『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

八百六十九のいのちのはじまり


 ミシシッピーにはかならず行きたいと思っていたし、ぜひ行きなさいよ、と何人かの友人にいわれてもいた。行くのなら、気候のおだやかな秋にでもと考えたが、あれやこれやでそうもいかず、結局真夏に出かけて行った。七月中旬だった。気温は毎日三十六度を超えて、湿度もおそろしく高い。ガーシュインは『ポギーとベス』のために、「サマー・タイム」を作ったのだったが、

  Summer time and the living is easy,
  Fish are jumping and the cotton is high

 と声を出さずに歌ってみて、高速道路をトヨタで走るわたしは、「棉の畑はどこ?」と隣に坐っていたマギーにたずねた。
「棉はめっきり減ってしまったの。大豆が棉にとってかわって。ほら、あそこも、あそこも、あっちも、全部大豆畑になってしまったの。いま大豆が植わっている畑はだいたいみんな棉畑だった」
 空港で前日に車を借りたとき、そこで働いていた女性が「あなたは日本人?」とたずね、そうだと答えたら、しばらく前に英語のできない日本人の男性が車を借りにきたのだけれど、彼女は日本語ができないし、二人で身振り手振りで大奮闘し、ついにどうにか一台の車の貸し出し契約が成立したと話した。ミシシッピー州のジャクソンで、一人の日本人の男性がほんとうは何をしようとしていたのか見当もつかないが、わたしにはこの男と棉畑にとってかわった大豆畑が直線でつながっているような気がしてならなかった。ひとまず、男は日本から大豆の買付けにきていたのだと勝手にきめてしまった。身振りと手振りで、日本全国のスーパーで売るための豆腐の原料を買付けにきた勇気ある男なのだ。そう考える根拠は無論なかった。
 マギーとわたしはパイニーウッドヘ向かっていた。向かっていることになっていた。というのも、ジャクソンの町を出て十五分も走ると、マギーは「あれえ、なんだかおかしい」といい始めたのだ。「あたしはね、パイニーウッドヘはいつもバスで行くのよ。バスはこんな大きな高速道路を通らず、あちこちに停まりながら、裏道みたいなとこから行くものだから、何だかよくわからなくなっちゃった」という。もしかしたら、間もなく標識が立っていて、いったいどのあたりを走っているのかわかるかもしれないからと、そのまま走り続けてみたが、しばらくしても標識も現れず、そこで路肩側の「緊急停車線」に寄って車を止めて、地図を出して眺めてみたら、ずいぶんと方角違いの道を走っていることがわかった。間違えなかったら、もうパイニーウッドヘ到着している時分だ。パイニーウッドは、ヴァージアという友人の出身地で、そこで彼女の伯母さんたちに会って、ミシシッピーの地方の暮らしについて話をきくことになっていた。ヴァージアとマギーはいとこ同士で、その日はヴァージアの一歳の娘がひどい湿疹に苦しんでいたので、マギーが代わって案内してくれることになった。マギーは四十代の半ばぐらいで、ずいぶん前に夫を交通事故で失い、小さかった五人の子どもをひとりで育ててきた。病院で看護婦の助手をしながら。「わたしは夫が死んだからといって再婚するっていうふうには考えられなかった」という。
 その日は暑かったので靴を履くのはよしたのか、マギーは病院の手術医が手術のときに履く使い棄てのスリッパを履いていた。
「しかたない。戻りましょう」
「いつもはバスで行くから、裏道しか知らないのよ」
「急いで戻れば間に合うと思う」
 車をスタートさせて、再び走り出したところで、
「ほら、この先、あそこでUターンしよう」という。
「まさか」
