武満徹の「うた」
高橋悠治

1.ことば

この巻には「うた」(ポップ・ソング)、テープ作品、舞台や放送のために書かれ た音楽、初期の未完のスケッチなどが収められる。これまでの4巻がまずオーケストラ曲、次に室内楽という「純音楽作品」からはじまり次に2巻にわかれた映 画音楽画がつづくという順序で、作曲家としての武満の中心的な領域をカバーしていたのに対して、これはどちらかというと周辺領域と考えられるもの、しかも 作曲家自身がその時々に置き去りにしたものを集めている。

これらの音楽をききながら、それぞれの作品をどう思うかとは別に、ひとはどのようにして音楽をこころざし、作曲家となっていくか、そして作曲家 として認知されたあと、最初の志はどうなったかを考えてみることも、なにかの意味があるかもしれない。

武 満徹は後から見れば、たいへん幸運な作曲家だったということになるだろう。「現代音楽」という西洋的音楽のフロンティア、つまり最先端にして未知の辺境に いながら、日本のオーケストラ定期演奏会の保守的な聴衆や「音楽愛好家」にも知られている唯一の名であり、死後数年たってもいまだに演奏されていること自 体が、例外的な現象と言える。

かれの死後、文章や対話を集めた5巻の「著作集」と、ほとんどすべての音楽作品の録音を集めたこの 「全集」5巻が出版されたのも、武満が現代日本を代表する世界的な作曲家だという、一般的な認識にもとづいている。すでに武満を論じたたくさんの文章があ るが、この現象がいつまで続くのかはわからない。

武満自身がことばのひとだった。スケッチブックにさまざまなことばを集めながら作 品の構想を得ただけでなく、自分の音楽についてもたくさんのことばを残したために、武満を論じた他人の文章のほとんどは、それらのことばを論じているか、 それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている。

かれが自分の体験について語ったことばも、たいへん魅力的だが、真実である にはあまりにうつくしい。かれが自分と自分の作品のまわりに織り上げた伝説にとらわれずに、このひとを語るためのことばは、まだ存在しない。もし、かれの 音楽がこれからも忘れられずにいれば、ことばに覆われているかれの生と音楽を解き放つ考証も、いつかは可能になるだろうか。

2.身体

さて、15歳の武満は、戦時下の学生動員で働かされているとき、ある兵隊がもっていたシャンソンのレコードをきいて、音楽にめざめた、とされて いる。
多くの学生たちにとって、戦時下に禁じられた「外」の音楽は、ことばよりももっと切ないあこがれを、こころのなかに刻んだ。

敗 戦後に生き残った少年たちは、まだひろい世界から切り離されたままで、占領軍のラジオからきこえてくる音楽をきいていた。武満は独学で音楽を志したという が、かれだけではなく、ほとんどみんながそういう環境に置かれていた。音楽の理論書があれば、借り出して読み、楽譜を借りて手で写した。ピアノがある場所 をたずねて弾かせてもらった。貧しい時代は、人の行き来はさかんだった。訪ねてくる見知らぬ他人を拒む人はすくなかった。人のつながり、とくにおなじ道を 志す友人たちが、修行のほとんどすべてだった。鈴木博義や福島和夫、それから一柳慧、湯浅譲二、秋山邦晴、谷川俊太郎、音楽家たち、詩人たち。ほとんどお なじ頃、出発した芸術家の世代。

1948年から49年にかけて書かれたピアノのための習作の楽譜が何曲か残されている。こういう書きかけの楽譜が発見されて、全集に収められる ことは、生前の作者は予想していなかっただろう。

「二 つのメロディー」と題して書きはじめても、1曲をやっと終えただけで、2曲目はない。この第1曲は「筧」と題されていたらしい。単純なメロディーはわずか に変奏され、はじまった場所に回帰する。このメロディーはどことなく早坂文雄を思わせる。他の曲もみんなどこかにあったような楽譜の姿を見せている。

