『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

ヴァージア

わたしは黒人がたえず笑ってばかりいるような場所ではないミシシッピーへきっと帰ることになるだろうとわかっていた。わたしと同様、彼らも、あそこでは黒人であるがためにくる日もくる日も代償を払わなければならないのだということを承知している。
『ミシシッピーの青春』アン ・ムーディ

だからね、わたしはふたたび蘇り、立ち上がろうとするひとりの黒人の女――。  ヴァージア・ブロック・シェド

1 ミシシッピー

 電話の向こう、やわらかな声。ヴァージアには会ったこともなかった。ニューヨークの市立図書館の特別コレクション、ハーレムのど真中にある「ショーンバーグ図書館」で働いていた友人の紹介だけで、ニューヨークからミシシッピーのヴァージアに電話した。
「もちろん、ぜひいらっしゃい。着く時には迎えに行くから。いろいろ話し合うことがあると思う。子どもは二人いるから、あなたも一緒に連れてきたらいい」
 ジャクソン空港。わたしはエスカレーターを下り、彼女がその向かい側のエスカレーターで昇って行くところ、ちょうどその中間で初めて会って。そのまま二人は引き離されて、下と上へ。やわらかなヴァージアの声。やわらかな表情。片腕でその日一歳になった娘のカーラを抱いていた。深い褐色の腕に。
 ヴァージアは最近離婚して、二人の子どもたちを育て、トゥガルー大学の図書館で働いている、ときいていた。一九四三年生まれ。
 空港を出て、まず私たちは福祉事務所へ行き、カーラのために支給される食糧品を受け取った。年給一万二千ドルで、生活は苦しい、借金も重なって、とヴァージアはいった。夫から養育費なんかもらってないから。貧しい親の赤ん坊のために支給される食糧品をもらう――。粉ミルクやシリアルだった。
 カーラをヴァージアの妹さんのところに預けて、セルフサービスのレストランへ行って、夕食をたべた。わたしは南部へきたのだから、鶏のフライを食べるから、というと、ヴァージアは「わたしは蝦のフライにする。本物の鶏のフライはわたしが作ってあげるから」といった。
 ジャクソン。深南部と呼ばれる地域でも、もっとも貧しいといわれるミシシッピー州の首都。車で走っているだけでは、どういうふうに貧しいのかはすぐにはわからない。町は郊外へ郊外へと広がりつつあるのだし、市街の中心はジャクソンと同じ規模の地方都市とそんなに違わないように見える。けれども、黒人のゲットーのあたりには、物質的な貧しさがあらわれている。過密地区でもある。住宅地として開発された市外の地域に対して、ここはinner cityと呼ばれる。他の都市でもゲットーといわない時には、inner cityと呼ぶ。とりわけ都市再開発がいわれるようになって以来、その呼称が一般的に使われるようになったようだが、そう呼ぶことで貧しさや荒廃の感じが中和されるのだろうか。
 ジャクソン。六〇年代の市民権運動の最盛期には、全国から英雄的な活動家たちがやってきたものだった。それは黒人と白人が共働することのできた蜜月の時代だった。いまでも、ゲットーには「ビッグ・ジョーンズ」あるいは「ビッグ・アップル・イン」とも呼ばれる小さなレストランがあるが、蜜月時代には、各地から応援にやってきた活動家たちはここを溜り場の一つにしていたのである。間口のせまい、細長い店だ。活動家たちはいうまでもなく、その店からとっくに姿を消してしまった。
 ある日、昼食をしにそこへ出かけた。ヴァージアと彼女の恋人と一緒に。少年たちがソーダを飲みながら、ジュークボックスの前に群がっていた。六〇年代初頭には生まれてもいなかった少年や、あるいは当時は幼い子どもだった青年たちだ。勤め人風のおとなたちは、静かにサンドイッチを食べていた。買って持ち帰る客も多い。サンドイッチを作る人びとは三人いて、無言でせっせと、とても能率的な分業で作っていた。店の特別料理は燻製のソーセージのサンドイッチと、豚の耳のサンドイッチ。肉は真っ赤な唐辛子ソースに浸してある。温かいサンドイッチには、芥子と赤いソースとみじん切りにしたピクルスをのせる。豚の耳は耳の形をまるのまま残して、赤いソースに浸してあるのだし、それをそのまま小さなパンにはさむのだから、口に運ぶときには、パンからはみ出した耳が震える。
