音の静寂静寂の音(2000)
高橋悠治

3.バッハから遠く離れて



1750年の死から250年もたつというのに
ヨーロッパ音楽はまだバッハを鏡として
自己中心的な夢にひたっているのか

だれでも知っているバッハの音楽
トッカータとフーガの開始の身構え
G線上のアリアの気楽なベースライン
主よ 人の望みの喜びよ を吹き鳴らすトランペット
シャコンヌの誇張された身振り
ロマン主義が発明して
レコード産業とディズニーがひろめたバッハ
それ以外はとても複雑で退屈な音楽ではないか

そうではない
鏡として発明されたもう1人のバッハがいる
きく必要もなく存在している音楽
記号となった音 テキストとして読むことができる音楽
楽譜に書くことができる固定された音の列
楽器をつかわずに頭で考えた音のイメージを
次々に紙に書き出す能力
ほとんど訂正なしに完成される原稿
こういう技術なしには
作曲家という職業は自立したものにはならない
演奏家たちを作品の高みから支配し
消え去る音にも頼らず
どんな演奏も汲み尽すことのできない本質の
秘法の奥に憩うことができるのも
方法論となった作曲技術のおかげ
楽器ではなく 洋傘と杖を使っても
バッハの音楽は演奏できるだろう

旋律型や装飾法といった演奏の慣習のモザイクである旋法を
トニカとドミナントの関係に一元化した 調性のシステム
地中海の5度と北方の3度の対立を弁証法的に統合して
まだ平均律ではないがバランスのとれた 鍵盤楽器調律法
改良された指使いで 歌のように なめらかに波打つ旋律も
和声の表面にすぎない
主題法 分析によって見つけ出される一つの音列が発展し
作品全体を支配する
このように 専門家の術語でしか語れない音楽

作曲から自己編集に重点を移したバッハの晩年
教会暦のすべての日に対応できるカンタータ集
調整された鍵盤のためのあらゆる調の前奏曲とフーガ
世俗鍵盤音楽スタイルのカタログ ゴールドベルク変奏曲
音楽の捧げ物 じつはカノンの技法
改定の途中で放り出されたフーガの技法
抽象化され 分類され 操作される百科全書派的知

音から離れて記号となった音楽は 生活からも離れていく
マタイ受難曲 生きた神を裏切り見捨てた人間の
ロゴスとなった神からの 耐え難い距離
ブランデンブルク協奏曲 音楽の捧げ物
宮廷のアマチュア貴族の手や耳には複雑すぎる名人芸
市民社会にさきだって 音楽の世俗化ははじまった
技術の集約と個人化
主体と客体の分離
知の権力
音楽の啓蒙主義はまだ世界を支配している
あらゆる伝統文化に寄生し 内側から造りかえ
存在しなかった起源を発明しながら

1964年西ベルリンで ヘルマン・シェルヘンに
シェーンベルクのピアノ曲を弾いてきかせたことがあった
プロイセンのこの精密さは全世界を征服した
と シェルヘンは言った
のがれられない文明の呪縛
転換ギアはどこだ ベンヤミンさん
あるいは絨毯の模様の一点のほころび
籠の編み残された魂の出入口

バッハの曲のどれかを鍵盤の上でためしてみる
完成されたものとしてではなく
発明された過去としてではなく
未完のものとして
発見のプロセスとして
確信にみちたテンポや なめらかなフレーズを捨てて
バッハにカツラを投げつけられたオルガン弾きのように
たどたどしく まがりくねって
きみは靴屋にでもなったほうがいい
その通りです マエストロ
そして この音楽と現代社会とのかかわりについて
さらに 日々の生に その苦しみにこたえる音楽をもたず
過去の夢に酔うことしかできないこの世界の不幸について
瞑想してみよ

(ExMusica 1号のために) 


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