『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』 藤本和子編

藤本和子による解説
 目次
  


1 過去を名づける


2 たましずめの歌

3 喉をつまらせている女たち

4 新たなる沈黙に声を

5 衰弱そして再生

6 体験の存在空間
『真夜中の鳥たち』より

7 反悲劇

体験の存在空間 『真夜中の鳥たち』メアリ・ヘレン・ワシントン編


  1

 すぐれた北アメリカの黒人女性作家の作品の緊迫感はどのような性格を持つのだろうか、と考えてみる。文学がどのように役に立つことができるかという、それはきょうこの頃ではあまり流行らない問いと連繋しているような気がするのだが、わたしの感じでは、緊迫感は切実にこれらの作品を必要としている黒人女性読者たちの飢えのこだまなのだ。飢えというものに独特の声音があって、それがこだまする。すぐれた作品は、それがなければ生き続けていくことが難しくなるような基本の食物のようだ。実用に役立つ、読む者をやしなう。
 ひとつにはいうまでもなく、黒人女性のことを書いてくれるのは、黒人女性の作家たちしかいないということがある。ワシントンが指摘するように、黒人の女たちは白人や黒人男性作家の作品にいくらでも登場するが、彼女らの肖像はいつだってステロタイプであるか、作家のほしいままに歪められてきた。言語化された彼女らの体験という点では、彼女らが頼れるのは、黒人女性作家のみである。(たしかにジェイムズ・ボールドウィンやジョン・E・ワイドマンの仕事には、黒人の集団的な体験の言語化の試みの中に、実物大の女たちが現れる。そのことを無視して、男たちは駄目だといおうとしているのではない。ただ、ボールドウィンやワイドマンのような男性作家は例外に近いことを忘れるのは難しいということだ。黒人の女性読者たちが例外に全面的に依存して満足すべきだ、とはいえないはずである。)
 それにしても「自分たちのことを書いてくれる」という当たり前みたいなことの意味は何なのだろう? 抽象的には、女たちの歴史を回復すること、あるいは書き直すこと、女たちの経験に名を与えること、おし黙らせられていた、つまった喉を開き、声を与えること、新たなる言語の創造、新たなる伝説の創造、そういうことがいえる。では、具体的に、そういう意味においてすぐれた作品を読むと、読者の側には何が起こるのだろうか。黒人女性作家たちの活動の現段階では、と限定をつけることが必要なら、そうしたってかまわない。ともかく、彼女らの作品の生命線は?
 ワシントンは本書の序文で書いている。「私たちの頭の中には、およそ文学の素材になるとは思ってもみなかった数多くの憶い出がしまいこまれている。ここに収められた物語は、黒い女としての私自身の過去の、ほとんど忘れかけていた数々の断片を喚びさましてくれた。……(中略)……これらの経験や記憶が、本を書く素材になるほど重要だとは夢にも思わなかった。だがそれこそが私たちの生活、黒人女性の無言の真実だったのであり、私たちの心や頭の中に静かにたくわえられ、その真の意味を明らかにする力を持った福音伝道者の到来を待っていたのだ」
 そのような物語を書くことのできる作家たちは、読者の体験が読者個人だけの隔絶された、異常にして異端的なものではないことを伝えてくれるだけではない。誰も語らぬゆえに、意味もなく重要性もない、きわめてとるに足らぬ体験と思わされることによって、猿轡《さるぐつわ》をはめられてきた生の実体は、じつは物語として再現され蘇生させられるねうちがあるのだと伝えてくれるのである。自らの体験に光があてられ、それが特定の意味と価値を持つことが示される。作家の「書く」、もしくは「語る」という具体の行動の中で、そのことが示される。
 かくて体験は世界に存在の空間をえる。真正のものとして認められる。正当なものとして場所をえる。自らが属する人種は劣るとか、自らの文化はあるべき姿の文化の前段階に属するものでしかないとか、あるいはあなたたちとはこういう連中だとあらゆる方角からその肖像を歪曲され続けてきた者たちにとって、体験の正当性を、つまりは生の正当性を確認することができるほど重要なことは他にあるだろうか。ワシントンが、さらに重要なのは、「彼女らの作品の結果が黒人女性の生き方の中に具体的に生かされているのを目のあたりにすることだ」と書き記したことに、わたしは強くこころを動かされる。
 そのような役割を果たすことのできる黒人女性作家たちは、未踏の闇から忽然と姿を現したわけではない。彼女らには豊穣な可能性を持っていたモデルがいた。口承の伝統を受け継いできた集団は、いつでも「物語る」人々を持っていた。アリス・ウォーカーが「われらの母たちの庭を探して」でいっているように、母親たちの「語る物語」がどのように彼女らに深い影響を与えてきたことか。ブルースシンガーたちは、つねに女たちの生をうたっていた。媒介者として。バンバーラが述べたように、「語ること、つまり自分が創造する者だという態度でなく、わたしは代弁者なのだ、自分を超えた場所で代弁するのだという伝統がある」ということである。作家たちの活動は、このように、彼女らの伝統の持続と展開の脈絡の中で捉えられなければならないと思う。今日のアメリカ文学という茫とした範疇に解消してしまってはつまらない。「黒人の女たちは黒人女性作家たちの仕事を必要としている」という発言の意味、すなわち彼女らの仕事には起爆力があるという事実を羨むばかりでなく、わたしたちとしてはにほんの女性作家でもそのような性格の仕事をしている人たちを、これまでより真実に近い視角でとらえなおすことはできまいか。(たとえば、このシリーズにもエッセイを寄せられた森崎和江さんや石牟礼道子さんの仕事の深い意味は、そういうところにあると、わたしは思っている。)彼女らは新しい言語をうんでからでなくては語りえぬ、声を閉ざされた体験を世界に向けて開こうとする、それによってそれらの体験の確実性を伝えようとする。共有と交換の場を探す。彼女らが自らの個人的な体験について語る場合でも、他者について語る場合でも、根底にある姿勢はそういうものだ。

