『カラワン楽団の冒険 生きるための歌』 ウィラサク・スントンシー 荘司和子訳

目次    


カラワン 序詞


日本のみなさんへ
 スラチャイ・ジャンティマトン

第一部 回想のカラワン
  ウィラサク・スントンシー


 1 カラワンの誕生

 2 クーデター

 3 「森」の生活

 
4 ラオスから中国へ


第二部

 5 モンコン・ウトックの話

 6 楽団はよみがえる
    八巻美恵

 7 カラワン歌集


訳者あとがき

4 ラオスから中国ヘ

メコン河をわたってラオスヘ

 ぼくらの乗ったサンパンがメコン河を渡って対岸に着くと、迎えにきていたラオス兵が乗りこんで船尾にモーターをとりつけ、月明りの中メコンの流れにそって再び走り出した。夜明け近くなって舟はメコンの支流のひとつに入ってさらに一時間ほど進んだところで、CPT(タイ共産党)の最初の中継拠点に到着したのだった。空気が寒いほど冷たかった。岸に上がるとこの拠点の責任者がぼくらを出迎え、食事を用意してくれた。ここの党員はほとんど老人ばかりで、一人だけいた青年は精神障害で治療に送られてきたところだった。この男は武器狂いとでも呼ぶべきか、一人で三丁の銃を下げ腰まわりには手榴弾とマガジン〔弾入れ〕をぐるりとまいていた。夜も白みかけるころようやくぼくらは横になることができた。ここでぼくらは前線の様子と後方の話とを交換しあった。
 ここに二、三日泊まった後、ぼくらは二そうの舟に分乗して再びメコン河を下った。行先きはヴィエンチャンだった(ただしその時は行先きを知らされてはいなかったが)。全員赤い星の帽子を脱いで、つばが黒いラオス軍の帽子をかぶった。途中ぼくらが一度酒を買いに来たことのある村を通過した。このあたりの住民の生活はどうみても豊かとはいえなかった。飲み水もメコン河の水を飲んでいた。メコン河はところどころ岩がたくさんあり、岸には近くの住民が植えた野菜の緑が目に鮮やかだった。丸一日ほどかかってぼくらは待ち合わせの場所に到着した。そこからは軍のジープでヴィエンチャンまで行くのだった。その間話すこと、とりわけタイ語で話すことは禁じられた。ヴィエンチャンは首都と呼ぶにはふさわしくないほど小さな街で、すいた道路を車は楽々と走りぬけ、間もなく宿泊施設に到着した。ここはもと西洋人の家で、高い塀でかこまれた広い芝生のある二階建ての立派な家だった。ラオス政府はここをCPTから来る人びとの宿泊所に提供してくれていた。とくにタイの北部や東北部から来る者はここを通過することになっていた。したがってCPTは秘密を守ることにとくに敏感で、どこから来てどこに行くか決して話し合わせなかった。ぼくらがここで会ったのはウェーン・トージラカーン〔十・一四学生革命の指導者。医者でCPT活動家〕で、ぼくらとひとつ屋根の下に泊まっていた。ぼくらの部屋は大きな部屋で、病院の大部屋のようにベッドがずらっと並んでいた。ここでの食事は一日二食で、朝食が午前十一時、夕食が午後五時、朝食は水牛の肉入りスープ、珍しい味だった。ここにいる間ぼくらは何もすることがなくて食べて寝ているだけだったが、医師ウェーン先生が北部の解放区の様子を聞かせてくれた。その少し前に「タイ人民の声」で放送されたチョンテイラー・サタヤワタナ〔元チュラロンコン大学の若手女性講師。十・六以後「森」に入る〕のエッセイ「ジャングルから都市へ」の中で描かれた解放区のすばらしさとほとんど変わらないものだった。CPTの創立記念日十二月一日が近づくと新曲の放送が多くなり、ぼくらはこの曲は誰がうたっているかをあてあったりしていた。ここに泊まっているのもあきてきたころ、ラオス兵が二、三本の映画を持ってきて見せてくれた。ソ連、ベトナム、ラオスの映画で、この家の中で映写するのだった。
 定期便が迎えにくるまでに、ラオス兵に頼んで買ってきてもらった酒は、一ケース全部カラワンだけで飲み尽してしまった。それまでにぼくはかくれて街に二回出かけていた。一回目はポンテープと、二回目はトングラーンといっしょで、ラオス兵の制服を着て行った。一年以上も山歩きに慣れた足で平地を歩いたので、足が痛んだ。
 市場に出回っている商品のほとんどはタイ製品で、中国製のものは少なかった。ぼくらはイサーン語で話したので、店のおばさん連にいつも怪訝な顔をされた。市場を歩いていたラオス兵にはほとんど気づかれなかったが。一度ポンテープといっしょに馬鹿な真似をしてしまった。サムローに乗ったのだ。ここでは兵士はサムローに乗ることが禁じられていたのだった。捕まっていたら困ったことになるところだった。
 ぼくらはCPTの調達局を通じて、一〇〇ギップ一バーツのレートでギップを手にしていた。公式なレートは三バーツだったが。安かったのは酒で、一びん四、五バーツだった。CPTはラオス兵と政治問題で意見を交換することをかたく禁じていた。とくにソ連に関することはそうだった。ラオスの外交担当者はぼくらの着ている物がぼろぼろになっているのを見て、一人二着ずつ支給してくれた。タウカムバーンというその人は、ぼくらが出発する前には食事を用意してもてなしてくれたこともある。ぼくらもそれに応えてぼくらの演奏を聴いてもらったのだった。
 今度は特別機(極秘の)で出発した。目的地はチャイヤブリー〔ヴィエンチャンの西北の地区〕。非常に古い飛行機だった。人の話では時には水牛や豚や鶏も乗せて運ぶことがあるという。この時は後の扉がなかったので風がビュンビュン入ってきて涼しくて気持がよかった。ぼくはトングラーンと前の方の座席に坐っていたのだが、彼はテクノロジー・アレルギーで、ぼくが翼の部分に穴があって油がポタポタたれているのを指さすとたちどころに気を失ってしまったのだ。水田かと見まちがうような飛行場が見えてきた時も、彼はしっかりと目を閉じていた。