独学でしかも自己流にならないためには、基礎理論を勉強するよりは、他人の楽譜を見て、それに似たものを書いてみること、それに似た響をピアノ でためしてみることのほうが効率的な学習法と言えるだろう。若い武満は、他人の音楽に敏感で、影響をうけやすかった。

「二 つの作品」、と言っても3曲の未定稿があり、いたるところで音を訂正しかけたまま放棄されている。アレグロの音楽を書こうとして苦しんでいたらしい。始め と終わりのある「音楽」らしい音楽を書こうとして、始めることはできても、終わりにたどりつけなかったのかもしれない。

「二つの小 品」、またアレグロ。すぐ終わってしまう。やはり、一つのはじまりだけでアレグロを書くことはできない。アレグロとは速度ではなく、擬似的二元性だから、 元気よく走り出すためには、元気なく取り残されるものを必要とする。これをソナタ形式と呼んでもいいが、それこそ近代的父権主義の音楽でなくてなんだろ う。武満は、幸か不幸か、アレグロを書くことができなかった。

それにつづくのは、のちに「二つのレント」の第1曲になるものの発 端。これは何回と無く書きなおされて、完成された版は、批評家の山根銀二に「音楽以前だ」と言われたほど、このフレーズのまわりをひたすらめぐる。対立を もたないことは、構成をもたないことではないが、ドイツ的音楽観は対立と闘争を絶対視する。

レントは、武満の身体が受け入れることのできた音楽の時間だった。ピアノで一つ一つの和音の響をたしかめる作曲家の身体。さまよう手がさぐりだ した響の余韻に立ち止まりながら、時には激しくぶつかる音程を打ち込んでみる。

「二 つのレント」の第1曲になった一つのフレーズは、そうした音の身体の隙間からふと浮かび上がってくる。だが、それがどこへ行くのか見まもる忍耐は、この身 体にはまだそなわっていない。忍耐は技法であっても、いわゆる作曲技法とはちがう、音がおのずから行くべきところに向かうのを待てずに手を出さないでいら れる、抑制の身体技法と言ったらいいのだろうか。

おなじ頃のピアノ曲「ロマンス」もそうだが、5音組織にこだわり、しかも半音を含む江戸的な「陰」旋法によって、それを構成する音程を組み換え ながら、統一原理を、あるいは作曲技法をさぐっていたらしい。

そ の頃知り合った清瀬保二や早坂文雄たち戦前に出発した世代も、チェレプニンの影響からか、ペンタトニック(5音音階)にこだわった。それは日本独自のもの であるどころか、東アジアと東南アジアに存在する無数の音組織のほんの一部にすぎないが、近代の民族主義者たちは日本の民族性がここにあると決めていた。 武満はそれにことばでは反発しつつも、その皮膚感覚を生きた。

シェーンベルクやヴェーベルンが12音技法とはいいながら、ロマン主 義的3度と半音のたった二つの音程を組み合わせた貧しい響に閉じこもり、反転したロマン主義を微分的に凝縮したように、武満のレントも、4度と半音の組み 替えのなかで江戸町人の屈折した情緒を温存していたようだ。

第二の「レント」では、ちがう空気が流れる。これを書く直前にメシアン の「前奏曲集」の楽譜を見たらしい。ここでは、初期メシアンの和音や音形をためしているが、、似合わない新しい服を鏡の前でためしているこどものように、 いくらかためらいながら、時にはもとの貧しくやせた響が表面に出てくるのを抑えられないでいる。ところが、1年後の「妖精の距離」や「遮られない休息」第 1曲では、そのような不器用さはなくなって、自分の音楽のように身についている。独学者の学習はすばやい。

3.現場

1950 年代の東京には、いまのようにたくさんの若い作曲家はいなかった。音楽を必要とする場はあって、きっかけさえあれば、映画や舞台、あるいはラジオドラマの 音楽を書くしごとがあった。武満は1952年から早坂文雄の映画音楽の助手をしている。そのほかにバレー音楽を書いたり、編曲の仕事もしている。こうして 音楽の現場で、楽器の使い方や演奏家とのつきあい、画面に音をつけるやりかたをまなんだ。のちには、かれ自身の映画音楽を手伝ってくれる若い作曲家と工房 を作って、しごとをした。