 一九六八年には、ジャクソンのトゥガルー大学に在学中に公民権運動に参加したアン・ムーディの『ミシシッピーの青春』Coming of Age in Mississippiという自伝が出版されたが、ムーディが描く公民権運動の活動家たちは、ああ、こういうところで食べたのか、とわたしは想像してみたりする。一九四〇年生まれのムーディはヴァージアと同年代だし、ヴァージアはムーディの描くミシシッピーの生活の貧困を同じように経験してきたし、人種差別のことでも、同感することが多いといった。現在ヴァージアが司書をしているのは、ムーディが在籍していたトゥガルー大学である。ヴァージアはその頃ジャクソン大学にいた。
 ムーディの自伝は底辺からの公民権運動への参加がどのようなものであったかをおしえてくれる。ミシシッピーの貧しさがどのような性格を持っていたのか、ひとりの少女の生存の苦闘がどのようなものであったか、黒人の住居に放火し黒人の肉体を私刑《リンチ》することで人種差別の構造を守り通そうとした白人社会の辺境に暮らすことがいかなる恐怖をもたらすものであったかを、おしえてくれる。自伝は一九六四年の夏で終わっている。グレイハウンド・バスに乗った一団がワシントンへ向かう。彼らはミシシッピー州の公民権運動団体の連合体COFOに関する議会での審問に出て証言しようというのだった。このバスを見かけ、仲間の姿を見ると、予定もしていなかったのに、ムーディはバスに乗ってしまう。バスにはWe Shall Overcomeの歌声が響き渡る。ムーディは歌うことができない。焼死した黒人、バーミンガムの教会の爆破、殺された運動の指導者たち、デモ警官たちに殴打された者の頭から血が噴き出す……死者たちの列……「きっといつかは打ち勝つだろう」という歌が歌えないのだった。
 ほんとうに、そうなるだろうか。
 ほんとうに、そうなるのだろうか。
 キング師が暗殺される四年前のことだ。
 その後間もなく自伝を著すことになった彼女は、幼年時代の記憶の記述を次のように書き始めたのだった。

 いまでも、カーターの農園《プランテーション》に住んでいた当時の夢にうなされる。多くの黒人が彼の農場に暮らしていた。わたしの母と父がそうであったように、彼らも百姓だった。わたしたちは誰も彼も二部屋きりの朽ちた木造の小屋に住んでいた。けれどもわたしの家はカーター一家の邸宅と並んで、農場と他の小屋を眺め下すかっこうで丘の上に建っていたのだ。それは煙突とポーチのついた納屋といった感じだった。けれども母と父はそれでもなんとか住みやすくしようと工夫した。部屋は大きいのが一つあるきりで、もう一つは台所だったから、家族は一つの部屋に一緒に寝た。三部屋を一つの部屋に入れたようなぐあいで。母たちは一方の隅に寝て、わたしは木の窓際のもう一方の隅に小さな寝台を置いてもらって寝た。暖炉の前には一脚の揺り椅子と二脚の固い椅子を置いて、そこが「居間」というわけだった。模様のない、うっとうしいような色の壁紙が、大きな画鋲でゆるく止めてある。画鋲の下には、靴の箱の厚紙を小さな正方形に切ったのが入れてあって、壁紙を押さえ、画鋲が紙を破かないようにしてあった。鋲の数が不足していたので、壁紙はところどころたるんでいた。台所には壁紙はなくて、家具といえば薪ストーブと古びたテーブルと蝿帳《はいちょう》が一つ。
 父母には女の子が二人いた。わたしは四歳でアドラインは六、七カ月の泣きわめく赤ん坊だった。わたしたちは父母とほとんど顔を合わせることがなかった。二人は日曜日を除いて、一日中畑に出ていたから。朝は早く起きて、日の昇る少し前に出かけた。帰ってくるのは暗くなりかけた六時頃だった。
 昼間は母の八歳になる弟がわたしたちの守りをしていた。彼は森の中をうろつくのが大好きだったのだが、わたしたちの子守りをいいつけられていたから、その大好きな時間潰しができなかった。父母が畑へ出る前に家へくることになっていたから、着いた時はまだ眠かった。父母が家を出るやいなや、彼は揺り椅子に腰かけて眠ってしまった……。
 ある時彼はわたしたちを森へ連れて行ったが、わたしたちを草の上に置き去りにしたまま、鳥を追いまわしていた。その夜母はわたしたちのからだがすっかりダニに覆われているのを発見し、彼はその後森へ子どもたちを連れて行ってはならないと釘をさされた。するとこんどは、森へ行きたい衝動に駆られるたびに、彼はわたしを殴った。

 八歳の叔父はその後も森へ遊びに行くのだが、ある日アンをひどく殴り、彼女はポーチから投げ飛ばされたような格好になって、階段の角に頭をぶつけて、血が噴き出した。そのことがあってからは、両親は子守りを置かずに、二人の幼児を家に残したまま畑に出るようになった。母はテーブルの上に豆を置いて、空腹になったらそれを食べるようにといった。アンは揺り椅子に坐って豆を食べた。赤ん坊の妹は甘味をつけた水を飲んだ。家に二人きりでいるのが恐ろしくて、殴られてもいいから叔父がもどってきてくれたほうがいいと思う。

