現代から伝統へ  高橋悠治


外側から見ると 日本には伝統文化があった 西欧文化をとりいれて近代化するのに百年かかり いまや日本独自の現代文化とは何かと問われる段階にまでいたった ということになる

さらに 日本は東アジアのはてにある島であり 文化を輸入することはあっても 輸出したことはない 吹き溜まりだから 時々鎖国して とりこんだ素材を固有の美学によって変形し 洗練された独自の文化を創りだした と言われる

この二つは結局おなじことを言っている 海にへだてられて孤立した風土には固有の文化があり 外の影響を受けることがあっても表面的なもの あるいは技術的な側面にとどまり 本質は変わらず伝承されてきた という神話

地 域を囲い込んで支配し 外との交通を管理して通行税を取り立てたり 輸入される貴重品を独占しようとするものの立場が 文化を実体あるもの 変化を超えて あるもの 連続したもの 独自なものとしてとらえるところにあらわれている 心や 精神 美学というようなことばをつかって文化を語るのは 政治的な行為 だ

日本という国家がつくられた七世紀以前も以後も 島にとって海は閉じることのできない道であり さまざまなことばを話す人びとや 物の流れは 絶えたことがなかった 沿岸あるいは河の曲がり角に姿をあらわして 交通を直接監視していた支配層が 権力や所有が集中するとともに もっと 安全な内陸に都市を移して そこから兵士を送って間接支配するようになって以来 定住民にとっての文化は 収奪と洗練の対象 所有され保存される物 それ にもかかわらず 心のような 見えないものに託して語られることによって秘匿されなければならない価値となったのかもしれない

それ に対して 権力が設定した境界を越えていく人びとにとって 文化は交換される物を通じての人とのつきあいのプロセス 移動し 変化し 散乱する価値 それ らは茶 唐辛子 銀 陶器 詩 経典 楽器 僧侶 学者 時には奴隷や神々の姿で 海を越える それだけでなく この列島のなかでも 縄文時代の昔から  川をさかのぼり 裏山伝いに関門を避けて あるいは沿岸に沿って回遊する舟で さまよっていく 江戸時代のように分割統治が徹底していた時代でも 旅する 職人たち 芸能者たち 巡礼などがいた 身分別にあてがわれていた芸能も 領域を越えて行き交うこともできた

これら二つの文化は  いつもせめぎあい またあやういバランスの上で共存することもあった だからこの列島だけを見て 文化の伝統を語ることはできないだろう 古代では東アジ アのなかで さらにモンゴルの世界帝国が成立した後では ユーラシアのなかで流動し 重層的に形成され やがて崩壊する多様な文化空間のなかで観察すると  日本固有の文化と思われているものも 広大な空間と時間のなかで明滅する 関連しあう現象の一つの変化形であり さまざまな可能性の織り合わされた仮象 にすぎない

西欧近代という名で語られている最近の数世紀の文明に潜在していたもの そしてその衰退とともにしだいにあらわになって きた支配文化の特性 一般化 標準化 均一性 操作性 分析的 視覚的 競争原理 排他性など さまざまな視点からちがうことばで語られるこのような傾向 に対して それに替わるものとして アジアの多様性 分散性 移動性を言うだけではじゅうぶんではない

よく定義されたことばをつ かって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠 にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作して も 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことば は無限に増殖する

このように ことばの危険を思いだしながら この文章のはじめにもどると 伝統がこちら側にあり 西欧近代が外部 からのものとして 対立的にとらえられている ということ自体が 近代的な思考であることを別としても 伝統は過去であり 近代は現在ないし近過去であり  現代とここで言われているのは あるべき現在という じつは近未来の展望であるらしい とも考えられる この線的な時間 発展という歴史観も 近代のも のではないだろうか このように問題を立てることは 西欧近代を全面的に受け入れる以外の答をあらかじめ排除している そして このような論議のやりかた 自体が近代的であり 政治的でもある これでは前提から外にでることは絶対にできないだろう

このことは 編集部からの依頼の趣旨ともかかわっている 音楽家として西欧音楽の余白にあるものをテーマに書くことをもとめられているのだが 近代の分断支配の産物であるジャンルの専門家が専門ジャンルについていくら論じても そのこと自体が近代の掌のなかにある

伝 統が変化のプロセスであるからには 変化することが継承であり 変化はひらかれていることを前提としているから 伝統が伝統となる以前の姿にたえず立ち戻 ることによって 広大なアジアの時空に解放されることが可能になる 洗練や技術は学ばれると同時に捨てられる 言語 音楽 演技など できあがったかたち を論じることからではなく 声 音 身体を感じることから 創造のプロセスがうごきだす 心やことばからは変化は生まれない 移動し ことなる人びとや文 化に触れるのは まず身体による 身体をうごかして 未知の技を身につけることなしに 心やことばでの理解だけでは 創造の可能性はひらけない 生きた身 体に出入りする息のように 技はだれのものでもない そのように文化も国家や民族のものではない そこにはどんな全体もない あるのは たえず崩壊してい く部分だけだ

(世田谷パブリックシアター劇場雑誌『PTex.』)



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