 このアンソロジーに収録された作家たちの前にもいろいろな女たちが文字による表現を行ってきた。『第三の女――アメリカ合州国における少数民族女性作家選』という選集を編んだデクスター・フィッシャーがいうように、黒人女性は当初から北米の黒人文学の展開において、各時期に大きな役割を果たしてきたことは確かだ。奴隷制の時代に、読み書きを習得することを禁止されていたにもかかわらず、彼女らは「深夜学校」と呼ばれる寺子屋のような学校を開いて読み書きを学び、子どもらに教えた。ゆえに読み書きを学ぶという行為は(つねにそうであるように)、すぐれて政治的な行為であった。すでに一七四六年、奴隷の身分であったルーシー・テリーという女性は最初のアフリカ系アメリカ人の詩人として認められていたし、一七七三年にはフィリス・ホイートリーの詩集が出版された。出版された黒人の詩集として、これが最初のものだった。十九世紀にはフランシス・エレン・ワトキンス・ハーパー(一八二五―一九一一)は人種の平等のみならず、女性の権利についてのたたかいのさきがけとなった。自由の身であった彼女はさまざまな革新運動に加わり、論文を書き、詩を書き、全国を講演してまわった。彼女と同時代人のシャーロット・フォーテン(一八三八―一九一四)はいわば黒人女性の日記文学の最初の著者だった。日記は一八五四年から一八六四年の十年間の記録で、奴隷制下の黒人の苦しい日常生活について詳細に記したものだった。奴隷解放の後、奴隷の身分と生活がどのようなものであったかを記述する動きがあらわれ、著者の多くは男だったが、女たちも書いた。一八六〇年に出版された『自由を求めて千マイル』はウィリアムとエレン・クラフトの共著だった。一八六一年には、リンダ・ブレントが『奴隷の娘の生涯のできごと』を著していた。リンカーン大統領夫人の服を縫う仕事をしていたエリザベス・ケックレーは奴隷の身分であった三十年間のことと、ホワイト・ハウスに住んだ三年間のことを書いた。
南北戦争が終わって、奴隷解放宣言がなされて、黒人の暮らしはさらに苦しさをつのらせた。公民権もなく、差別を受け、低い身分におとしめられたままで、彼らの苦しみは続いた。南部から北部への移動が起こった。そして一九〇三年、W・E・B・デュボイスが『黒人民族のたましい』を著し、彼らの精神の状況について語った。