 突然ジョージ・リーが家に入ってきた。にやにやしながら無言でわたしを眺め立っていた。どういうつもりか、わたしにはすぐわかった、わたしの手の中の豆が震えた。
「豆を台所に置いてきな」と彼はいって、わたしの顔を思い切り打った。
「おなかがへっているんだよお」とわたしは豆を頬ばったままいった。
 彼はふたたびわたしの頭を殴り、豆を奪い取ると台所へ持って行った。
「おまえら、泣き虫のあほうども、焼き殺してやる。そうすりゃ、もうここでおまえらの子守りなんかしないですむんだ」

 そういって、実際彼は放火した。父母が運よく帰宅して、近所の人びとの手を借りて消火したが、ジョージは出火はアンのしわざといい、その言葉を信じた父はアンをひどく殴った。
 火事のあと、父はいらいらと落ち着かなく、陰鬱になった。降雨量が少なく、綿花の収穫が悪く、さつまいもは土の中で干上がっていた。とうもろこしも不作だった。小作料として収穫物を渡したら、もう何も残らないと予想できた。父は混血の女性とねんごろになり、家族のもとを去った。

「あん畜生! あのろくでなし!」と母が低くつぶやいた。父はもう帰ってこないだろう、とその時わたしにはわかった。
「とうさんはあたしたちと一緒に住まないの?」とわたしはたずねた。
「住まないんだよ! おだまり!」と彼女は目にいっぱいの涙を浮かべて怒鳴るようにいった。母は夜どおし泣いていた。

 母子三人はアンの伯母のところに一時身を寄せた。母は三人目の子を産み、母子四人は一台の寝台に一緒に眠った。母はやがて女中の仕事につき、雇い主の家から食事のあまりをもらってきた。それだけが母子四人の食事だった。あまりの酷さに職を替え、食堂《カフェ》で働くようになったが、それも週給わずか十二ドルだった。十分に食糧を買うこともできないので、母はとうもろこし畑から牛の飼料用に栽培されていたとうもろこしを盗んできては子どもに食べさせた。
 アンは小学校に通うことになった。往復十二キロの道を。朽ちかけた一部屋きりの木造小屋が学校だった。教師はたえず生徒を鞭で打つので、アンは便所に四時間もかれていたこともあった。
 母は四人目の子を産んだ。その子の父は兵隊だった。彼女には育てることができないだろうといって、父親とその母親がある日その新生児を連れていってしまった。その後母はふたたび白人の家庭の女中になり、母子四人は女中部屋に住むことになった。週給五ドル。部屋代はただ。母は時折り主家《おもや》から食べ物を運んできた。「白人はあたしたちと違う食事をするのだな」とアンは考える。彼女はいつもいつも豆とパンだけの食事だったから。
 アンが初めて自分の皮膚の色と、その意味について考えるようになったのは、日頃親しくしていた白人の遊び友だちと映画館で出会った時のことだった。黒人は二階で観ることになっていた。「わたしの黒さがわたしを二階へ追いやる」と。けれども、白人と黒人の違いとは一体何なのか。いくら考えてもわからない。けれども確かに違いはあるのだろう、そうだ、きっと性器のかたちが違うのだと彼女は考えることにした。
 アンが白人の老女の雑用をするようになったのは八歳の時だった。賃金を受け取って働くようになったのは九歳の時だった。白人の家の外囲りを掃いて、週に一度七十五セントと二ガロンの牛乳をもらった。その次の仕事はクレイボーンという女性のところで雑用をすることだったが、週に五ドルもらったので、三ドルを映画代にあて、二ドルを母に渡した。母はそれで子どもたちの弁当のピーナッツバターとパンを買った。
 母は六人目の子どもを身籠った。父親はやはり「兵隊」のレイモンドだった。母子はこのレイモンドと一緒に暮らすようになっていたが、彼は農業を始めた。子どもたちも畑で働かされた。けれどもうまくゆかず、一家はそれまでよりさらにひどい貧困を経験した。一家の住んでいたミシシッピー州センターヴィルには未熟練黒人労働者を雇用できるような工場や製材所はなかった。白人は黒人の男たちを雑役夫としてしか雇わなかった。女たちはいつまでも白人の家庭の女中として、一日一ドル稼ぐことはできた。
 母は七人目の子を身籠った。