その頃の日本では、映画や放送局のような商業メディア専門の作曲家たちはまだいなかった。コンサート音楽 をめざす作曲家も、生活のためにこういう場でしごとをしていた。当時内幸町のNHKの向かいにあった喫茶店には、しごとを求める作曲家たちが出入りしてい た。新しい映画の企画がすすんでいるときくと、偶然のようにプロダクションに顔を出したりもした。

放送局では磁気テープが録音に使 われはじめた。フランスではラジオドラマの効果音からミュジック・コンクレートの技法が編み出された。それは1950年代はじめには日本に輸入されて、実 験的音楽作品としてよりは、ラジオドラマや詩劇のなかに使われた。テープを切り張りし、速度を変え、逆回転させる、といった操作は、作曲家がやるより、音 響技術者がいて、効果音のライブラリーや、新しい効果の実験をしてくれたし、声は俳優を雇い、台本は詩人が書き、そこに演出家までいるといった工房の集団 作業で創られた当時の作品は、演劇的・心理的な表現がおおかった。NHKではケルンの放送局で開発した電子音楽の実験もはじまっていたので、発振器の音を 組み合わせることもできた。

1950年代の武満はテープ音楽の作曲家として知られていた。当時の技術水準でできることはすべてやっ ているし、現実音の思いがけない使い方のくふうがある。40年後の今きくと、ディジタルのなめらかな響に慣れた耳には、当時の音はかえって生々しい起伏が ある。古くなったのは、過剰にエコーのかかった響と翻訳舞台劇の誇張された心理表現を思いださせる俳優のわざとらしい声だ。

全体に叙情性がつきまとっている。声をつかうことの背後に「うた」と官能的な「愛」への屈折した思いが感じられる。

武 満はもとから映画が好きで、暇さえあれば映画館に行っていたが、当時の日本映画の音楽には映画会社の商業的な規制がきびしかったので、1950年代はラジ オや舞台のほうが、いろいろな試みができた。テープ音楽のような実験的な試みも、番組のなかに使われれば、コンサートよりもたくさんの人がきくことにな る。また、ジャズやポピュラーソングのスタイルで主題歌を書くこともあった。

オペラがかつてそうであったように、映画やラジオドラ マは20世紀では音楽・現実音・主題歌・会話を取り込んで、総合的なメディア制度になっている。武満はサウンドトラックの最終的なミックスに立ち会って、 音楽だけでなく、それぞれのシーンにつけられる音のすべての配分を慎重に決めていた。

ここでは創造性は、コンサート音楽の場合のよ うに色彩や手法のような表面的次元ではなく、どの場面にどのような音をつけるか、あるいはつけないか、というもっと知的なレベルで表現される。音楽の構造 は、音列やソナタ形式のように使い古されたものではなく、編集の背後にある技術的・社会的な世界観のかたちで潜在する。

このような 場での音楽の役割は、それだけを切り離して聴いてみる時とはちがう「うつくしさ」をもっている。だが、それはそれとして、じっさいには、ある音楽は切り離 されて、別な場で別な編集をほどこして使えるかもしれない。バッハの時代には、ある音楽を宗教的な場から世俗の場に転用することがおこなわれていた。原曲 を変奏しつつ、個人的な感情をそこに忍ばせることもおこなわれた。それをバロック的と見ることもできるだろうし、啓蒙主義の兆しを読みとることもできるだ ろうが、表現はつねになにかを顕すことによって別なものを隠す。表現者の、そのバランスのとりかたに歴史のシステムがはたらいている。

舞台音楽からテープ音楽としてのちにまとめられた作品がいくつかある。「ルリエフ・スタティク」はラジオドラマの音楽だった。「ユリディス」は 舞台音楽だった。

オーケストラ作品に組み込まれたものもある。「弦楽のためのレクイエム」は劇音楽に使ったメロディーにもとづいている。「地平線のドーリア」に は、「砂の女」の映画音楽の一部を転用している。