「Uターンしましょう」
「このハイウェイでUターンしたら、わたしたちは衝突事故で死ぬか、ハイウェイパトロールに逮捕されるかのどちらかよ。わたしはどっちもいやだから、出口があるまでこのまま走るから」
「あたしは運転は全然やらないから、知らなかった。でもUターンできないなんて意味ないわねえ」
 そうこうするうち、次の出口の表示があって、それにはユティカとある。なんですって! ユティカですって! じゃあ、やっぱりユティカヘ行こう!
 その朝は、ユティカヘ行こうということになっていたのだ。もともとは。ところがヴァージアが急に気が向いたりしてフライドチキンを作ってあげるからね、といいだして、フライドチキンを作って食べていたら出発がすっかり遅れ、ユティカはもう無理だ、かわりにパイニーウッドで我慢しなさい、ということになった。
 ところで、ユティカには何百人という赤子を取り上げた産婆さんがいる。その女性に会うべきだ、ということだった。ヴァージアもマギーも、彼女らの兄弟姉妹、いとこたち、皆その産婆さんに取り上げてもらったのだ。
 結局「ユティカ」の表示に従って高速道路を降りて、二車線のいなかの道をしばらく走ってみたら、ユティカに着いた。産婆さんの家はユティカの隣のカーライルなのだが、人びとは大体この二つの場所をまとめてユティカとして扱っている。
 ユティカの「ダウンタウン」とは一本のごく短い町並みのことなのだが、そこまで行くとマギーは「ああ、ここまでくれば、もう全部思い出した」という。「産婆さんの家へ行く途中にあたしの伯母さんの家に寄ってみよう」。その伯母さんは十五人の子どもを産んだひとだった。その家に寄ると、玄関の扉を入ってすぐの居間に大勢の子ともだちがいた。三十を越えている娘もいたので、誰が子どもで、誰が孫なのか、よくわからない。たずねてみたが、次々に出てくるので、よくわからない。写真をとらせてもらった。一枚の写真の中には入りきらないので、三回ぐらいに分けてとった。あとでその三枚をつなげると、よくある連山や山脈の写真のようになるだろう。一枚のフィルムではどうしても収まりきらないので、右から左へ、または左から右へと順次撮影して、あとで数枚のポジをうまくつないで一枚の横長の写真にする方法。「ミシシッピーの横長の一家」と名付けよう。
 十八号線でいよいよ産婆さんの家へ。「着いた」とマギーがいうので車を止めたら、右手に一軒の小さな平家があって、ポーチに出した椅子に腰かけて街道を眺めている女性の姿が見えた。ポーチの下まで行って、彼女を見上げつつマギーとわたしは挨拶した。マギーは「マギーですよ、おぼえてますか?」といった。わたしはヴァージアの知り合いで、あちこちへ出かけて行っては話を聞かせてもらっている者なのだけれど、もし迷惑でなかったら、話を聞かせてください、と頼んだ。青い花模様の色褪せたワンピースを着て、頭をたくさんの蝸牛《かたつむり》がじっと休んでいるように見えるスタイルに結ったリジー・マクルアは驚きもせず、ただ静かな声で「ポーチに上がって椅子に腰かけなさい」といった。
 なぜわたしの話を聞きたいのか、おまえは誰なのか、何をする者か、そのような問を発することもなく、彼女はただちに「どんなことが知りたい?」といっただけだった。
 ポーチに横に一列に並んですわっていた三人の女たち。マギーが右端にいて、リジーが真中で、わたしが左端でテープレコーダーを回していた。「南部の奥地」といわれるミシシッピーの、夏の午後。羽虫の唸り声。蝉の声。目の前の街道を往きかう車のエンジンの音。道をへだてて向こうには、ブリキの撞球場。Tシャツに汗をにじませた男たちが、隣のよろず屋に行ってコーラなどを買っている。何もかも、屋根までもブリキのその娯楽小屋はとても暑いだろう。

