことができたらよかっただろうに、とウォーカーは想像してみる。「ベシーが三人分の金をとりしきる。ゾラはビリーの自虐に陥る傾向を抑えて、“男のためなら、なんでもするわ”式の歌をうたわないようにたすけてやる。そうしたら、ビリーのヘロイン中毒だって防げたことだろう。そのかわり、ゾラのためには、ベシーとビリーは、一度も持ったことはなかったとゾラが感じていた“家族”になってやることができただろうに」
 ウォーカーがハーストンの墓碑を建てる目的でフロリダへ向かった契機を作ったのは、『ハーレム・ルネサンス回想』(アーナ・ボンテンプス編)にヘメンウェイが寄せた「ゾラ・ニール・ハーストンとイートンヴィル文化人類学」の中の次のようなくだりだった。

 一九五九年一月一六日、ゾラ・ニール・ハーストンは脳卒中の後遺症に苦しみながら、痛々しい自筆の手紙をしたため、ハーパー・アンド・ブラザーズ社の編集部に、「ヘロデ王」と題された、現在執筆中の著作を読む気があるかとたずねたのだった。その後一年と十二日が過ぎて、フロリダ州セント・ルシー福祉院に住んでいたゾラ・ニール・ハーストンは自分の葬式をまかなうだけの金も残さずに死んだのだった。今日彼女はフロリダ州フォート・ピアスの黒人墓地に、墓石もなく眠っている。

 イートンヴィルとフォート・ピアスを訪れたウォーカーは、墓を見つけ出すにも、ゾラを知っていた人びとから話を聞き出すにも、自分は死んだゾラの姪であるといつわるのがよいだろうと判断した。そうでなければ、誰も力を貸してくれないかもしれないと。(「ゾラを探して」)
 ゾラを埋葬することに関わった葬儀社の女性が、フォート・ピアスの一七丁目通りにある「永遠の園」墓地の旧墓地に、ゾラはたしかに埋葬されているとおしえてくれた。門を入ったところに円形の場所があって、その円の真ん中に埋められている、ということだった。円形の場所に埋葬されているのはゾラだけである、もうその場所に死者を葬る人はいないから、と語った。そして彼女は、ゾラは栄養失調で死んだ、ともいった。(ゾラを知っていた一人の老医師は、栄養失調だなんてとんでもない、脳卒中で倒れ、のちに福祉院で死んだ、といった。)
 さて葬儀社の女性がいっていた「円形の場所」とは小さな一劃のことで、門を入って五、六歩のところにあるのだろうという予想ははずれて、それはゆうに一エーカーを超える一劃で、打ちすてられた畑のように見えた。夏草がたけ高く茂り、車を降りれば蟻塚に落ちる。南部の黒人の町では、でたらめに放置された墓地はめずらしくはないが、しかしこの墓地の荒廃ぶりはおどろくべきものだった。雑草は腰までとどく。ウォーカーは毒蛇の襲撃におびえた。「円形」の真ん中はどこか。草の中ではぱちぱち、しゅうしゅうと音がする! こうなればもう残された道はただひとつ。

「ゾラ!」ありったけの声で叫んだ。「あなた、そこなの?」
「ゾラ!」とふたたび叫んでみた。「あたしはここですよ。あなたもここなの?」
「もしここにいるんなら」とロザリーはぶつくさいうのだった、「返事なんかしてもらいたくないよ」
「ゾラ!」そしてわたしはがみがみいった、「あたしがここに一日じゅうつっ立っているだろうなんて思わないでくださいよ。蛇があたしをじいっと睨み、蟻がわいわいしてるんですからね。いいこと、あと一度か二度呼んで、それでもうやめますからね」

 ふと巨大な虫がウォーカーの目にとまった。指三本分よりも大きな虫だった。虫に近寄って「ゾラ!」と呼ぶと、片足がずぶりと沈みこんだ。見おろすと、彼女が立っているのは、縦一・八メートル、横一メートルほどの長方形に土が陥没した場所だった。それがゾラの墓にちがいなかった。ウォーカーは墓石の代金を払い、「ゾラ・ニール・ハーストン、〈南部の天才〉小説家、フォークロリスト、文化人類学者 一九〇一―一九六〇」と墓石に彫ってくれと石工にいい、でき上がったらせめて写真でも送ってほしいと頼んで立ち去った。