……たえず二重性を感じるのだ――アメリカ人であることと、黒人であること。ふたつのたましい、ふたつのこころ、ふたつの相いれぬたたかい、ひとつの暗色の肉体にふたつの対立する理想。その断固たる力のみが肉体が張り裂けるのをおしとどめているのである。

 デュボイスの発言は各方面に深い示唆と影響を与え、黒人であることにともなう心理の複雑さと、二重の意識の背後にあるものを探ろうとする動向へ道を開いたのだった。「ハーレム・ルネサンス」(一九一〇―一九三〇)と呼ばれる文芸運動はそのような姿勢の頂点だった。けれどもアンジェリナ・グリムケ、アン・スペンサー、アリス・ダンバー・ネルソン、グエンドリン・ベネット、ジェシー・フォセット、ネラ・ラーセンなど、この時代に著作をした女性は多いのに、認められることは少なかった。その理由として、デクスター・フィッシャーは彼女らはすでに明確な黒人女性文学の伝統を築くのだと意識していたのだったからかもしれない、彼女らの創作のテーマが二〇年代の文学の主流のそれらから離れていたことは、そのような動向をすでに表していたということかもしれないと述べている。それはどういうことかといえば、例えば多くの男性作家たちが黒人文化への誇りの再生を謳い、黒人の生の類ない価値を積極的に肯定しようとしていた民族主義の文芸の時に、女たちは文学において民族主義を謳い上げるのをためらっているように見えたことである。女たちは男性が中心になっていた文学同人グループから離れていた、ということもあるかもしれないが、おそらく文学の質の違いは、それだけの理由からだけではないのだろう。
 ともかく事実として、彼女らは暗闇に放り出されたままになってきた。そういう情況の中で、ようやくにして掘り出されてきた作家のひとりがゾラ・ニール・ハーストンである。ハーストンの著作の一部は、この選集の最終巻に収録することになっているので、彼女の仕事がどのような性格と意義を持ち、彼女の存在が彼女のあとにやってきた黒人女性作家たちにとってどのような影響と意味を持ち、助けとなっているかについては、その機会に詳しく述べよう。いまはハーストンの仕事が小説、フォークロア、ジャーナリズム、批評の多岐に渡っていたことを記しておくが、本巻『真夜中の鳥たち』の編者でもあるワシントンが、フェミニスト・プレス社から刊行された〈ゾラ・ニール・ハーストン著作選〉に序文を書いていることからも、ハーストンの黒人女性作家たちにとっての今日的な意味をうかがい知ることはできるだろう。『メリディアン』の著者アリス・ウォーカーは、一時はもてはやされたハーストンが、その人生の終末には、フロリダで女中をしていたこと、貧困の中にこの世を去り、墓も無縁のようになっていたことを知って、彼女の墓を探し出す旅に出た。さびれた墓地を訪ね、深くおい茂る夏草をかきわけて、これがそうらしいとつきとめたものの、本当にそれが彼女の墓であるか完全な確信を持てぬまま、それでも彼女は自費で墓碑を建てて帰ってきた。碑銘は――

  ゾラ・ニール・ハーストン
   南部の天才
   小説家 フォークロリスト 文化人類学者
     1901―1960

 ハーストンは、今日の黒人女性作家たちに継承される文学の言語と方向を示している。とりわけフォークロアが文学の方法となりうること、その方法によって黒人文化の中のさまざまな関係の微妙さを把えることができることを示した功績は大きい。アリス・ウォーカー、トニ・モリスン、シャーリー・ウィリアムズ、ルシール・クリフトン、イヴォンヌなどが、「語りつぐ」伝統の上に集団的な体験の意味を探ろうとしていることを見ても、ハーストンの占める位置は明らかであろう。