 チャイヤブリーにはジープが迎えにきていて、そこから約四、五時間走って「拠点第三番」というCPTの大きな中継拠点に着いた。ここはいわゆる眼がねをかけたインテリでいっぱいだった。その一人にチョンティラー・サタヤワタナがいた。彼女はスラチャイと比較的よく知り合っている様子だった。ここでぼくらは先にきていた他の「生きるための歌」の楽団の者たち何人かと出会った。
 ぼくらを出迎えたCPTの代表者は年輩の背の高い大がらの男で、昔の哲学者のような長いあごひげをはやしていた。彼はニン同志といったが、聞くところではチャーン・グラットナイプラといって、CPTの理論家だということである。いつもパイプを持ち歩いていた。
 ぼくらは下部組織すなわち芸術隊と起居をともにすることになった。場所は基地建物の後の方にあった。ここでぼくらは、戦闘態勢の生活から平時の生活に移り、ひとつの小屋の中でいっしょに寝起きするようになる。ベッドは竹製の長いベンチのようなもので、一人が起き上がると全員が揺れることになるのだった。スラチャイとポンテープは家族持ちだったのでそれぞれの小屋を持てることになり、ぼく、モンコン、トングラーンは、間もなくふたたび木の下にハンモックをつって寝ることになる。ここでは毎日、交替で夜警をするので、銃のないぼくらは借りて持たねばならなかった。
 ここでは党がぼくらに十キロの刻みタバコを買いととのえてくれた。イサーンにいた時も、調達局は、ぼくらがタバコをきらさないように念を押されていた。
 前期の「芸術隊」は最近解放軍中隊から引きあげてきたところだった。この芸術隊は五年以上も前に解散になっていた。メンバーは女性の方が多くて、彼らは歌や楽器を弾くのではなくて踊り手だった。だいたいは中国で習ってくるのだ。ここでは芸術隊は「後方部隊」と呼ばれ、食事は一日三食、休日は二日とれた。
 彼らはぼくらにも公演するように指示した。たきぎが不足していてキャンプ・ファイアーをすることができないばかりか、米を炊くコンロにも籾殻を使うような有様だったから、演奏する際はランプを使用していた。芸術隊の楽団がまず最初だ。糊のきいたパリパリにつっぱったような服装で、直立不動で、非常に几帳面に演奏した。バイオリンを一応弾きこなし、一番音楽家らしく見えたのは楽団のリーダーだけだった。彼らの楽器はバイオリンの他に中国の笛、キム、ソー、アコーディオンそれに元ガンマチョン楽団メンバーの弾くギターが二つである。皆、楽譜をたてて楽譜の通り弾くのだ。ぼくらが登場するとどっと笑い声が上がった。ぼくらは誰ひとりまっすぐ立っていない。前線での習慣が身についてしまったのか。ポンテープは司会にタレントぶりを発揮し、この拠点のスター的名司会者チャチャワン・プラトゥムウィット〔元学生運動指導者。反独裁戦線活動家〕を寄り切ったかっこうだった。
 おもしろいことがあった。トングラーンがヴィオラをみつけてきたのだが、バイオリンだと思いこんでいたのでどの曲をいくら弾いても曲にならないのだ。気がついたことは、ここにきていた学生や知識人のほとんどが前線にいたことがないということで、せいぜいが「政治・軍事学校」にいたことがある程度だったことである。彼らの知っている前線とは、学習を通じて知らされることか、いたことのある者から聞いたことだった。
 ある晩ぼくらカラワンの紹介があり、スラチャイが立って今までのことを語った。いい話だった。都会の生活を一度も見たことのない女性の同志の中のある者たちは、恥しいものでも見るように、話し手を横目で見やった。チョンティラー・サタヤワタナは中でもぼくらにもっとも興味を持ったらしく、それから後何日間かやってきてはいろいろ問いただしていった。
 ここでの日課は菜園作りと演奏練習で、練習量の多い者は野菜作りの方はあまりできなかった。こやしには人糞を用いた。ある日チャチャワン・プラトゥムウィットが掲示板に、片方の手で肥桶を乗せた手押し車を押し、もう片方の手で鼻をつまんでいる子供の漫画を描いたところ、これは勤労する者のとるべき見方ではないと子供たちから批判をあびた。一方スラチャイは掲示板に、メコン下りをうたった詩を発表した。
 約一週間、ぼくらはここで働いたり休養をとったりしたところで、北部のルーイ、ぺッチャブン、ピッツァヌローク三県にまたがる解放区から活動家がやって来て、ぼくらに歌の吹きこみを依頼した。前に作った歌がまだ完成の域に達していなかったので、放送はしないという条件つきで、吹きこみに応じた。この時吹きこんだ歌のひとつに「スタムと仲間たち」〔十・六クーデターで逮捕された、NSCT書記長スタム・セーンプラトゥムと十八人の学生運動指導者〕がある。これもスラチャイの歌だ。彼はスタムをよく知っていて、イサーンに旅立つ時、起こりうる暗殺や逮捕といった事態を予期して二人は別れたのだろう。この歌の時スラチャイは、「芸術隊」のリーダーのバイオリン弾きをさそったが、彼は楽譜でしか演奏したことがないので、ぼくらのようなやり方でできるかきいたうえでのことだ。実際に演奏してみると彼もうまくやることができた。とはいえ後で採譜することはおこたらないのだった。
 この拠点には学生、知識人たちの他にも、中国で生まれ育った党活動家の子供たちの一団がいた。
 十日ほどたったころか、ぼくら〔カラワンを含めた芸術隊と理論研究隊〕はふたたび電光石火式の移動の指令を受けた。朝五時に出発せよというのだ。それでもなお周囲に知られてしまった。彼らはいつも何事も極秘裡にしたがる。それで今回も行先がどこか分らなかった。それぞれにあれこれ憶測をめぐらしていただけだ。通ったところは高い山ばかりだったが、幸い自動車だった。街に近づいてはじめて、そこがルアンプラバンであることを知った。ちょうど新年で、ぼくらはホテルに宿泊した。外出が禁じられたので、トランプと読書でひまをつぶすことになった。二日ほどでまた出発。比較的大きな舟に乗せられて、メコン河を二、三日かかってさかのぼり、パクベンというCPTのもうひとつの中継拠点に到着する。ラオス国内での輸送は、タイ国内と比べて、少なくとも五、六倍の時間がかかる。ほとんどが森林と山岳地帯なので、水上輸送が主な交通手段だからである。