 アンは高校生になった。新学年の始まる一週間前、十四歳の黒人の少年エメット・ティルが白人の女性に向かって口笛を吹いたと非難され、それを理由に白人の男たちに惨殺された。ミシシッピーのグリーンウッドで。アンはその町でも「もっとも意地の悪い」バーク夫人という白人女性のところで家事をして働いていた。バークは「なぜエメット・ティルは殺されたか知っているかい、白人の女性に対して身のほどをわきまえない振舞いをしたからだよ。ミシシッピーの黒人の男たちなら、わかっただろうよ。その子はシカゴからきたんだってさ。北部のニグロたちは尊敬ということを知らないからね。あの子はミシシッピーへやってきて、若い連中にいろいろ吹きこもうとしたんだ、面倒を起こすつもりで」と熱っぽくいうのだった。アンはその時初めて、「黒いというだけで殺されるのだ」という新たな恐怖を体検した。バークは自宅で「ギルド」という組織の集会をしじゅう催していた。そこで交わされる会話はNAACP(全国黒人地位向上協会)のことだった。アンはコンサイス辞典でNAACPを探すが、辞書にはこの言葉はないのだった。学校の教師の一人ミセス・ライスがその意味を教えてくれた。「黒人がいくつかの基本的人権を獲得することができるようになることを目ざして、だいぶ以前に生まれた組織なのよ。でも、わたしがあなたにそう教えたと、誰にもいっちゃいけない。わたしは首になる」(前の章の「接続点」で、ユーニスが語っていたことを思い出してほしい。ユーニスの父がミシシッピーのマウント・オリーブで黒人の参政権に関わる運動に加わったために、一家は夜の闇の中を逃走することになったのだった。車に乗り込み、一家はそのまま、何も持たずに命からがらミルウォーキーへ逃げたのだった。そういえばユーニスもちょうどアンと同じ年齢だ)。ミセス・ライスはアンを夕食に招き、南部ではいたるところで黒人が虐殺され惨殺されていることを話してくれた。アンは「自分がこの世でももっとも下等な生き物のような気がした」と書いた。
 アンの同級生の少年が白人たちに裸にされ縛り上げられ、殴られた。血を流していた少年を黒人は医者に連れて行くこともできなかった。白人の医者にどのような目にあわされるかわからないという恐怖で。そしてタプリンという一家は全員焼死した。ガソリンによる放火だった。FBIはきたが、この一件は結局うやむやにされたままだった。
 アンが感じていた日常的な恐怖、黒人たちが呼吸するごとに感じていた恐怖。十五歳になったアンは白人に腹を立て、無力に見える黒人に腹を立て、「一日一ドルで自分の感情を売り渡すことにうんざりして」、夏休みにニューオリンズへ出る。百貨店で陳列棚を掃除し、既製服にアイロンをかけ、ウィンドウの飾りつけを手伝ったりして、週に二十四ドルもらった。秋になってセンターヴィルヘ戻ってきた彼女は、黒人の問題を考えるのを避けるために、多忙に暮らすことを決心する。バンドで演奏し、バスケットボールの選手をやり、働き、ピアノを習い、妹や弟たちの宿題を手伝い、日曜学校で教えた。ふたたび夏がくると、ニューオリンズの鶏肉工場で働いたり、皿洗いをしたり、ウェイトレスになったりした。
 そしてセンターヴィルの黒人を組織しようとしていたサミュエル・オキンが殺された。弾丸は胸を貫き、にぎりこぶしが入るぐらいの穴を残した。オキンはNAACPのメンバーだったが、一人の黒人を組織する間もなく殺された。
 高校を卒業して、その夏はふたたびニューオリンズでウェイトレスをしたが、秋からはバスケットボールの選手の奨学金をもらって、二年制のナチェス大学へ。その後授業料免除でトゥガルー大学へ三年生として編入した。彼女がNAACPの支部の会合に出るようになったのは、そこでだった。一九六二年の夏にはSNCC(学生全国調整委員会)にも加わり、デルタ地帯での投票者登録運動を手伝った。昼間は戸別訪問をして、夜と日曜日は教会での大衆集会を組織した。人びとは怖れていた。教会にさえこなくなった。それが変化して、人びとが参加するようになると、彼らは仕事を首になり、住む家もなくなった。SNCCは北部へ連絡し、食糧と衣類を送れと依頼した。
 一九六二年はNAACPの年次総会がミシシッピーのジャクソンで開催された年でもあった。センターヴィルのアンの母は保安官をはじめとして、アンの政治活動のことで多くの白人から脅迫されるようになっていた。アンはもう家にも帰れなくなった。
 一九六三年、アンは「ウールワース」という雑貨店のランチ・カウンターの白人専用の席に二人の仲間とともに坐りこんだ。NAACPの運動の一部だった。三人はこづきまわされ、床を引きずられ、殴られた。坐り込みに二人の白人が加わった。群衆はケチャップやからしや砂糖やパイを坐り込んだ者たちに浴びせた。三時間それが続いたが、店の外には手をこまねいた九十名の警官がいた。