3 『騾馬とひと』の背景

 ゾラ・ニール・ハーストンの文芸界への登場は、具体的には、一九二五年ワシントンからニューヨークへ向かった時のことだった。一ドル五十セントをふところに、仕事のあてもなく、友人もなくやってきた。彼女はその時のことを自伝に「でも希望にみちて」と記していた。作家になろうと考えていた。到着するとその足で、「全国都市同盟」の事務所へ向かい、同盟の機関誌である『機会−−黒人生活ジャーナル』の編集長のチャールス・ジョンソンに会いたいといった。ジョンソンはその一月前にすでにハーストンの短篇を掲載していた。当時「新しき黒人《ニュー・ニグロ》」という言葉が使われるようになっていた。アメリカ社会で従属的な立場に甘んじて生きることを拒む黒人、という意味だった。そのような概念の内容を展開していくうえで、ジョンソンはハーストンの発想を重視したのだろうと、ヘメンウェイは『ゾラ・ニール・ハーストン−−文学伝』に書いている。ハーストンの短篇は、黒人であるからこそ、その生いたちはある特別なありかたで美しく彩られてきたのだ、という自己意識」を核にしていた、と。それはハーレム・ルネサンスと呼ばれた文化運動に多大な貢献をしうる視点だった。『機会』に載った短篇は「光を浴びて」と題され、イジーという若い黒人女性の物語だった。イジーは貧しく黒いが、だからといって悲劇的であるわけではない、というテーマをもっていた。自伝的な要素が強く、のちに著した「わたしは悲劇的に黒いわけではない」というエッセイの土台になる作品だった。自らの出身の脈絡の中で自己を確認し、それを肯定的なものとして宣言するという姿勢は、たとえばリチャード・ライトの圧倒的に悲劇的な視点とはたいへん対照的である。(ライトはハーストンを理解することはできなかった。ハーストンには政治的意識が、階級意識が、欠けている、描かれた黒人像は戯画である、と批判した。)ライトのそれのような悲劇的緊張感に金縛りになることはなく、黒人の暮らしの中に美しさと愉悦と創造力を見出すことのできたハーストンをつくったのは、一つには先にも述べたように、彼女の出身地イートンヴィルの性格だろう。詩人のジューン・ジョーダンは、イートンヴィルのような町を「追われる武者とでもいうべき姿勢を崩すことを許す共同体」と定義した、とヘメンウェイは引用している。
 九歳のゾラを残して死んだ母親の影響も強かったようである。母はゾラに「太陽に向かって跳ぶんだよ」といったそうだ。かつて学校教師だった彼女は息子五人と娘三人を自分の寝室に集めて教育した。
 その母の死は「わたしの放浪のはじまりになった。地理的な意味でよりも、時間的な意味で。いや時間的な意味でよりも、精神的な意味で」と自伝にあるが、再婚した父をはじめ、家族との折り合いが悪かった彼女は十四歳でイートンヴィルを飛び出し、「ギルバート・サリヴァン」のオペラ劇団の衣装係となって旅をした。しかし一九一七年九月には(おそらく十六歳の時。彼女はその時の気分によって、自分の生まれたのは一八九八年とも、一八九九年とも、一九〇〇年とも、一九〇一年とも、一九〇二年とも、一九〇三年ともいったそうだ。出生届は残っていない)、ボルティモアのモーガン学院に入学して高校生になっていた。ドレス一枚きりで。その後ハワード大学へ入り、文芸部部員になった。
 彼女がニューヨークへやってきた時代は、ジャズ・エイジとも呼ばれ、白人の間でも黒人の文化がもてはやされていた。ハーレムへ芸術的刺激を求める白人が夜ごとやってきた時代だった。「新しき黒人《ニュー・ニグロ》」というヴィジョンが黒人文学の性格を決定的に変えようとしていた時代だった。ハーレムは都市のなかの都市とも呼ばれていた。すぐれたイデオローグや学者のほかに、ラングストン・ヒューズ、ポール・ロブソン、ロランド・ヘイズ、デューク・エリントン、エセル・ウォータースなどが活躍をはじめた時代だった。
 ヘメンウェイは、ハーレム・ルネサンスは運動というよりは、ひとつの精神を指している名称と考えるのがふさわしいという。時期については、第一次大戦の終結から経済恐慌の到来まで、とするのが一般的であるようだが、大戦以前にすでにはじまり、ルーズヴェルト大統領の第二任期まで続いた、とする説もある。いずれにしろハーストンの登場はハーレム・ルネサンスと時を同じくしていた。
 ハーストンはその著作活動のはじめから、フォークロア的なものにこころを注いでいた。彼女のその感受性の基底にあったものは何か。ヘメンウェイは次のようにいっている。