統一戦線拠点A三〇

 最後に到着したところは、統一戦線拠点A三〇へと通じる道と本道との分岐点で、そこでぼくらは森を伐り拓くことになった。はじめぼくらがここに着いたことは極秘で、拠点の人びととは没交渉だった。ようやく森を平らにしていざ住もうという段になると、とても住めないことが判明した。雨期になると水に囲まれてしまうことが分ったからだ。それでまた道路ぞいの土地に引越しをする。はじめのうちは土の上に寝た。冬期〔=乾期〕だったのでまだましだった。このあたりには医療隊、少年学校、教宣隊、統一戦線などいろいろな党の活動絹織の拠点があった。なかでも「統一戦線」はもっとも極秘にされていた組織だ。森を伐り拓いて拠点作りをしている間、ぼくらは少年学校の野菜を分けてもらっていた。女たちは畑作り、男たちは木の伐採をする。楽器はとりあえず他の拠点に預け、物置小屋ができてからまたとりに行った。CPTの指導者の一人、ソムおじさんことウドム・シースワンがここを訪ねたのは、ちょうどこんなころのことである。ベトナム―カンボジア問題とそれについての党の対応について彼にたずねる者が多かった。
 ここでの拠点作りは、大変きつい作業だった。山へ登って、斧やのこぎりで樹をたくさん伐り倒してかついでくるのだ。樹が伐れても蔓がからまっていて倒れないことがあって芸術隊の新しいメンバー、ヒンパーが小銃でその蔓を撃つのだが一向に当らないのだった。女性用宿舎、厨房棟、食堂ができあがったところで樹を使い果してしまったので、それから後は軍用トラックで遠くまで行って伐ってくるようになった。建築作業が一段落するまでに三カ月を要した。
 医療棟前の空地でときどき映画を見せた。ほとんど中国の映画だ。この拠点は後方に残っているインテリたちのたまり場の感を呈していた。ジラナン・ピットプリチャー〔女性詩人。元学生運動活動家〕と出会ったのもここへ来てからだ。ぼくは後からやってくる子連れの婦人隊を迎えに行った帰路、パクベンでナーイピー〔ジット・プミサクなどに影響を与えた詩人〕と出会った。はじめて話をした時に、この人がアッサニー・ポンラジャンであることをほぼ確信した。ぼくがかつて出会ったことのある誰よりも、ひときわ芸術や文学に強い関心をいだいている人と見受けられた。拠点に帰りつくや、ぼく以外の連中はウィサー・カンタップ〔カラワンのメンバーの親友で小説家〕に会ったということを知らされた。ひそかに訪ねてきたらしかった。というのは、党はぼくらがお互いに往き来したり、会ったりするのを好んでいなかったからである。ぼくは残念ながら会えなかったかわりに、ウドン・トンノイ〔NSCTの組織者の一人。元タイ社会党国会議員〕から英訳の毛沢東詩選が託されてきていた。
「国際婦人デー」の催しがあったのもこのころのことだ。スラチャイは「母の憤り」という歌を作り、同じ時期、トングラーンは「前線から」を作ってテープに吹きこみ、「人民の声」(VPT)に送った。スラチャイは自分の書いたシナリオの演出もやった。芸術隊の各班から登場人物を出させるものだった。この時期はいっしょに演奏をするような機会はなかった。この劇では、ぼくの役割はマイクを竹竿の端にゆわえつけて舞台の前でそれを持って立っているのだ。スラチャイは都市での新しい手法を試みたのだが、見ている人たちには分ってもらえなかった。彼らは照明をつけたり消したりして効果を出すようなやり方には慣れていなかったのである。とはいえスポットライトがあったわけではなく、ただのランプにすぎなかったのだが。もうひとつの手法というのは、クライマックスの場面で演出家スラチャイが、「ストップ、もう一回」と言うと、出演者がその場面をくりかえすのである。他にも売春宿の場や、殴り合いをするところがあり、子供たちがすぐ真似をするということで、ひどく批判された。ここに来た初期のころはまだ各楽団が合同して演奏することはなかった。歌によってはメンバーを貸し合った。ラム・ウォンの時はとくにそれが必要で、ぼく、トングラーンそれにガンマチョンのジンとティーが、いくつもの楽団をかけもち演奏したりした。
 この拠点の主要な食糧は、豚肉のかんづめで、それを野菜といためたりスープに入れたりする。もっともひんぱんに採って食べた山菜はパク・グートだったが、イサーンから来た連中はこれが嫌いで、こっそり魚をとって来ては食べていたものだ。ある時トングラーンが食堂で、「豚肉のかんづめはうまい」と声高に言うのだ。これは誰かに言わされているのではないかと、不審に思ったので、いろいろ詮索してみるとやはり、このころ民青支部がこのような動きをしていたことが分ったのである。
 新しい分隊が決まった。ぼくとスラチャイがまたいっしょになった。ただし日々の生活ではほとんどいっしょにはならなかった。彼はポンテープと同様家族持ちなので、一戸建ての小屋に入り、ぼくは少年兵たちと同じ棟で寝ていた。スラチャイはほとんど一人でもの思いにふけっていて、誰も近づきがたい雰囲気だった。時には歌を作ったり、なにか書きものをしていた。ぼくには前線へ行きたいと、よくもらしていた。ぼく自身は本を読んだり、若い人たちと夜遅くまでしゃべって時間を費やすことが多かった。それで朝はたいてい寝坊だ。ぼくの分隊では少なくとも四、五人が朝の体操に出なかった。
 ぼくら五人の生き方も次第にばらばらになっていく。練習の時もスラチャイはめったに顔を出さなかった。このころになるとどの楽団も、楽団の体をなさなくなり、誰かが歌を作ると彼が気に入った人にうたわせたり弾かせたりしていた。スラチャイは歌ができるとぼくらに演奏してくれと頼んできたが、誰も行かなかった。「芸術隊」の中にはイサーンから来たモン族の同志もいた。農民出身者は非常に少なく、九〇パーセントは知識人と呼ばれるような人びとばかりだ。したがってグループができがちだった。モンコンはいっしょに畑作りをしていた女性の同志と親しくしていた。それだけではなく、彼は誰とでもうまくやっていけるのだ。トングラーンとポンテープは、ほとんど彼らの班や隊のことに没頭していた。公式の表現でいわゆる「政治的生活」というやつだ。彼らはイサーンから来た同志たちとも親しかった。