 黒人がジャクソン市の市長に対する要求をつきつけた日には、四百名以上の高校生が逮捕され、農産物見本市の会場の敷地内に閉じこめられ留置された。ジャクソンは人種差別に対するデモの中心地になった。デモを禁止する指令が出て、誰も彼も逮捕された。歩道で見物しているだけで逮捕された。自宅の玄関先に腰かけていただけで逮捕された。マーティン・ルーサー・キング牧師がアラバマにおいて果たした役割を、ミシシッピー州に対して果たすことになるだろうと期待されていたジャクソンのNAACPの指導者メドガー・エヴァースは白人の手で殺されてしまった。「どういうことなのか、それを考えるためには留置場へ行く必要があった。その頃わたしがものを考えることのできたのは留置場だけだったから」とアンは書いた。メドガーの死に対する抗議集会で逮捕された者たちは、塵芥運搬車で農産物見本市会場へ運ばれた。トラックから一人の少年が転げ落ちた。トラックはバックして、その少年を轢いた。農産物見本市会場は牛の競売に使われたが、それはナチの強制収容所を髣髴させた。市の留置場の料理係は塵芥鑵を使って留置されていた者たちの食事を煮ていた。
 アンは組織内部に起こりつつあった内輪もめにうんざりして、マディソン郡のカントンへ行き、CORE(人種平等会議)の仕事を手伝った。マディソン郡はミシシッピーでも、たえず黒人が死体となって発見される最悪の土地の一つだった。性器を切り取られ、ク・クラックス団のKがからだじゅうに彫りこんであるような、男たちの死体。そこでアンは高校生たちの手を借りて投票者名簿への登録を勧誘してまわった。ワークショップも開いた。しかし白人からの脅迫におののいて、手を貸してくれる土地の人の数は減っていった。活動資金はこなくなり、「幾日も、何も口にすることのできないことも」あった。COREの「自由の家」Freedom HouseがKKKの襲撃を受けるだろうという噂が流れ、運動員たちは裏庭の草の中に身をひそめて夜をやりすごした。カントンの貧困は運動によって悪化していった。子どもたちは腹をすかし、服を買ってやれないので、学校にやれないという家庭も多かった。
 アラバマ州バーミンガムの教会で黒人の女の子が四人爆弾で殺されたのは、一九六三年九月、アンの二十三歳の誕生日だった。前月の、二十五万人を動員したワシントンへの行進から二週間しかたっていなかった。マーティン・ルーサー・キングが「わたしには夢があるのだ」と演説したあの大集会から、わずか二週間だった。
 非暴力主義は果たして妥当なのか、とアンは間うた。教会の爆破はそれまで彼女が信じてきたすべてに疑いを抱かせた。カントンにおける白人の脅迫はますます激烈になり、アンの神経はずたずたで、毛髪が抜けはじめた。彼女はクランの暗殺の対象としてブラックリストにのっていた。
 憔悴したアンは一時ニューオリンズヘ行く。祖母の家を訪ねるが、彼女は関わりになるのを怖れて戸も開けてくれなかった。母に再会するが、会わぬ間にまた二人子どもがふえていた。一九六四年、伯父のクリフトがアンが運動に関係したことで、センターヴィルで殺された。顔は撃たれて、あとかたもなく飛び散り、歯さえ残っていなかった。アンがセンタービルの家人や親類に出した手紙はすべて開封されていることもわかった。
 ニューオリンズから、ふたたびカントンへ。「わたしは黒人がたえず笑ってばかりいるような場所ではないミシシッピーへきっと帰ることになるだろうとわかっていた。わたしと同様、彼らも、あそこでは黒人であるがためにくる日もくる日も代償を払わなければならないのだということを承知している。」
 一九六四年、五月、大学から卒業証書を受け取ると、「ミシシッピー夏期計画」に参加したが、公民権運動の団体は無力だという感じを棄てきることができなかった。「アメリカは平和部隊を維持し、他国のめぐまれぬ人びとを保護し援助する余裕があるというのに、アメリカ生まれのアメリカ市民は毎日のように殺され虐待されても、それは放置されている」と。カントンにも「自由の日」Freedom Day が催され、瞠目するように大勢が集まった。けれども、議会における審問に出て証言するためにワシントンへ向かうバスの車中のアンは、「きっといつかは打ち勝つだろう」という歌の合唱に加わることができなかった。
 そこで自伝は終わっている。
 ヴァージアの育ったミシシッピーという土地の性格を説明しようとして、アン・ムーディの自伝を持ち出したら、長い寄り道になった。けれども、これは余計な寄り道ではないと思う。ムーディの記述は、ヴァージアの言葉の背後の状況を理解するのにたいへん役立つ。ヴァージアがムーディの自伝に親近感をもっていることも、もう一度いっておこう。

2 パイニーウッドの暮らし

 ヴァージアはわたしを泊めてくれた。わたしが眠ったのは、ヴァージアの七歳になる娘ヴィクトリアがいまでも「とうさんの部屋」と呼ぶ部屋だった。大学は夏休みで、ヴァージアもしばらく休暇を取っていた。彼女はヴィクトリアを絵画教室へ連れていったり、湿疹にかかったカーラを医者へ連れていったりするので、わたしもそのあとをついてまわった。別行動をしたのは、ヴァージアが生まれた時に彼女を取り上げた助産婦さんに会いにユティカヘ行った時だった。その時はヴァージアの従姉が案内してくれた。(「八六九のいのちのはじまり」参照)