 黒人大衆がひとつの階級をなすというなら、疑いもなく彼らはプロレタリアートだった。しかし――(アラン)ロックも含めて――大衆とじかに長期にわたり接触を持った者はほとんどいなかった。(中略)そういう時代に、ゾラ・ハーストンは大衆のもっとも近くにいて、彼女という人も、また作品も、黒人は白人になってブルジョア的価値をまねたり、政治的プロパガンダの洗練されたプログラムに加担することからではなく、むしろ内面に向かって、ブルースを生み、伝承民話を生み、霊歌《スピリチュアル》を生み、つくり話、アイロニックなジョークなどを生み出すことで、人種差別をする環境に打ち克ってきたことを知っていることを示していたのだった。(中略)【傍点:ハーストンは黒人の民間伝承が心理的に打ちのめされた民族から生まれ出たものではないことを、いやむしろ、それは心理的な健全さの証拠ですらあることを知っていたのである。】(傍点筆者)

 だからハーストンはコンサートの形でもてはやされるようになっていた黒人霊歌《ニグロ・スピリチュアル》の、スピリチュアルとしての信憑性に疑問を抱いていた。洗練され、完璧なハーモニーとピッチで、劇場の舞台などで、タキシードを着て直立した歌手たちによって合唱されるスピリチュアルには、それが生まれ、歌われながら再生していくプロセスが抜け落ちていたから。彼女はコンサートやグリー・クラブの黒人霊歌は「黒人作家によって作られたもの、あるいは霊歌を土台にして作られたもので、すべてすぐれて美しいが霊歌ではなく、区別して新霊歌とでも呼ぶべきである」と提案した。真の霊歌は音響効果にではなく、感情を表現することに全力を傾注する集団によって歌われるし、黒人の生の条件を嘆くためにうたわれる哀歌ばかりではないし、霊歌といえば何もかも悲歌《サロウ・ソング》だという概念はばからしい、といったのだった。
 ハーストンの最初の試みは、ハーレム・ルネサンスのまっただ中にあって、高邁な芸術活動と民衆的な要素を結びつけることによって、イートンヴィル的なものの代弁者になろうとすることだったとヘメンウェイは考えている。それがうまくいかないとわかって、フォークロアを学問として学ぶ道を選んだのだと。しかし一九二五年にまず『機会』誌に載り、次に『新しき黒人』誌に転載された「スパンク」という短篇はすでにハーストンの成長を示していた。この物語はほとんど、中央フロリダの農村黒人の方言による会話で書かれている。説明することではなく、示すことで表現する方がすぐれているのだと、彼女はすでに気がついていた。イートンヴィルとその思想が彼女の題材であることにも気づいていた。
 ハーストンのイートンヴィルへの固執の意味は深い。なぜならば、彼女のこだわりは、ヘメンウェイが指摘するように、彼女が「民族の伝統のつくられる生成過程」を理解していたことを示しているのだから。当時のルネサンス作家・芸術家の中でも、それを理解し、そこに根ざそうとしていたのはハーストンひとりだった。『ハーレム・ルネサンス』を著したネイサン・ハギンスは、ハーストンを批判して、「ゾラ・ハーストンの精神と彼女が扱っている素材との間にある境界がいつも不明確だ」と書いているそうだが、それは当たりまえのことだとヘメンウェイは主張する。なぜなら、彼女はそれまでに受け継がれてきた民話と、それらを改変して自らのものに作りかえてしまうそれぞれの世代の想像力を区別しないからである。継承のプロセスそのものの中に巻きこまれているからである。彼女の美意識はそういうことを根底に置いていた。民間伝承とは、現実についての解釈を演じてみせる行動そのもののことなのであると。