 ここの規律では、拠点間の人の往来に厳しい制限が加えられていた。インテリたちにとっては自然に逆うおきてである。なぜなら自由な魂はお互いに惹きつけあい、羽をつけて飛んで行くからである。したがって精神的な交流は随時あった。それとぼくらのいた拠点が、渓流のそばの別の拠点への通り道にあたっていたため、毎日夕方には誰かしらがここに立ち寄っていった。セクサン・プラスートグン〔元学生運動指導者で著述家、ジラナンの夫〕とジラナン・ピットプリチャーも何度かぼくらと話していったものだ。彼らは、ここにいるとまるで大学にいるようだ、と語っていた。
 CPTは党の支配下の社会を「新しい社会」と呼び、中央政府支配下の社会を「旧社会」とか資本主義社会と呼び慣わしていたが、たとえばぼくらの歌は、中国で教育を受けてきた同志たちによれば、「西洋の歌」だとか旧社会のスタイルだ、と批判される。一方彼らがVPT(人民の声)のマーチをかけると、今度はぼくらが「グェー……まるで中国の歌じゃない!」とケチをつける番だ。とくに年輩の女性の同志たちは中国語で会話をしていた(居住棟で)。中国語を解さない側には、自分たちの悪口でも言われているような気分にもなる。そこでフランス語を使ってやりかえす。今度は相手方が「何て言ったの?」とききかえす。というようなことも起こったが、特にいさかいになったわけではない。それ以降皆、言動を慎しむことにしたが。
 ある時「芸術隊」の中だけでの演奏会をしたことがある。あまり儀式ばらない普通の催しとして開いたものだ。拠点前の空地を、王宮前広場かタマサート大学講堂に見たてて、当時の雰囲気を思い出しながら、各楽団がそれぞれの以前のオリジナル・ソングをうたったのだ。CPTの「旧芸術隊」も参加した。かつてのメンバー五人が全員そろっていたのは「カラワン」くらいなもので、他の楽団はどこも誰かしらが欠けていた。ぼくらは「人と水牛」、「コメのうた」、「プロレタリアート」などをうたい、元演劇部の学生たちは、「ガラケート」、「おうむ」などの舞踊を見せた。旧芸術隊のだしものはほとんどが「ナン河」のような中国式の舞踊だ。他にモン族、ラワ族のような少数民族も出演した。彼らはタイ語がうまく話せないばかりか、聞く方もおぼつかない人たちである。民族的偏見を持たない観客にとっては、彼らの民族舞踊は大変興味深いものだった。
 ここに来た当初は、まだ公式にひとつの楽団としてまとまっていたわけではなかった。記憶が正しければ、一九七八年のソンクラーン祭の時だった。その日は慣習に従って水かけや行列があった。頭から水をかけもした。夕方ルアンナムター管区のラオス兵が、彼らの芸術隊を伴って祭りに加わったのだが、この日はじめてぼくらは合同で演奏した。ただしまだ小さな楽団としてだった。新しく加わった楽器はチェロとヴィオラで、トングラーンがチェロを弾いた。メンバーはしばしば入れ替わり、まだ小楽団の域を出なかった。
 五月一日にはメーデーの催しがあった。セクサン・プラスートグンがシナリオを書いたのだが、題名は覚えていない。この芝居のテーマ曲の題名が「太陽はいずこに」だったことだけ記憶している。スラチャイが「第二〇隊拠点」に行ってこれを演出し、ぼくと他の芸術隊員何人かが出演した。この芝居も今までの例にたがわず、批判の対象となった。プロレタリア階級のふれてはならない面にふれているということなのである(毛沢東および党の見方によれば)。スラチャイが主役を演じ、ぼくは性急で礼儀をわきまえず、言葉使いも粗野な労働者の役だった。この芝居で著者は、現実に社会で起こっている問題をとりあげ、観客に一考を促したわけだが、解放区で広く演じられている演劇、すなわちヒーローが苛酷な搾取と弾圧を受けて、ついに銃をとって森に入り共産党に合流する、という内容とは違っていたわけである。
 休日はめいめい好きなように過ごした。トングラーン、モンコンそれにぼくは渓流での魚獲りに興じていた。ゴム地の布で水をせきとめるのである。流れが二股になったところで一方をせきとめ、水がもう一方へのみ流れるようにしておき、水がなくなったところを手でつかまえるのだが、実に楽しい。スラチャイは鳥を撃つ方が好きだったが、時に魚も撃った。人生哲学というのは人さまざまだが、スラチャイはよくこう言っていた。自分の人生は自分のものだ、自分はそれに価する生き方をするのだ、と。けれどもまたある者は、自分の人生は党のもので、党がやらせることはどんなことでもするのだ、と言う。
 ぼくらの周囲の拠点には、年輩の古くからの活動家が何人もいた。ぼくらが知り合ったのはナーイピーとかつての政治家パン・ゲウマートだった。タイの舞踊や歌を見たり聴いたりすることを、ことのほか喜んでいた。ナーイピーの妻、ロムおばさんは言ったものだ、「ずいぶん長いこと森にいて、こんなにタイらしいものを見たのは今度がはじめてだよ」。ナーイピーとパンおじは地方の民謡と、即興詩を吟じるのが好きで、芸術隊の拠点を閉鎖する際の宴会で皆が酔った時は、若い者と年寄り連との間で即興詩のやりとりをして見事だった。その夜は弾き手のほとんどが酔いつぶれて舞台に立てず、立っていられたのは酒豪か飲まなかった者だけだったはずである。
 学校が開校する前のことだったと思う、ニン同志別名プラチャーサティまたはチャーン・グラットナイプラの書いた「プロレタリアート階級の芸術家」という一文が告示板に掲示されたことがあった。内容というのは、芸術家や知識人に、プロレタリアート階級の芸術家となるべく自己変革を促すものである。これは党がわれわれの進むべき道を規定してきたものだろう。ナーイピーも同じような一文を発表したが、毛沢東思想から一歩も出るものではない。
 学校が始まるとぼくらは楽譜と新しい楽器を習いはじめた。トングラーンはチェロ、ぼくとモンコンはソー(中国の胡弓)、ポンテープは今まで通りクルイ、スラチャイもギターだった。ぼくらはほとんど新しい歌を作れずにいたが、スラチャイは相変わらず常に歌を生み出していた。音楽理論は皆で学び合い、教え合うという風だった。けれどもぼく、スラチャイ、モンコンそれにポンテープは、楽譜にはなじめなかった。半日は音楽を習い、あと半日は政治学習だ。教材はまた延安の話で、附録にタイ共産党第一書記ミット・サマーナンの声明がついている。