 車の中で、あるいは一緒に食事のしたくをしながら、あるいは子どもたちをお風呂に入れながら、ヴァージアの話を聞かせてもらった。彼女の住んでいる住宅はプレジデンシャル・ヒルズと名のついた、ジャクソン郊外の新興住宅地の中にあったが、住んでいるのは黒人ばかりだということだった。郊外にはいくつかそのような、近年になって開発された住宅地があったが、黒人と白人がともに住んでいるところもある。
 ヴァージアの家へは始終人びとが立寄った。あらかじめ電話をしておいてくるというのではなく、「どうしてる?」とか、「こんなことあったのよ」といいながら、始終立寄る。女友だちも、男の友だちも。ビールをさげてやってくる人たちもいて、それを呑んでいるといつの間にか午前二時になっている。
 ヴァージアのやわらかな声はけっして変わらない。荒々しくなったり、急に早口になったりすることもない。「南部だから、ゆっくりゆっくりしてるのよ」と彼女はいった。家族のことはどのくらい前までさかのぼってわかっているのだろうかとたずねると、彼女が知っているのは祖父母のところまで、ということだった。彼女の母方の祖母はインディアンとの混血だった。ミシシッピーのフェイエットの人びとだった。父方の祖母はアラバマ州バーミンガム界隈の出身だった。
 彼女の父は一九〇五年生まれだったが、製材所のある村や町を転々として、やがてカーペンターに行き着き、そこでヴァージアの母に出会った。
「アフリカからきた椰子の実が家にあってね。祖母がもっていたの。一九七〇年にどこかへ紛失して、それきり出てこない。わたしがこの家へ引っ越してきた時にもってきたけれど、それ以来ないの。大切なものだと知らずに、子どもたちがそれで遊んだのかもしれない。固い、固い椰子の実だった。古い、古い椰子の実だった。父は一九五一年に死んだの」
 ヴァージアが生まれた時は、両親はまだカーペンターに住んでいた。
「わたしは一九四三年の六月に生まれた。父は製材所の工員だった。牧師でもあったの。母は基本的には主婦だった。三歳以降のことなら、わたしは何でもはっきりと記憶しているのだけど、最近の数年のことでは、どうしても何も思い出せない時期があるのよ。まるでその間は死んでいたのではないかとさえ思うように何も思い出せない時期が……」
 カーペンターでは二軒長屋のような体裁の家に住んでいたという。父方の祖母と、その妹とその夫が一軒に住み、ヴァージアの両親とその子ども三人がもう一軒に住んでいた。そして伯母がひとり。その伯母の名もヴァージアだった。
「伯母のヴァージアが戸外で山羊をスピンにかけて直火《じかび》で焼いていたのを憶えているのよ。彼女は飲み屋《ジュークジョイント》みたいなものを経営していてね。客は彼女が醸造したビールを呑んで、ジュークボックスのレコードを聴いていたっけ。彼女が持っていたレコードをとっておけばよかったと思うのよね。
 カーペンターで弟が生まれてね、わたしは生まれるのが待ち遠しかった。わたしの赤ん坊になるのだと思ったから。妹のフローラが生まれた時は、やきもちやいて、大きな氷の塊を見つけてきて、それで妹を叩き潰そうとした、と母はいうの。
 父と母が喧嘩をするのを見たのは一度きり、それもわたしのことでだったと思う。かなり悪い子どもらしかったのよ。
 カーペンターの製材所が閉鎖されて、そこから二十五マイルのパイニーウッドへ移った。そこも製材所を中心にしてできた村だった。
 貧しい家庭の子どたちが行く『パイニーウッド学校』というのがあってね。子どもたちは学校で半日働いて、半日学習したのよ」
 その学校はドクター・ジョーンズと呼ばれる黒人が一九〇九年に創立したということだった。彼はミシシッピー州の出身ではなく中西部からやってきた。アイオワ大学の卒業生だったが、自分の天職は黒人の無知をあらためるよう努力することにあると考えたいという。パイニーウッド、製材を産業としていたこのミシシッピーの片田舎では、白人は教育のある黒人を怖れていた。そこでジョーンズはなかなか学校を創立することができなかった。ともかくその土地にいてしばらくぶらぶらしてみることにしたそうだが、あまりにも見通しは暗く、もう諦めて去ろうとした。ところがある日丸太に腰をおろしていたら、一人の少年がやってきた。ジョーンズは少年に「これを読んでごらん」といって本を渡したが、少年は読むことができなかった。翌日少年はふたたびやってきた。ようやくのことで、彼はそのあたりにあった空き家の丸太小屋を使う許可を得て、それを学校にしたのだったが、白人たちからはたえまなく妨害といやがらせを受けた。