リジー「どういうことが知りたいの?」
藤本「いろいろなことが」
「わたしはね、八百六十九人の赤子を取り上げましたよ。生きて生まれてきた赤ん坊たち。死産は二十三人。わたしは一九〇五年の十一月十四日生まれ」
「妊産婦の所へはどうやって行かれましたか」
「馬車や、馬や、トラクターに乗って」
「トラクター?」
「あははは。そう、トラクターで。人びとはやがて乗用車を持つようになったけど、泊まりがけで行くこともあった」
「助産婦としての訓練はどうやって受けたのですか」
「わたしよりずっと年上の助産婦について。その頃は誰でもそうやって年上の助産婦について習いおほえたものだったから、わたしもそうやってまず働いて、それから独り立ちしてね、そう」
「このあたりでの子ども時代はどんなものでした?」
「べつに悪いこともなかった。わたしは学校へも行ったし。『フリー・スクール』へ」
「あなたは有名な『フリー・スクール』へ行って学んだ生徒の一人だったのですか? 遠かったですか?」
「歩いて行ったのね。どのくらいの距離だったか、はっきりはわからないけれど、かなり遠かった。四キロぐらいだと思う。歩くのは大変だった。ほんとに。でも靴を持っていたから運がよかった。父が全部くれて」
「お父さんは土地を持ってましたか?」
「そう。土地を持っていて、小作人も使ってたし」
「どうやってその土地を手に入れたか知ってますか?」
「はじめはその農場を運営していて、そうしながら金をためて買ったの。そう」
「学校は何年間行きましたか」
「七年生になるまで。八年目はとうとう終えられなくてね。八年まで行けたら、そうしたかったけれど。近頃は十二年生になるまで行く子どもたちもずいぶん多い。ほんとに」
「で、どういうわけで」
「助産婦《ドクター》になろうときめたかって? そうねえ、そう、なんというか……したいと思った仕事だった。産婆さんたちの手伝いをしていて……自分でも産婆になろうときめる以前のことよ……そして、なろうと決心して、見習いになったわけ。独り立ちして開業するための許可証をもらうためには『クラブ』へ行くことが必要でね。一年に一度行って、許可証の更新をして」
「毎年更新するというのは、そう簡単なことではないでしょう」
「そう簡単なことじゃないね」
「試験があるとか?」
「検査がいろいろあって。血液検査をやって、身体検査もやって。仕事のための鞄も持って行って、それも検査されることになっていた。何もかも清潔かどうか調べた。そういうこと全部しなければならなかったわけでね。ほんとに」
「独り立ちして開業したのはいつでした?」
「三七年。一九三七年。一九六七年にやめるまで」
「三十年の間、ずいぶん働かれたわけですね。多くの女たちの母親の役目で」
「そう。ずいぶん多くの人たちの母親みたいね。ほんとに誰もかれも取り上げたんだから。マギーの伯母さんだって。その伯母さんの子どもたちもみんな取り上げたし。ヴァージアも。みんな」
「で、今は引退後の生活をゆっくりと楽しんで?」
「引退後の生活を楽しんでるの」
「そして、ここにこうして坐っていると、あなたが取り上げた子どもたちが通るのが見えるのですね」
「そう。そう、仕事は好きだった……」
「白人の赤子を取り上げたこともありますか」
「一人だけね。わたしが開業したころには、もう連中は町の病院でお産をするようになっていたから」
「それにしても、三十年間に八百人の赤ん坊たちとは……」
「八百六十九人。そして死産は二十三人。場合によっては、行ってみて、あ、これは医者に連れて行かなくては駄目だときめることもあってね。そのままじゃ生まれないという場合ね。医者へ行った場合は、わたしの世話した分娩の中には数えていないから」
「近くの病院はどこでした?」
「ジャクソンまで行かなければならなかった」
「乗用車が使われるようになる以前は馬やトラクターでジャクソンまでお産のために行ったのですか」
「そうだった」
「これはわたしの手に負えない、というのはどう判断しましたか」
「陣痛が始まってどのくらいの時間が経ったのか、ということ。陣痛が始まって一定の時間内に産まれなかったら、何か問題があるということだから」
「死産はわずか二十三件ということでしたが、ずいぶん少ないですね。現在でも死産はとても多いのに」
「わたしの場合は二十三件」
「ご自分の子どもは?」
「息子が一人。孫が十人。孫は皆わたしが取り上げましたよ」
「ご自分で産むとき、怖いと思いました?」
「思わなかった。安産だったし」
「経験から、何か逸話などありますか」
「どんな話が聞きたいの?」
「そう、見当もつかないのですが、たとえば、お産のときの父親たちの立ち居振舞いについてとか」
「(軽く笑って)ずいぶんおかしな男たちもいますよ。ほんとに。すっかり怯えてしまう男たち。全然平気な男たち。産室へ入ってこない男たち……」
「よそへ出かけてしまうのですか」
「いや、出かけないでうろうろしてるのね。遠くへ行きたくはないけど、というわけで。すすんで手伝ってくれる男たちもいたしね。そう。恐くて部屋にも入れない連中……」
「もっとも高年の産婦は何歳でした?」
「わたしは十三とか十四歳の少女たちの世話をしたことは一度もなかった。一番の高年は五十二歳だった。十代の女たちの分娩はずいぶん手伝った。でも引退する以前にすでに、初産は助産婦の手でなく産むのがよいとされるようになってね。引退する以前のこと」