4.職業

個々の作品は完結しても、作曲家のしごとが完成することはない。それはいつも途上にある。

1960 年代のなかばまで、武満は実験していた。5音組織の音列的展開の貧しい響から、メシアンにまなんだ和音の堆積や過剰な装飾、ベリオの「セクェンツァ」の無 拍記譜法、ルトスワフスキの周期の異なるフレーズの反復の堆積、リゲティの絡み合う多数の声部の「ミクロポリフォニー」、ペンデレツキのグリッサンドやク ラスター、ケージの図形楽譜、グラフィック・デザイナー杉浦幸平とのコラボレーションによる多色刷り円環図形楽譜など。

1967年 の「地平線のドーリア」について武満はharmonic pitchによる音組織とpulsationによるリズムという自分の技法に触れている。pulsation(脈拍)いうことばとは反対に、かれの音楽に は固定した拍は感じられない。呼吸のようにたえず変化するフレーズの長さと音の密度による周期があり、呼吸のように絡まる音はすべて円環の時間のなかに溶 けこんでいる。ここには多元的な時間はない。

harmonic pitch(倍音を含むピッチ)は5音組織やそのさまざまな変形をそれ自身の上にかけあわせ、鏡のように上下反転させて音程関係の網を織り、それをそのま ま提示するよりは、それをめぐり、たえずそこに回帰する線や音の束を制御する隠れた中心として作用する。「地平線のドーリア」や雅楽のための「秋庭歌」で は、それは前景に位置する楽器群の名でもあり、それに対してエコーと呼ばれる楽器群が背後に置かれて、前景の和音をからまる線でひきのばし、陰影と余韻を あたえる。見かけの上では多層空間だが、平面的な印象をあたえる。

武満自身が自分の和声的語法について語ったのは1984年の「夢 と数」と題する講演のなかだった。1980年代にはかれの語法は確立し、多くのオーケストラ作品を書き、アメリカ、フランス、イギリスで演奏されるように なった。かれの音楽はシェーンベルク、メシアン、それにのちにはますますドビュッシーの影響を見せていた。東洋的な色彩を表面にちりばめた西洋音楽、ある いは西洋から見た「東洋」を提供してくれるジャパネスクとして、グローバルな音楽制度のなかで作品を創り、国際的な音楽市場に受け入れられた、とかれ自身 は思っていなかったし、思いたくもなかっただろう。

ちょうどその頃は、ヴェーベルン的音列技法の可能性を使いつくし、メシアンが発 見したストラヴィンスキーの「春の祭典」のリズム細胞の変化もアカデミックな技法に退化させてしまったあとで、ブーレーズが再発見したドビュッシーの音色 が、このヨーロッパ前衛の旗手を19世紀音楽の守護者に変えていった時期だった。武満の音楽は、ドビュッシーやメシアンのオリエンタリズムを問題にしたこ とのないヨーロッパで、かれらの音楽の正統性とグローバル性を保証したようなものだった。

オーケストラはかつては宮廷に雇われていた。作曲家たちもそうだった。いまは文化国家の助成金か、アメリカのような軍事国家ではそれにかわる財 団にささえられなければ、やっていけない。

そ れでもオーケストラは国民国家のなかの一つの文化制度でありつづける。新作を委嘱し、初演するのは、一人の指揮者が情報を管理する軍隊式集団で、その情報 は背後にいる集団、楽譜の使用料を取り立てる出版社や、レコード産業やヨーロッパの国営放送局でなければ、ニューヨークから世界の音楽市場を支配するマ ネージメントの見えない手で操作される。

この闘技場で非ヨーロッパ人が活動を継続するためには、個人的スタイルが商標の役割をはた し、その上にナショナル・アイデンティティーを要求される。作曲家は守りの姿勢にはいる。うつりかわる現実は、さまざまな影響は、磨かれたスタイルの表面 に映る淡い影のようなものになっていく。