 このような彼女の創作態度はニューヨークでは孤立した。人びとは、芸術とは個の精神活動のたまものであるという近代主義から自由ではなかった。おそらくもう一人の例外はラングストン・ヒューズだった。(ハーストンとヒューズは『騾馬の骨』という戯曲を共作したが、その著作権をめぐる争いがおこると終生の敵どうしのようになってしまった。それまで二人はたがいに刺激を与えあい、共通の関心を持つきわめて親しい友人だった。)そのような空気の中で、ハーストンはフィクションの方法から、文化人類学の方法を借りる道へ向かったのだった。『騾馬とひと』は一読してわかるとおり、純粋に学問的な報告論文ではない。半フィクションのような形で、フォークロアの役割を人びとの行動のさなかにとらえて伝えようとしている。しかも彼ら自身に語らせてはいるが、客観的な記録ではなく、記す者もまた、その行動の中に投げこまれている。
『騾馬とひと』を学術報告論文として発表することを、彼女のコロンビア大学での指導教授であったフランツ・ボアズなどは期待していたらしい。しかし情報資料の蒐集を終えて、幾たびも書き直しを続けているうちに、いまわたしたちが読むことになった、リッピンコット社初版の『騾馬とひと』になった。出版社がなかなか見つからないでいたところへ、「一般読者にわかるように書いたら出版する」という話になった。書き直しを重ねたとはいえ、内容は一貫して七十の民話とフゥードゥー師に関する五篇だった。
 フロリダへの最初の旅は一九二七年二月だった。六カ月の予定でコロンビア大学から調査費をもらった。歌、習慣、民話、迷信、ほら話、ジョーク、踊り、ゲームなどについて記録してきなさい、ということだった。調査は失敗だった。失敗の原因については、ヘメンウェイは、ハーストンの文化観がどこか分裂していたからではないかと推測している。コロンビア大学における選良意識は、とどのつまり西欧的な文化を基準にして他の異文化を測り、異なる文化習慣は、まさしくその基準と異なるということにおいて劣等なるものと考える態度だったが、ゾラは個人的に、直接に、異質な美意識を持つ文化の構造を知っていたのである。非西欧的なものは未開的なものとして分別されることで白人に受けいれられていたが、彼女はそこには未開的なものなど一切ないことを知っていた。
 最初の調査は失敗に終わったが、ハーストンはいま記録しておかなければ忘れられてしまうという切迫した気持をすてることができなかった。そこでヒューズの後援者でもあったメイソン夫人という富裕の白人の老女に経済的援助をたのんだのだった。メイソンはなぜか黒人の文化に関心を抱いていて、ハーストンの計画に興味を覚えた。しかし経済的援助を与えるについては契約書を作成するといい、契約書には、ハーストンはメイソンの代理人としてアフリカ系アメリカ人のフォークロアを蒐集すること、なんとなれば、メイソン自身は関心を持ちながらも、他のことがらに追われ、自ら蒐集する時間の余裕がないから、と記されていた。雇用契約の性格を持った援助契約だったのである。蒐集活動の予定や成果については私的な書簡の形ですら他言を禁止すること、蒐集された資料はすべてメイソンに所有権がある、とも記入されていた。(このメイソンはラングストン・ヒューズに対して、彼女のアフリカたれ、と要求したことがあるという。ヒューズは、自分はクリーヴランドとカンザス・シティでしかありえないと答えたそうである。)
 調査は一九三一年まで続けられた。出版されたのは一九三五年になってからだった。彼女はヒューズへの手紙で、「わたしはまっさらな箒で掃き集めるようにして」蒐集していると、興奮とよろこびを伝えていた。蒐集中のハーストンは、ヒューズの詩をテルピン油精製所や製材所で働く黒人に朗読してきかせた。人びとは感動し、ヒューズの詩は彼らの間でたえず引用されたという。
 ところでヒューズは自伝『ぼくは多くの河を知っている』The Big Sea(邦訳、河出書房新社)でゾラのことを回想しているが、ある箇所では彼は、ゾラは白人から金をもらってその代償として、素朴で子どもっぽく、かわいくおかしい黒人、すなわち、彼らの「ダーキー」のイメージにぴったりあう黒人として振るまったと批判的であるが、べつのところでは、ゾラが黒人のこころに湧かせることのできた信頼感について回想している――