 このころもっとも議論が沸騰した問題が「美学」論争だ。ある者が、裸体画は芸術でありうるか、という問題提起をしたのだ。喧々囂々の議論になったが、結論は出なかった。カムペット同志によれば、十・一四以降生まれた「生きるための歌」などの芸術は、プチブル階級の運動であって、革命の主体にとっては統一戦線の一翼にすぎない、という。この問題でも議論が白熱化した。美学論争もまだ続いていた折から、ぼくらは空地に集まって膝をつき合わせて語り合った。ぼくはナーイピーをさそった。けれどもついに誰も結論を導き出すことはできなかった。
 ある日ぼくらは空地に腰をおろしてロックを聴きながら、曲につれて身体を揺すっていた。そこへニン同志が通りがかり、ぼくらの輪に入るとこうきくのだ。なぜこのての音楽が好きなのか。ぼくらが、現代音楽を勉強しているのだと答えたところ、彼は、こんなものが芸術なのかとまたきく。彼によれば、一九五七年ころある進歩派の新聞が、社会主義国といわれているソ連の写真だからという理由で、ヌード写真を載せたのだそうだ。これを載せた人は徹底的に粉砕されたのだという。
 翌日ニン同志がまた現われて「美学」問題について講演した。彼の話では、モダン・アートは才能を堕落させるものなのだ。この日聴きに集まったなかには、セクサン・プラスートグン、ジラナン・ピットプリチャー、チョンティラー・サタヤワタナ、チャチャワン・プラトゥムウィットなどもまじっていた。チャーン・グラットナイプラすなわちニン同志は、抽象絵画、ロック音楽、ジャズなどは、腐敗した資本主義の産物で、その頽廃を反映したものであると定義づけた。たとえばロックは肉体をあらわに見せるショーを伴い、性欲をさそい出すものである。それから彼は、その昔「ピットプーム」紙にヌード写真を載せたのは自分であり、社会主義国の作品だからと思ってしたことだったと、自らを批判してみせた。いずれにせよここで言われたような考え方は、党の地下出版物であろうと、他の印刷物であろうと、公式に活字化されたことはない。もしかするともう、政府軍支配地区では出版されているのかもしれないが。なにしろぼくはもう何年もそういうものに目をふれていないから。もし出版されているとしたら、このような「美学」論争について、現代タイの文芸批評家、とくに「読書世界」誌にとっては少なからぬ挑戦となるはずだ。
 この当時ぼくらは、歌を吹きこんで「タイ人民の声」放送に送るという仕事を続けていた。「カラワン」とか「ガンマチョン」というような楽団は、すでに存在していないも同然だった。あるのはただタイ人民解放軍芸術隊だけだったのである。各人の演奏技能はまだ不揃いで、どの歌も演奏者が次々と替わるという風ではあったが、作詞者や作曲者は比較的達者な演奏者と組んで仕事をする傾向にあった。ハーモニカはこのころからほとんど使われなくなってしまった。モン族もあまり参加できなかった。テンポが合わないのだ。モン族の歌にはリズムがない。たとえば、「クーチア・ルータウ・ルーセン」という歌などは、長々しいライ(詠誦式の詩)で、内容は孤児の話か、解放軍入隊の話である。これも「ひとつの節に一〇〇の歌詞」式の歌だ。この当時ぼくらが吹きこんだ歌は、以前作ってあったもので、新しく作った歌は何曲もなかった。あまり新しい歌が生まれなかったのだ。前線にいた時とだいぶ違う。けれども音楽活動はさかんだった。合奏曲ができて、各パートの楽譜が渡され、指揮者が誕生した。曲ごとの楽器もふえた。ただし作曲者が二人しかいなかったので、曲想には変化が乏しかった。吹きこみ用のテープレコーダーは小さいもので二〇〇〇バーツ足らずだったが、CPTの幹部からは高価だと言われた。吹きこみにあたって、歌詞が適当であるか否か審査があった。たとえば、「八月七日に栄光あれ」の場合は、「反動の嵐に抗して」が、「反動の炎に抗して」に変わり、「愛国者よ続け」は、「民主愛国者」になおされた。審査にあたったのは芸術隊から三人ほどと党の幹部から二人だったが、炎は嵐にうちかてないという論争で、結局合意にいたらなかった(抽象論議だ)。
 休日にはときどき映画が見られた。ほとんどが中国映画で、なかには見られるものもあった。けれどもなかにはあまりできすぎていて非現実的なものもある。たとえば「英雄の子」である。見終ってから頭をかかえてしまった。登場する英雄というのが、スーパーマン以上にすごいのだ。たった一人で、韓国軍とアメリカ軍の連隊をやっつけてしまう。さらに呆気にとられたのは、銃撃戦の際稲光が走り稲妻が鳴るという、まるでタイで一冊一バーツで売っているマンガ本の類の演出だ。英雄たちの特徴は、ほとんどが活動家や党員の子供たちだということで、一般人にはチャンスはなさそうである。ぼくと「ガンマチョン」のドラマーとは途中で出てきて、食堂でこの映画の批判を始めた。映画が終りかけるころには、中国で教育を受けてきたピンノイ同志も加わったが、ぼくらとはまったく意見が一致しなかった。話はさらに、中国革命のもう一人の英雄、ジャン・スー・トゥー(張思徳)同志のことに発展した。人一倍少ししか食べずに、人一倍たくさん働くことが可能か、というものである。「ガンマチョン」の友人は、栄養学的アプローチで、一日に人間が必要とする食物の量について述べたうえ、解放軍兵士の場合の例で、労働量の多い者ほど大食漢であることを示そうとした。その夜ぼくらとピンノイ同志は、まるで子供の口論みたいに、お互いに相手を指さしながら激しい応酬をくり返したのだった。
 その後、ルアム・ウォンパン追悼記念日というのを迎えた。サリット・タナラット元帥に処刑された昔の党幹部である。拠点でのすべての活動は一時停止され、この人物の追悼とその人柄、業績について学習する。党はこの人物を他の誰と比較しても、ひときわ重要な扱いをしていた。たとえばジット・プミサクと比べても、である。追悼式典では、チャーン・グラットナイプラが「革命家の栄誉」という演題で講演したが、内容はルアム・ウォンパンの闘争の生涯について述べ、党の周囲に集まっている大衆に、その任務を拡大し、党組織に加わるようにアジッたものだ。