「でもまた最近助産婦による分娩が復活してきましたね。一時、人びとは助産婦ではお産は駄目なのだと考えるようになっていたと思いますか」
「そうじゃなかった。人びとは助産婦では駄目だなんて考えたわけじゃなかった。もう引退するといったら、引退しないで仕事を続けてくれといわれてね。お産のために。でも、わたしが、もう歳になったからやめようと考えてね。しょっちゅう夜中に出かけて行く生活はもうきついと思ったから。どんなに寒くたって、生まれるとなればおかまいなしだから。嵐の晩に出かけたこともあった。そう、嵐の晩にも。ひどい天気には、ずいぶん悩まされて。歩いて行ったわけではないけれど。雪の中を出かけたし。それに助産婦はいつも厳しく監視されていてね。わたしの仕事の成績はかなり良いのだけれど――」
「お産には現在でもかなり多くの事故や問題が起こりますね」
「それはね、自然の成り行きにまかせないからですよ。無理しちゃいけない。自然というものの成り行きに従えば、子どもにはちゃんと生まれてくるチャンスがあるわけだもの。無理なことをしちゃいけない。
 以前は医者に家へきてもらうこともできたけれど、それもできないことになった。きてくれない、というようになって。病院へ連れて行ったのでは間に合わない、ただちに医者に駆けつけてもらわなければだめだ、という場合だってあるし、病院へ連れて行く方法がない場合だってあるのにね。もう産婆の仕事はやめようと考えたのには、それが理由の一つでもあったの。それまでに母親を死なせたことは一度だってなかったし、死なせるようなことはしたくなかった」
「三十年間、一度も母親の死亡はなかったのですか」
「八百六十九件の分娩で、母親は一人も死ななかった。死んだ母親は一人もいなかった」
「ほんとにまったく瑕のない記録なのですね。早産は少なかったのですか」
「かなりあったけれど、早産だから病院で産んだほうが安心だと考える母親なら、病院に行くまでは傍についていて、一緒に待ってやったのね。月足らずの赤ん坊を自宅で育てたいというのなら、それでもいいよ、といってやって。そう、未熟児はかなりいたわね。千三百グラムぐらいの子どももいて。そういう子どもたちを家で育てたいといってね、ほんとに。月足らずの子どもをとても上手に育てる母親たちもいた。暖かくしてやること、それがだいじ。ちゃんと暖かくしておけば、自宅でも十分育てられる。このあたりには、立派に育て上げられた月足らずの子どもたちが大勢歩きまわってる。あははは……あははは……」
「妊娠して数カ月もすると、母親たちはあなたのところへ依頼にきたのですか」
「診療所へ行った。診療を受けにね。わたしも時折り診療所に寄ってみるようにしていてね。母親たちの様子を見にね。健康そうかどうか、すべて順調にいっているかどうか。わたしの手で分娩させることができる状態かどうかを見ていた。臨月になると、わたしのところへ依頼にくる習わしになっていた。もし流産したら、わたしはしばらく泊まってやるようにしていたの」
「あなたが開業した頃すでに、診療所はあったのですか」
「そう、もう診療所はあった。かなり早くからあったの」
「でも実際に産むための施設はなかったのですね。白人の赤ん坊の分娩を一人だけ手伝ったということでしたが、どうでしたか」
「五〇年代のことだった。黒人の子どものお産を手伝うのとちっとも変わらなかった。母親も父親もいい人たちで」
「仕事以外の場では、このあたりの黒人と白人の関係はどうなっていましたか」
「(街道をへだてて向かい側にある『よろず屋』を指して)あの店は白人の家族。わたしはこの家に住んで十六年になるけど、気持よく近所づきあいをしてきましたよ。ほんとに気持よく。とても気持よく。ここらではとても仲良くやってる。ここへ引っ越してくる以前だって、近所の白人たちはよかったし」
「どこでもそういうふうですか」
「わたしが住んだところではね。そうじゃないという人たちもいるけれど、わたしは経験からしかいえないから。わたしが子ども時代を過ごしたところでは、白人と黒人の子どもたちは一緒に大きくなって、一緒に遊んで、同じテーブルに坐って食事をしたもの。一緒に育てられて。何もかも一緒だった」
「女であることは、男であることより大変だと思いますか」
「どちらも大変だと思う。どちらも働かなければならないのだから」
「でも、畑仕事をしたこともあるが、畑仕事は好きだったと?」
「そう。畑で働くのは楽しかった。男みたいに耕してね。女のほうが男よりちょっとばかり大変かもしれない……」
「女のほうが男より、難しいところをどうにかきり抜けることがちょっとばかり上手でしょうか」
「そうだと思う。女のほうが我慢強いのかもしれないしね。男やもめのほうが後家さんよりまいってしまうもの。
 で、あなたはおくにを出てから何年になるの?」
「いったりきたりしているのですが。アメリカで暮らすのは八年目です。ミシシッピーにきたのは、でも、はじめてなのです」
「そうなの。孫が日本にいるのですよ。軍隊の基地に。手紙をくれてね」
「この家にたった独りで住んでいるのですね」
「そう。でも寂しくはないの。わたしは九人きょうだいの末っ子だった。母かたの祖母が産婆をやっていた。わたしはその祖母のあとを継いだわけね。大切な仕事だったと思う。いのちのはじまりを手伝う仕事は……とても大切だと……赤ん坊たちには生きてもらいたいから。とても大切な仕事……あたしはね、いまでもまだ産婆の鞄、そのままとってありますよ――」