 けれども彼はついに白人を説得することに成功して、ある者は材木を提供し、ある者は土地を寄付する、というところまでこぎつけ、やがて学校が正式に創立された。現在でもそれは私立校である。いまは生徒は授業料を払って勉強するが、かつては生徒たちは半日を労働にあて、半日を学習にあてたのだった。大工仕事、電気工事、煉瓦造りなどをした。彼らが学校を建てたのだった。配線も全部やったのだとヴァージアはいった。
「畑を耕して。男の子たちが収穫してきた物を女の子たちが料理してね。わたしの妹は食堂で働いていたし、わたしは事務所と図書館で働いたの。十三歳の頃よ。一銭も払わずに。働きさえしたらよかったの」
 一九五五年、ヴァージアがまだ在学していた頃、テレビのある番組でこの学校のことが取り上げられた。昔の丸太小屋が写し出され、畑で働いている生徒たちの姿も映った。アナウンサーは視聴者に一ドルずつ学校に寄付してほしいと告げた。百万ドル近く集まったという。あとからあとから、大袋に入った郵便が配達されて。ちょうどこの頃ジョーンズは障害をもつあらゆる生徒に教育の機会を与えようと苦心していた。事務の仕事を手伝える者もいたし、盲目の生徒たちはうたを歌った。募金のために、コーラスグループは公演旅行にもでかけた。バンドもあった。女生徒だけで構成されたバンド。
 ヴァージアが在学していた当時の生徒の数は五百名にのぼったという。現在は二百名に減った。ドクター・ジョーンズはすでに亡い。
「ほんとに貧しい土地なの。あそこへ行って誰かの話を聞いてみるといい。女たちは女中になるだけしか仕事がない。わたしも女中をやった。一日三ドルもらって」
「昨夜『ホリデーイン』で聴いたサム・マイヤーズはあなたの同級生だというけれど、サムはもう五十をこえているのでしょう?」
「サムはわたしが『パイニーウッド学校』にいた時にほんとに同級生だったの。盲人には他に教育を受ける場がなかった。だから『パイニーウッド』へきたの。あたしはほんの子どもで、彼は十六か二十ぐらいの年上だった。でも同級生だったのよ。あそこではいつも年配の生徒がいてね、ようやく教育を受ける暇ができた年配の人たちが勉強していたものよ。
 サムはフェア・ストリートでいつも歌っていた。わたしは母とよくでかけたの。彼の歌を聴くために、それだけのために。彼は去年二度目の世界公演旅行に出たのね。東京にも行ったって」
 サム・マイヤーズがすばらしいブルーズシンガーとして最初に認められたのは外国でだった。現在役はミシシッピー興業というところで盲人の指導をしている。彼は、わしに金がある時は、ヴァージア、あんたにも金があるという意味なんだからね、入用になったら、おいでというのだ。「パイニーウッド学校」への道は片道三キロだったが、ヴァージアはその道を歩くのは楽しかったという。誰もが緊密な関係を結んでいる共同体だった。子どもが悪さをして叱責されなければならないような場合は「ぶったりすることは、親でもない人がどんどんやったものよ」。
 泉が湧いていたから、人びとは泉の水を使って洗濯した。泉が清流となり、支流をつくっているところでは、その水を汲み上げて自家製の飲料を醸造した。ムーンシャインと呼ばれる密造酒だ。ヴァージアの家では母がムーンシャインを造ったそうだ。父は牧師だったが……。
「母は密造酒なんか造ったりしてね。父が牧師だったけれど、母は父よりずっと若くて。父は一九〇五年生まれで、母は二四年生まれだった。母は美しくてね。もちろん浮気ばかりして。でも父はおだやかな我慢強いひとだった。子どもたちに音楽を教え、歌を教え、ゲームをして遊んでくれた。手品をしたりして。あっ、という間にペンが消えた! なんていうやつよ。とてもすばらしい父だった。
 ある日雪が降って、母はわたしに外で遊べ、といった。わたしも外で遊びたかった。すると父は反対したの。わたしには靴がなかったから。あの頃は靴の底にはボール紙をつけたものだったわね……。父母が喧嘩をしたのはその時よ。
 父は癌になって一九五一年の七月二十五日に亡くなった。あと五日で命日。わたしの生まれたカーペンターに埋葬したのだけれど、最近墓を移そうとしたら、その土地をある白人が買い上げて、遺骸は湖の中じゃないか、ということなの。母の従姉が電話してきて、水面に骨が浮いているといった。ひどいこと……」
「パイニーウッド学校」で高校まで終えると、ヴァージアはジャクソン州立大学へ進んだが、最初の一年間は四人の女子学生と一緒に毎日車で通った。「パイニーウッド」の校長ジョーンズはこの年大学へ進んだ者たちを自分の指導下においておいたらどうなるか、いわば実験のつもりでそうしたのだった。ヴァージアは十三歳の時から学校の寄宿舎にいたから、ジャクソン大学へもその寄宿舎から通った。