 このころ党内には、雨期入りの雨のような勢いで矛盾と対立がもち上がっていた。まずそれは統一戦線組織、民主愛国勢力調整委員会の中から始まった。タイ社会党の顧問をつとめていたカムシン・シーノークが組織を離れた。そして次第にCPTへの批判が高まっていく。たとえば、独自性のなさ、自律していない体質、中国追従の政策などについてである。それはともかくとして、スラチャイはこのあと、「ルアム・ウォンパン」というタイトルの歌を作った。
 統一戦線拠点A三〇からはじめて公演の招集がかかった。ちょうどタイ社会党設立の日にあたっていた。彼らはそのころこの拠点からの移動を開始していたところだった。何人かの政治家と出会った。CPTはぼくらが彼らと交流することを阻止したがっていたが、かくれて会うことはできたのだ。この時の公演でスラチャイが発表した歌は、彼と息子との別れをうたったものである。汽車の線路づたいに彼が家族を送っていった情景を描いており、別離の感傷が非常によくでていた歌だったが、その時録音しておかなかったためタイトルは覚えていない。
 七月二十日になると、一九七六年の七・二〇の事件を記念した行事が催された。アメリカ帝国主義に抗議するデモ行進と、ハイドパーク集会がバスケットボール用の運動場で行なわれたが、本物とは大分かけはなれたものだった。芝居にしてもそれらしくなかった。夕方には、第二十隊拠点で催しが開かれたが、スラチャイはまた新しい歌を発表した。「森の歌声」というタイトルだった。彼は芝居も演出した。今度も挑発的なもので、ストーリーは、魯迅の「復讐」に近い。ぼくはこれのタイ語訳をまだ読んでいなかったが、"Revenge"という題の英語版は見たことがある。この劇でスラチャイは、ぼくに音楽を受け持つようにすすめたのだが、練習したこともなく、芝居も見ていなかったし、弾く音楽がソーでまだ弾けるような段階ではなかったため、ピエロはやりたくないと、断った。それでモンコンが代わって引き受けたのだった。そのかわり楽器はチェロになった。この芝居の筋を知りたい方は魯迅の「復讐」を読まれるといい。例によってこの芝居も手ひどく批判された。
 この劇を書く前に、スラチャイは何か心に決するところがあったのだろうと思う。「ぼくは牛、水牛のようには党に従わないぞ」と、よく言っていた。その後間もなく彼は、「前線に行かせてほしい」と、党に申し入れた。ナーイピーはよく「スラチャイはむずかしいやつだ。その上、人に理解されるのを拒むようなところがある」と、親しい者たちにこぼしたものだ。けれどもナーイピーもロムおばさんもスラチャイを、自分の子供のようにいとおしみ、心配しているのだった。
 スラチャイは結局出発することになった。ぼくはこのことを喜んだ。なぜなら彼にとって、鬱積していた何かから解放されることになるだろうと、思ったからだ。スラチャイは特定の人間と長いこといっしょにいるということがなかった。時折社交的に見えることがあったが、またある時は人と顔を合わせたがらないのだった。彼とぼくはお互いによく分り合っていたのだが、この
ころぼくは彼にあまり干渉しないことにしていた。彼が考えたいことを考え、やりたいことがやれるように、そっとしておきたかった。とはいえ社会の中にありながら、まったくその社会から自由でいられるだろうか。彼がこの点についてどう考えていたかはさておき、彼のような人間は、「閉鎖社会」に住めないことだけは確かである。
 スラチャイが出発する日、党は彼のために送別の席を設けた。幹部党員たちと同じテーブルに着席しての正式の夕食会である。けれども彼らがこの微笑の仮面の下で何を考えているのか、知る人ぞ知る、である。ジープが出る前に彼は、広場に整列して見送るぼくらのところへ歩いて来て握手で別れを告げた。ぼくの前まで来ると彼はぼくを抱きしめた。その頬には涙が光っていた。ぼくは何もそれらしいことばが言えなかった。ただ心の中で別れを告げていただけだったのである。そしてふと、彼が「ウアイ兄」ことスチャート・サワッシー〔現在「読書世界」編集長〕とともに新聞記者をしていたころ持っていた彼の名刺を思い出したのである。それにはこう印刷してあった――スラチャイ・ジャンティマトン 自由思想の葦。
 それからしばらくして、CPTの指導部の一人の訪問を受けた。彼の名はターン同志、もしくはウィラット・アンカターウォン、またの名を「ジャーンユアン」という。その日に先だって拠点の幹部は一大歓迎行事の準備を進めており、ぼくらにもプログラムの用意を指示した。たった一人の人間のためにぼくらは昼夜をわかたず猛烈な稽古をさせられるのだ。
 その人は分隊規模の護衛兵、顧問団、書記そして侍医を従えてぼくらの拠点に到着した。白髪の人だった。皆坐って彼のスピーチを聴いた。そのうち彼の方がほとんど質問に答えているような具合になってしまった。タイの革命が成功して解放をかちとるまであとどのくらいを要すると思うか、との質問にはこう答えた、「あとどのくらいということは不可能ですね。少なくとも、武装闘争を行なってきたこの年月に、その年月をたしたものになるということでしょう」。彼の話が終ったところで、口の悪いある女性の同志が半ば聞こえるような声で「中国の同志!」〔タイ語の発音が不明瞭だった〕とつぶやいた。
 式の終了後宴会があり(幹部だけの)、その後ターン同志がぼくらカラワンのそばを通りがかったので、拠点の幹部が個人的な紹介をしてくれた。見受けたところ大変生真面目そうな人だった。夕方からは演芸会が始まる。まず開幕の舞がある。これは教員養成大学あたりが総理大臣来訪に際して踊る舞と変わるところがなかった。この行事には周囲の拠点からも参加が許され、その輪の中心にウィラット・アンカターウォンが座を占めている。CPTの活動家たちは誰も、ひときわ恭々しい態度で彼に接していた。
 楽理の初級と政治理論の学習が終了すると、党はぼくらにさらに学習を続けることを指令した。しかしどこでかは例によって知らされず、誰と誰が行くことになっているかだけが知らされた。