 リジー・マクルアは言葉少ない。質問をしても、短く答えるだけで、あとは黙ってしまう。内気であったり、自信がなくてそうなのではなくて、生活とはそれについて長々と語るものではなくて、自分が引き受けた責任を果たしえたかどうか、その点を問えばよいのだという考えなのかもしれない。ポーチの揺り椅子に腰かけていると、リジーの取り上げたかつての赤子たちが、トラックや乗用車やオートバイで通るのが見える。リジーをみとめて、手を振っていく。八百六十九人のいのちのはじまりに立ち合ってきた言葉少ない老女は独り暮らしだが、男や女が手を振って往来する村の街道沿いの家のポーチから世界を眺めている。男や女たちは自分をその肉体を通して生んでくれた母と、この世に出てくるところで手を貸してくれたリジーの二人を母親と考えているのかもしれない。
 エリーズ・サザランドは『獅子よ藁を食《は》め』という物語で、血縁でない産婆さんに育てられる小さな女の子アベバのことを書いているが、産婆さんは少女の生命の源泉になる存在として描かれている。誕生の瞬間に手を貸してくれただけではなく、少女が産婆さんと別れ、ノースカロライナからニューヨークへ行って生みの母親と暮らし、結婚し、十五人の子どもを生み、育て、やがて癌になって死んでしまう一生に、たえず現れては言葉をかけ力を与え支えてくれるのは、この「ハブルシャムかあさん」と呼ばれるとっくにこの世を去っていた産婆さんだった。
 ハブルシャムかあさんは、朝空を見上げれば、その日新しいいのちがこの世に到来するかどうかわかる、ということだった。新しいいのちと女たちの間にある橋のような女だった。また人びとは「頭をつけて寝ると、知恵がうつる」と信じていたのだから、ハブルシャムかあさんの痩せた皺だらけのからだにつかまって、彼女の頭に自分の頭をつけて眠ったアベバにはすぐれた知恵があったのも当然だった。そして十五人もの子を生んだ力は、やはりハブルシャムかあさんからやってきたものであったかもしれない。
 いのちをその仕事の内容とする助産婦に対する敬意や愛情は、まだ彼女らの存在を感じ続け記憶している地方の人びとの間に強い。リジーのいうように、白人よりも黒人のほうが長く助産婦にたよる暮らしを続けてきたからなおそうである。「自然の成り行きにまかせること。無理をしてはいけない。自然にまかせて待てば、ぶじに生まれるチャンスは大きい」とリジーはいった。そして「わたしの世話したケースで、死なせてしまった母親はいない」とも。病院で産むのが当然と考えられるようになってしまっているいま、分娩で死ぬ母親たちは少ないわけではない。死産も驚くほど多い。「計画分娩」などといわれて、自然はねじまげられたり、病院のスケジュールによって管理されたりしている。人びとはもはや誕生の瞬間に手を差しのべ抱き上げてくれた、「もう一人の母」などはもたない。リジーは難産で病院へ行かなければならない場合は病院に着くまでは一緒にいてやったし、流産したら、しばらくその家に泊まってやったという。アメリカでもっとも貧しいといわれるミシシッピー州の、白人たちよりさらに貧しかった黒人の共同体の助産婦たちは、産もうとする母たちがそのからだをあずけた相手であると同時に、こころのよりどころでもあったに違いない。『獅子よ藁を食め』のハブルシャムかあさんの肉体が滅びた後も、彼女がアベバの傍を離れることがなかったように、リジーというミシシッピーの片いなかの一人の助産婦も、たえず母たちの傍にいる存在のようだった。引退した後も、郡道十八号線沿いの小さなつつましい家のポーチに腰を下ろして街道を眺めていたのは、その姿を見る者たちにいのちのはじまりを思い起こさせる一人の老婆で、その姿は彫像のようでもあったし、またある日そこから消えても、ちっとも消えたことにはならない存在を表していたように思う。
 リジーは貧しさについての苦情を一度も口にしなかった。リジーの家は寝室と居間の二間で、台所は一度外に出てから入るようになっていた。調度もつましい。お手洗いを借りたいといったら、お手洗いはない、という答えだった。それは家の中には便所はないということで、屋外にあった。古くなって使えなくなった箒の棒をトイレットペーパーの軸にさしてあった。扉を閉めてしまうと、中は闇。じっと目を開いて待っていると、少しずつ見えてくる。
 リジーが貧しさについて苦情をいわないのはつつましさを徳として重んじているからではなかった。話を聞かせてくれた女たちには貧しい人たちは多かったが、貧しさについて問われれば、彼女らは口にする食べ物がなく、寒い季節にも身に着ける衣服が全くない、履く靴もなく、雪の上を裸足で歩くような場合にしか「貧しい」とはいわない。飢えをいやす食糧と寒さをしのぶ衣類があれば、彼女たちは「わたしたちは運がよくて、貧しくはなかった」という。「そりゃ、よそから見れば貧しいといえるかもしれないし、けっして贅沢はできなかったけれど……」と、よそからきた人のためには付け加える。貧しさという言葉の定義には、よそでは種々あることはわかっているし、それらの定義からすれば、わたしたちは貧しいということになるのだろうけれど、飢えを知らず、冷気や雨風から身を守る衣類があれば、わたしたちは貧しいとはいわない、ということである。独自の価値の基準で生きてきたのだ、ということである。「服は二枚あって、それをかわるがわる洗って学校へ着ていったから、いつも清潔だった」という。彼女たちが自分は貧しかったと考えるのは「服は一枚しかなくて、毎晩それを寝る前に洗って、物干しのロープさえなかったから、椅子の背にかけて乾した」という場合である。そして「靴はなかったから裸足で学校へ八キロ歩いた冬は冷たくて」というような場合。そのような貧しさに対する定義は、東部、中西部、南部とべつべつの土地で、べつべつの機会に聞いた。そのたびにわたしはわたしたちの膨張し続けてやむところを知らない物への所有・私有欲について考えた。そしてそれに比例して貧しくなっていく「ほんとうに必要な物」に対する規準のことを。基本的な必要がみたされていなくとも、もうそれとも識別できなくなっているような、鈍らされた規準のことを。