 しかしミス・ハーストンは聡明であった――大学からAばかりもらうことをよしとせず、学問であれ、何であれ、てらいというものをたいへん嫌っていた。だからこそ、彼女はあれほどまでに優秀な民間伝承の聞き書作家だったのである。人びとに立ちまじり、教育を受けたそぶりはまったく見せなかった。レノックス街で道行くハーレムの黒人を呼びとめて、人類学の奇異な道具を使って、頭の寸法を測らせてほしいといっても、そのことで怒鳴りつけられることもないというのは、おそらくゾラだけだったのだろう。彼女はおもしろい形の頭を持つ者に出会うと、誰かれかまわず呼びとめては測定したものだった。

 フゥードゥーの調査は一九二八年八月に始まった。自らフゥードゥー師に弟子入りした。師のひとり、自分の死を予知した男性のフゥードゥー師がゾラに後継者になってくれといった時のことについて、「できませんと答えることはじつに悲しいことだった」と記している。フゥードゥー師との出会いは彼女の精神の深部に影響をおよぼしたようだった。危険をおかしてイニシエーションを遂行した彼女がその体験について記しているところは、報告されていることよりも、語られていないことにわたしたちは注意を惹かれる。フゥードゥーの調査は報告を目的としたものであったと同時に、報告者の内面・精神性に強い衝撃を与え、彼女を根源的なところで動かし変えた体験であったように思われる。ヘメンウェイがいうように、ハーストンはフゥードゥーを迷信の寄せ集めとして見てはいなかったこと、最終的にはむしろそこにきわめて複雑な儀式の体系を見て取っていたこと。一見したところでは交感魔術としか思えないものが、じつは高度な宗教観を内包していることを理解していたこと。五人のフゥードゥー師についての報告は、人間の存在秩序のひとつのありかたと、現実把握のひとつのありかたを示していた。
 自らの中で表現を求める多くの者たちに声を与えるために、彼女はひとまず文化人類学の方法を学んだが、報告はフォークロアの生成の過程そのものと、過程に加担するひとりの女性の姿を映し出していた。加担者としての彼女が、ある再生の体験をくぐる姿も映し出していた。
 わたしは悲劇的に黒いのではない、といったハーストンは、まさしく、集団的な想像力と体験の中に自己の位相を探してきたトニ・モリソンやアリス・ウォーカーやエリーズ・サザランドやトニ・ケイド・バンバーラなどのおばであった。民族の文化の完結性と正当性と持続する過程の中に、民族の健全性をみとめ、それを前提にして表現をこころみている、わたしたちの同時代の女たちの、おばであった。


さいごに

「女たちの同時代――北米黒人女性作家選」はこの第七巻で完結する。なんとか少しでも同時代的な直接性をもって読まれてきただろうか。黒人の女性作家たちの表現しようとしたことから、妙薬のような知恵を功利的に借りてしまうということではなく、わたしたち自身のさまざまな探索の中で、わたしたちのそれとは異なる歴史体験や伝統や世界観を背景にした女たちの過去を回復し名づける努力に触れることで、同時代を生きていることの共感がもてただろうか。あるいは私たちの意識に欠如している部分を感じとることさえできただろうか。答えはすぐには出ないと思う。それでいい。
 わたし自身は翻訳の一部を引き受け、各巻に解説のようなものを書いてきた。学問的(文芸史的)に解説しようと思ったことは一度もなかった。わたしは学者ではないのだし、わたし自身がそれこそ同時代的に関心をもっている部分から出発して考えてきたということにすぎない。そういうふうにして作品に向かうことが、この選集を編むにあたってのそもそもの目的だったから。
 だから各巻に、同時代の女性として、にほんというところで書くことを通して何かをしようとしている人たちにエッセイを書いてくださいとお願いしたのだった。書いていただいた順にあげれば、津島佑子さん、森崎和江さん、石牟礼道子さん、矢島翠さん、ヤマグチフミコさん、堀場清子さん。それぞれお忙しいなかをありがとうございました。翻訳については、詳しい註をつけてくださった『強き性、おまえの名は』の矢島翠さん、海外の研究旅行をひかえて、困難な『青い眼がほしい』を予定通りに終えてくださった大社淑子さん、予定が急に変わってきつい条件で『メリディアン』を訳してくださった高橋茅香子さん、『真夜中の鳥たち』に力を貸してくださった松岡和子さん、矢川澄子さん、竹村美智子さん。そして最終巻のハーストンの『騾馬とひと』の抜萃を翻訳してくださった中村輝子さん、解説の翻訳に手を貸してくださった青山誠子さんと小池美佐子さん、ありがとうございました。
 それからいつもながらの、そしていつにもましてのみごとな感覚と一貫性で、この選集の装幀をしてくださった平野甲賀さん、ありがとうございました。何もかも女の手でやったるぞ、とそういう排他的なこころでやっていたわけではないのですが、この選集の本づくりの作業にかかわった人物として名前が印刷された男性はあなたひとりという結果になりました。
 表紙の装幀に使わしていただいた絵やコラージュは、全点、北米の黒人女性の手になるもので、作品を集めてくださったのは、ニューヨーク在住のハワーディナー・ピーンデルさん。彼女が日本滞在中に、こういう意図でやっているのだが、それにかなうような美術作家たちの作品をどうやって探したらよいかと相談を持ちかけたら、協力してくださった。そもそも、同時代の作家たちと同様に同時代的に美術や写真の分野で仕事をしている黒人女性の作品を装幀に使うのを基本方針としろ、というのは平野さんの最初からの提案だった。そのおかげで、いい加減なシンボリズムにおちいるのを救われたのだと思う。たいへん教えられた。
 最後に、移動ばかりしているわたしとのつきあいにうんざりせずに(うんざりしても、したともいわずに)七巻までついにいっさいをやりくりするだけでなく、わたしの作業にも手を貸してくださった朝日新聞社図書編集室の渾大防三恵さん。こういう選集を編もうという案について考えはじめた時から数えると、もう五年になりますか。ありがとうございました。


『語りつぐ』 朝日新聞社 1982年11月30日発行




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