  2

 この選集の第六巻をアンソロジーとして編集するときめた時には、すでにあるアンソロジーを使うのではなく、独自に編んでみようという方針だったのだが、ある事情からそれはできないことになった。しかし、この『真夜中の鳥たち』は、きわめてすぐれた、注意のいきとどいたアンソロジーだ。わたしたちがさまざまな作家の仕事に触れることを可能にしてくれるだけでなく、編集にたずさわった者の、ひいては彼女の同時代人の、文学に求める役割、自らを名づける行為への渇望を伝えてくれるという、なかなか得難い特色を備えている。その点、『真夜中の鳥たち』の選択は、ありあわせのものを、という便宜的なものでは決してなく、編者の姿勢をまともに受けて立つものである。ただし、独自のアンソロジーを編めなかったことは、この巻に詩作品を加えることができなかったということである。
 じつに文字によるアメリカ黒人文学の歴史は、黒人女性作家による詩作から始まったのである。先に述べたルーシー・テリーやフィリス・ホイートリーが先駆者だった。フランシス・ハーパーも詩を書いた。「奴隷制度反対協会」の講演者として全国を歩いた彼女は、集会で奴隷制度廃止をテーマとした詩を朗読したものだった。一九六〇年代、七〇年代の黒人の詩人たちがしたように。その詩集は五万部も売れた。

  鎖で数珠つなぎになった一団が
  畜殺場に引かれて行く
  足音を
  聞いて眠ることはできなかった
  そして荒涼たる絶望の
  母の叫び声
  震える大気に
  呪いのごとく
  のぼり立つ

 奴隷解放宣言がなされて後も、彼女の活動は終わらなかった。宗教活動、フェミニスト活動に、禁酒運動に、彼女は精力的に加わり、著作した。
 一八六五年から一九一五年までの「連邦再建」の時期は、黒人にとってはつらい反動期でもあったが、それにもかかわらず、十九世紀も終わろうとする頃には、すでにハーレム・ルネサンスの到来を予兆する作家たちが現れていた。ポール・ロレンス・ダンバーはその中のよく知られたひとりだ。グエンドリン・ブルックスが子どもの頃、彼女の母は「おまえはダンバーの女性版になるのだからね」といったという。ダンバーは方言で詩を書いた。しかし彼の同時代の女性にはこれといった詩人がいない。ハーレム・ルネサンスの時期には、アンジェリナ・グリムケ、アン・スペンサー、ジョージア・ダグラス・ジョンソン、ジェシー・フォセット、エフィ・リー・ニューサム、グエンドリン・ベネット、ヘレン・ジョンソンなどが詩を書いていた。けれども彼女たちは決して「重要な詩人」として扱われることはなかった。その理由は、彼女らは多作ではなかったこと、さらに詩集が本になって出版されたのはこの七人の中でもジョージア・ジョンソンだけだったこと(しかも、ジョンソンは七人の中で最良の詩人というわけではない)、彼女らの作品はルネサンスの主流的テーマや形式に沿ってはいなかったこと、そして、ルネサンスそのものがもともと男性中心の運動としてあったこと、女性詩人たちはこれら男性と近しくつきあってはいなかったことなどにあるのではないかと、「ホイートリーからウォーカーにいたる黒人女性詩人たち」(『堅固な黒い橋』)の中でグロリア・T・ハルは推測している。
前掲のハルのエッセイにはジョージア・ジョンソンの詩の一部が引用してあるが、それは『ある女のこころ』(一九一八)という本に収められた作品だということだ。ある女のこころは「暁とともに去る」鳥に似ているという表現があって――

  ……
  暁とともに去りはするのだが
  夜には立ち帰り
  そして苦しみのあまり
  見も知らぬ籠に入っては
  星たちのことをかつて夢みたことも
  忘れてしまおうとして
  籠の格子に砕け
  砕け砕ける