 作家のトニ・ケイド・バンバーラが貧困のどん底にあるような黒人の心を占めたのは物への欲求ではなかった、と述べたことは先に引いたが、彼女は名付けがたい「何か」への欲求については次のようにいっていた。

 わたしたちは異質な一群の回路のより近くにいるのだと思う。それを精神異常とか狂気とか呼ぶ人もいるのだけれど……。都会的に洗練されきった連中が心理的にも知的にも混乱してしまうと、南部のふるさとへ帰ってみたりするのね。いなかへ。それはどういうことかといえば、先祖たちに触れてもらうとか、店舗を借りてやっている教会へ行って説教をきくとか、おばあちゃんに会いに行くとか、そういうことでしょ。おばあちゃんはその手をそっと頭においてくれる。癒してくれる。
「何かあったね。この間まではひどい様子をしてたけど、ずいぶん元気になったもの」そうたずねると、そういう連中は「うん、まあな。南部へ行って、ちりめんキャベツやとうもろこしパンを食って、年寄りたちと話しただけさ」なんて答える。かなり執拗にきかないと、意味深い逸話をひき出すことはできないわけ。体験を語ることのできる言語が存在しないからなのね。

 都会で身も心も疲れはてた黒人たちが、南部へふと戻ってみて会いに行くのは、たとえばリジー・マクルアなのだ。リジーの手が肩におかれることによって、「何かが起こる」、癒されることがある。それはリジーの個人的な能力であるよりは、幾世代にもわたって手渡され続けてきた力であるかもしれない。リジーは、「母方の祖母が産婆をやっていた。わたしはその祖母のあとを継いだわけね」といった。継ぐ、といっても物理的に設備のある家業を継ぐわけではない。彼女らの仕事は小さな黒い鞄ひとつのそれである。継承するのはたましいの力や共同体における役割である。肉体がこの世にあらわれるのを手伝うことを仕事とするサザランドの産婆ハブルシャムかあさんは、死んでなお、アベバのそばにいて、力になる。アベバがずっと昔世話になった一人の産婆のことを思い起こして勇気をふるいおこすのではなく、産婆さんは現前するのである。アベバのいのちの再生のために。バンバーラのいう「おばあさんの手が置かれ、癒される」ということも、疲れ萎えた肉体やたましいの再生を意味している。このような存在、このような存在との関係への渇望を、二十代の若い詩人にして演出家でもあるヌトザケ・シャンゲは舞踏詩『死ぬことを考えた黒い女たちのために』で次のように表現している。