中国への旅

 一九七八年の雨期入り後間もなく、ぼくらは出発した。行先は中国である。ラオス国境を越えて夕方にはムアンラーという大変小さな町に着く。そこは党の子供たちを育てている拠点で、中国へ向かう党の人間は誰でも通ることになっている通過地だった。この拠点はかなり閉鎖的で、外の人間は中に入れないし、党の活動家以外の中の人間も、ここから出ることはできない。夜には映画を見せてくれた。図書室で気晴しに本を読んでいると、友人が薄い本を一冊とってぼくの方にやって来た。その本の中で、「毛沢東主席はマルクス主義をさらに発展させました。毛沢東思想はマルクス主義の最高峰といえます」という部分を指さしてぼくに、そんなことはありうるかと言うのである。ぼくは、「ありうるとしたらマルクス主義じゃないだろう。毛沢東主義ってものだろう」と答えた。この本の表紙には「タイ共産党創立二五周年記念声明」とあった。
 二日ほどここに泊まってからまた出発した。今度は目的地、シップソンパンナー〔西双版納。中国雲南省のタイ族自治区〕に向かう。ぼくらが到着すると、党は外務局の宿泊所を提供してくれて、ここの芸術隊をぼくらの教師として派遣してきた。音楽部と舞踊部の両方だ。ぼくらは四人とも(スラチャイが去った後の残り全員)楽器の練習をした。ぼく、モンコン、ポンテープの三人は民族楽器(中国の)、トングラーンのみがヴィオラだった。彼が一番苦労した。というのは左ききだったのが右手で弾く練習をしなければならないからだ。けれども彼の努力は報われたようだった。
 このころの空気は、かなり緊張したものだった。ぼくらの練習は日曜が休みになるだけで毎日一日中続けられた。ある日町の映画館に連れられて行ったが、この町は外人の観光客がずいぶん来ているようだった。ただし彼らにはわれわれとここの土地の人間との区別はつかないのだが。
 この町の舞踊団の公演が、映画館でよく開かれていた。ここは中国におけるタイ族自治区である。彼らが話している言葉や、着ている物は、タイ国内のタイ人のそれと大変近い。ぼくらの話すタイ語が分り、なんとか話が通じるのは、だいたい年寄りだった。
 ここに着いてからは、衣食住には大変恵まれていたとはいえ、自国にいるような心の安らぎがなかった。ぼくにとっては森の中や山の中にいる方がましだった。鬱積した気持を酒によってはらすしかないのだった。前いた拠点の友人たちに手紙を書いたりもした。チョンティラー・サタヤワタナから受けとった返事にはこう書かれていた、「今の貴方はもう自由人ではありません。プロレタリアート階級の隊列の中にいるのです……」。このような考え方をぼくが理解する時はないのではないかと思う。
 シップソンパンナーの人びとは歌や踊りが好きだ。国境のこんな小さな町の楽団とはいえ、この町の舞踊団の楽団の演奏技術や曲の調べは、ぼくらの国ではなかなか聴けないほどのものである。ギターはここでは大変珍しい楽器で、町中をさがしても、まず一台も見つからなかっただろう。彼らはギターに非常に興味をしめしたが、ぼくらも洋楽やクラシックはろくに弾けないのだった。バイオリンを教えてくれていた先生の一人は、ぼくらがしばしば弾いていたサイモンとガーファンクルの「ボクサー」がとても気に入って、譜と訳詞を書きとり、バイオリンでこの曲を弾いたりうたったりしていたものだ。クラシック曲のテープは、年輩の楽団員がコピーしていったこともある。
 ある時トランペットの練習をしていた者が体力的に吹き続けられなくなり、モンコンがその分もひき受けることになった。後半に入ると授業のある日は外出禁止になる。さぼって遊びに出かける者がいたからだ。ただし休日はそれまでどおり外出が許された。
 一九七八年も終りに近づき、ぼくらの学習も修了間近かというころ、ベトナムの指導者ファン・バン・ドンがタイを訪れ、「CPTへの支援停止」を正式に通告した。一方クリアンサク政府は「バンコク・一八」裁判の被告〔十・六クーデターで逮捕されたスタムと十八人の学生運動指導者〕への恩赦を発表すると同時に、「森」へ入った学生、知識人に帰ってくるよう呼びかけていた。ベトナムのカンボジア侵攻が開始された。党幹部がここを訪れ、修了を待たずにここを引きあげねばならなくなるかもしれないと語った。ぼくらは飛行機で省都(昆明)に飛び、一週間余りそこで過した後、急いで基地〔ラオス内の統一戦線拠点A三〇〕に帰って来た。七八年暮のことだった。