と終わっている。これは本巻に収められたポーレット・チルドレス・ホワイトの「鳥籠」を、そして表題の『真夜中の鳥たち』を連想させる。
 ルネサンスから一九四五年までの時期に最も重要な詩作をしたのはマーガレット・ウォーカーだった。彼女の詩集『わが民のため』が一九四二年、「エール大学若年詩人選」の四十一巻として現れた。当時彼女は二十七歳で、ノースカロライナのリヴィングストン・カレッジで英文学を教えていた。詩集は三部から成っていて、第一部は詩人とその民、詩人と故郷の南部の結びつきについてうたったものだった。二部はさまざまな伝説の黒人をバラード風にうたっていた。最後の部分はソネット風の形式で、自伝的な作品が主軸になっている。表題詩は次のようなものだった。

  繰り返しては奴隷のうたを
  挽歌と民謡と
  ブルースとジュビリーをうたい
  夜ごと未詳の神に、いのりをいのり
  見えざる力につつましく膝を屈する
  あらゆる土地のわが民のため

また「血すじ」という詩――

  わたしたちの祖母たちは記憶に
  あふれ
  石けんとたまねぎと
  濡れた粘土のにおいがする
  すばやく動く手には
  でこぼこに血管が走っているが
  彼女らは多くの高潔な言葉を口にすることができる

 マーガレット・ウォーカーの詩は当時の社会的意識と黒人に対する隔離主義撤廃を叫ぶ戦闘的な動きに詩的表現を与えたものだった。形式からいっても、ルネサンス時代のものと違っていた。(『わが民のため』は自由詩の手法と、聖書と黒人牧師の説教の構造を使って、ルネサンス時代には見られなかった力を持っていたと、ハルは書いている。)
 一九四五年には、『ブロンズヴィルの街路』でグエンドリン・ブルックスが登場し、一九五〇年には『アニー・アレン』で彼女は黒人最初のピュリツァー賞受賞者となった。五〇年代、六〇年代にはマーガレット・ダナー、ナオミ・マジェット、グロリア・オーデンなどが現れた。とりわけ六〇年代は第二のルネサンスともいうべき時代で、二十八年間も詩を発表していなかったマーガレット・ウォーカーも詩集を二巻刊行したし、さまざまな変化と転換をくぐって、ブルックスもすぐれた仕事ぶりを見せた。新たに登場した詩人の中でも、オードリ・ロード、ソニア・サンチェズ、ルシール・クリフトン、ニッキ・ジョヴァンニ、マリ・エヴァンス、ジューン・ジョーダン、アリス・ウォーカー、シャーリー・ウィリアムズ、コリーン・マケルロイ、ケイ・リンゼー、ヌトザケ・シャンゲ、メイ・ミラーなど、めざましい活躍を見せてきた。アンソロジーに詩人の作品を加えるなら、邦訳のある詩人も含めて、彼女らの作品が入ることになっただろう。いつかなんらかの機会に試みてみたいと願っているが、とりあえずここではメイ・ミラーの作品の一つを紹介しておこう。


   叫び

  わたしは抑制のきいた女である
  おぼえていてほしい――わたしは決して叫び声などあげはしないことを
  でもわたしは身ひとつ分だけ離れて
  もうひとりの狂乱の自分を眺めているのだ
  言葉に打ちのめされて 傷は沈黙の中に凄絶な叫び声をあげる――
  風がひろいあげ
  あらゆる理性の究極の縁辺の向こうへ
  夜の格子ごしに投げた叫び声だ

  そこでは海の最終のざわめきさえかすか
  鴎の啼き声にも音がない
  そこでは都市の声音も消えて
  感傷的な睡りの中に静まっている
  沈黙がその意匠であるそこでは
  わたしの叫び声は 拒まれた亡霊となり うろついて
  くちびるの形をほしがっていた


『真夜中の鳥たち』 朝日新聞社 1982年9月30日発行




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