  赤いドレスの女 何かが足りないのだった

  紫色のドレスの女 とても大切ななにかが

  橙色のドレスの女 約束されたはずのなにかが

  紫色のドレスの女 そっと置かれる手

  緑色のドレスの女 額のすぐ傍にある指

  黄色いドレスの女 強く

  緑色のドレスの女 冷やりとして

  橙色のドレスの女 動いている

  紫色のドレスの女 まるごとのあたしにしてくれる

  橙色のドレスの女 意味を与え――

  紫色のドレスの女 あたしをきつく抱きしめて
           ずっとおまえはわたしの娘だよという
           かあさんではなく
           そう 乳房や子宮を押しつけられるのではなく

           そっと置かれる手が
           あたしの神聖さを解き放つ

 この『死ぬことを考えた黒い女たちのために』は、

  少女であったこともない女の
  女であることについての暗い言葉
  半音が散らかっているばかりで

  リズムもない
  ふしもない
  黒い少女の肩に
  狂った笑いが落ちかかる――

 と感じる女たちのたましいの再生をめぐる作品だといってよいと思うが、終わり近くに女たちがこの「置かれた手」のことを語るのは、個人として体験したことはないが、集団としての記憶はまだあり、そのおぼろな集団的記憶を若い女たちが手さぐりで探しあてようとしていることを表しているのだろう。集団的記憶を甦らせようとする行為は、すでに肉体やたましいの治癒や再生にたずさわっていた女たちの力そのものを現前させてしまう祭式のようでさえある。
 リジー・マクルアが実際にいわゆる治癒師《ヒーラー》であるという話は聞かなかったが、トタンの撞球場の向かいの小さな家のポーチに坐って道行く者たちを眺めているかつての産婆の丸みをおびたからだと遠いまなざしには、「癒してきた女たち」の伝承と時間が重なっていた。南の夏の午後のゆらめく蜃気楼の向こうに。


晶文社 1982年10月30日発行




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