タイに帰る

 ぼくらは酒を何ケースも持ち帰った。皆それぞれに子供や友人に手土産を買って来ていた。戻って来てすぐ幹部に、学習の成果を演じて見せることになった。モンコンは歌を二曲作った。「新年をことほぐ」と「新年のスン〔祝歌〕」である。後の曲ではスンの踊りも披露された。この発表会でのぼくらの演しものは、ここのインテリ仲間たちには不評だった。同じスタイルで、動きが不自然だし美しくない、ということだった。
 残された時間にぼくらは急いで、まだ吹きこんでいない歌の録音をすませた。タイへ帰ることが決まったからだ。暇があればひどく酔うほど飲んだ。それで朝は司令部の呼子の音で目醒める者がほとんどいなかった。朝はランニングがあるが、面白い奴がいて、空気枕をふくらませてバーロー(背のう)につめ込んで行くのだ。ばれると皆で笑いころげる。昼間は手榴弾を投げる練習や銃尻の剣でつく稽古をする。とり急ぎ解放することになったのだろうかと、疑問を感じる者も出てきた。
 いよいよここでの滞在も残り少なくなったころ、新しく設置された医療隊拠点で公演した。ラオスの地方楽団との競演だった。この時は飲酒ががたく禁じられたが、「公演中」は飲まないのだからという言い逃れで、飲んでいる者もいた。最後の公演は統一戦線拠点でのものだった。この時はまだ、統一戦線に残っている人たちが多かった。当時内部で路線について激しい対立が起きていたことを、ぼくはまだ知らなかった。
 一九七九年二月の初め、トングラーン・タナー、ポンテープ・グラドンチャムナンそれに芸術隊の大半は、ナン県内の根拠地へ移動の指令を受けて、統一戦線拠点を出発していった。ちょうどスラチャイが前線から送ってきた「吸える植物」〔大麻〕が届いたところだった。ぼくとモンコンは寂しくなった。彼はぼくよりもっと孤独をかみしめていただろう。後発隊と決まっていたから。
 ぼくは一人、ギターでビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド」を弾いていたものだ。周囲のどの拠点も、後発隊として残された老人ばかりになっていた。なかでもパン・ゲウマートとソンポン・ユーナロンは、ぼくとモンコンに、タイに帰って死にたいと言っていた。ソンポンおじさんは、ジット・プミサクの旧友だった人で、誇り高きタイ人の感があった。彼は、CPTは独自の政策をもたず、中国から右を向けと言われれば右を向く、と批判的だった。別れる前にソンポンおじさんは、バナナを持ってきてくれて皆で分けて食べた。パンおじさんは半ガロンの酒を、ニン同志は虎の骨入りの滋養酒を二びんくれた。モンコンが作った最後の歌、「党の娘」の録音に、迎えの車のクラクションが鳴る瞬間までかかっていた。そして別れの時がやってきた。必死で振っている手だけがいつまでも目に残った。
 ぼくは一度、芸術隊をやめたい旨申し出たが、認められなかったし、スラチャイに会いに行きたいという要望もかなえられなかった。最後の日、ぼくらのいた拠点にもどってみたが、立木は枯れ、燃やされた本の燃えかすと壊れた米倉が折り重なっているのみだった。ぼくはレーニンの「戦争と平和について」をかばんからとり出し、帰路読むことにする。友人たちはすでに去っていた。いつの日ぼくらはまたあいまみえることになるのだろうか。いつの日この戦いに終止符が打たれるのだろうか。政府軍の勢力がどれほど大きくなろうとも、CPTの勢力をすみやかに平定することはできないし、一方CPTもまた、すみやかに政府を打倒することが可能なほど強力ではない。たたかいはこれからも長く続くことだろう。あとどれだけの人間が傷つき、生命を落とせば、正しいのが誰で、間違っているのは誰か、愛国者が誰で、売国奴は誰か、それともそのどちらでもないのか、ということが証明されるだろうか。これ以上はぼくの胸の中にしまっておきたい。ぼくらを乗せたジープは、はるか遠くへ来てしまっていた……。


晶文社 1983年7月15日発行  





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