5.うた

コンサート音楽作品が映画音楽より一段高いものとされるのは、音楽の制度内のことにすぎない。どんな音楽ジャンルにも価値の上下はないといって 批判する人びとは、制度が政治的・社会的なものであることをしばしば忘れる。

国 際的な音楽市場では、作曲家はわりあてられた役割で個人ゲームを演じている。映画では、作家と技術者チームの一員として別なうごきかたをする。映画会社の 商業主義は、社会から排除された人びとの夢と現実のあいだで起こるドラマを、メロドラマに変えてかれら自身に売りつけようとする。その作業を現場で担当し ながら、そこにちがう意味をそっと添付すること、それが映画作家のバランスのとりかただろう。映画の音楽家もおなじだ。社会的。文化的戦略にもとづいて、 多様なスタイル、多彩な手段が流用される。そこでは、作曲家の個性のように固定されるものは障害でしかない。このように使われた音楽を、その場面から切り 離して「音楽」として評価することにはあまり意味がない。

ハリウッド映画音楽やブロードウェイ・ミュージカルの音楽の基礎は、 1940年代に中央ヨーロッパから亡命した音楽家たちによって創られた。1950年代のジャズのコードは、スクリャービンのようなロシア象徴主義の語法を 引き継いでいた。第2次世界大戦後のチャーリー・パーカーのように社会に押しつぶされた個人の自由の表現が、朝鮮戦争の終わりとともにモダンジャズの空虚 な名人芸に回収されていったとき、残されたのは白人たちのポピュラー・ソングに肥大したコードチェンジを貼り付けた人工的な音楽だった。

そこで、あらためて問うてみる。武満の「うた」とは、なんだったのだろうか。戦時下のシャンソン、占領下のジャズソング、それらは遠いうただっ た。外にある自由の夢。

そのうたを自分のうたとして書くことが、1950年代から映画やラジオドラマに「主題歌」として書いてきたあれらの「うた」だったのか。

軽 く、口笛で吹きたくなるようなメロディーと、甘く重い1950年代のコード進行。ことば以前にメロディーがあり、さらにそれ以前にスタイルがある。ジャズ 風、シャンソン風、クルト・ヴァイル風、などなど。最初の一節はことばと結びついて印象的でもある。それから後はメロディーがことばを追い越していく。そ れは劇音楽の場での必要であり、個人的にはたのしみだった。生活であり、生計でもあった。

1980年代になって、30年前の「う た」を合唱に編曲してみる。ギター曲やポップソングを書く。1950年代のハーモニーがハリウッド的アメリカの夢を思いださせる。それは意図的に古いやり かたをとりあげたのか。安定した生活のなかで貧しさをふりかえる。あたえられた場、あるいは獲得した場のなかで、失われた愛をかえりみる。

ピ アソラの流行、演奏スタイルの一つとしてのモダンジャズの復活、60年代や70年代のリメイク、時がたって無害な音楽に変わってしまった過去の冒険をとり あげることは、他の領域でも起こっている。武満の「うたふたたび」も、時代の表面を流れる傾向の一部かもしれない。オリジナルよりなめらかで、だから速度 も速めになっている。時代の深いメランコリー。対立軸を見つけられず、力で創り出すよりない一極グローバリズム。

1960年、日米安保条約締結に反対する「若い日本の会」のメンバーたち、江藤淳、石原慎太郎、浅利慶太、谷川俊太郎、大江健三郎、そして武満 徹、林光、間宮芳生、1990年にかれらはどこにいた。

武満の演奏者たち、ピーター・サーキンは1967年にはヒッピーのように生きていた。鶴田錦史や横山勝也は邦楽の世界ではアウトサイダーだっ た。かれらはその後どうなった。

むかしむかしどこかにわたしがいた
いまここにわたしがいる

「系図」(1995年)のなかの谷川俊太郎の詩。わたしとおもうこともなかったはだかのこどもと、いまわたしであるしかないいまのわたし。

[武満徹全集小学館第5巻のために]



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