 ジョーンズはそれまでにも学生に奨学金を与えてきたから、彼らはジャクソン州立大学、トゥガルー大学、その他へ進学した。彼は「パイニーウッド学校」の教育が大学へ進んだ生徒たちをどこまで準備できたか知りたいと思った。妊娠して帰ってきた学生もいたのよ、とヴァージアは笑った。「だからわたしのグループは高校の寄宿舎から通わせたわけね」
「一九六一年、わたしは大学の優等生名簿にのったの。でも九月から十一月まで登校停止処分になった。家へ帰った時にとうもろこしのウィスキー、例のムーシャインを持ち帰ったの……母は四人の子どもと癌で死にかけている夫を抱えて四苦八苦していた、教育もなかったし、手に職もなかったから……そんな時のことだったけれど、大学の寮で女子学生ばかりでウィスキーを呑んで煙草を吸っていたら、メキシコ人のルームメートが校長に告げ口しちゃった。それで処分になって」
 処分になってただほんやりしているわけにもいかないと思っていたら、ジャクソン大学図書館の司書が図書館で働いたらいいといって世話をしてくれた。ヴァージアは十三歳の時から図書館の仕事をしてきた。カタログをタイプする仕事だった。その後も図書館で働き、また食堂で朝食時と夕食時に働いて、彼女は大学を卒業した。食堂の賃金は一時間五十セントだった。図書館では週に二十時間は働いた。母から受け取ったのは四年間を通して合計二十五ドルぐらいだった。授業料は政府の貸し付け金で払い、自分の収入で寮費と食費を払った。つい最近借金を返したばかりだ。授業料の一部は奨学金で払っていたような気がするのだけれど、はっきりは思い出せない、という。
 一九六四年の春にジャクソン大学を卒業して、その夏は大学図書館の正式の職員として働いた。空軍に少尉として入隊する試験にも受かったが、「けっこう」と断った。ロレーン大学の修士課程を取るための奨学金を貰ったからそちらへ行くことにしたのだ。ロレーンはアトランタ大学と総合してよばれる五つの大学のうちの一つである。ロレーン在学中は図書館の司書の助手をして週に百ドル貰い、「エイボン化粧品」のセールスをやったり、ラジオ放送局で秘書をやったりして不足分を補った。そして一九六五年に図書館学で修士号を取ってミシシッピーへもどり、その秋からトゥガルー大学の司書になった。それ以来一度も職場を変えていない。もうそろそろ動いたほうがいいんじゃないかと思うけれど、という。大学のためにも、自分のためにも新鮮な空気が必要だと。職場の仲間は家族みたいで離れがたい……。
 アトランタへ出るまでのミシシッピーでの生活では、どれほど自分が堅固な保護の中にいたのか気がつかなかった、とヴァージアはいった。
「アトランタで大学に行ってた時は、わたしはほんとに素朴だった。それまであまりにも護られてきたから。パイニーウッド学校では学校が時間割を全部きめてくれたし、ジャクソン大学では自分で時間割をきめたとはいっても、まだまだそこの環境は黒人の『大家族』みたいなものだった。当時ジャクソン大学は黒人だけの学校で学生数は千名だった。密接な関係の中で暮らしていた。現在は誰でも行ける。学生数は一万になって。
 そういう所からアトランタへ行って、ある男性に会ったの。ミシシッピーのトゥガルー地区の出身だ、といったのね。『おお、故郷のともよ』ということでね。パーティで会って、もう一度会って。そしたらそのうち、郵便局員になる資格試験を受けたいのだが、どうかな、故郷の友の勉強の手伝いをしてくれちゃ、というのね。いいわよ、とかいって、わたしは彼のアパートへ出向いたの。勉強を始めるのを待っていたら、酒なんか呑みはじめてね。そしてあげくわたしを強姦した。当時わたしは自分の乳房が小さいと、ひどく気にしていたの。彼はもしわたしが喚き声などだしたら、おもてへ連れ出して、髪の毛つかんで引きまわしてやるぞ! そしたら世間はわたしの乳房が貧弱であること、そのためにわたしはブラジャーにパットを入れていたことを発見するのだ! とかいったのよ。
 しばらくして、彼のルームメートが帰ってきた。助けてくれるかもしれない、と思った。ところがそいつもわたしを強姦したの。そして二人はようやく眠った。わたしがやっとのことでそこを逃げ出した時には、朝の六時になっていた。
 学校当局は理解してくれて、その二人の男は校内立入り禁止になった。学校周辺でぶらぶらしている連中だったのね。ある朝教室を出て、道を歩いていたら、二人がいてね、わたしは立ちすくんでしまった。二人の態度は全然変わってなかった。ヴァージア、おいでよ、おいでよ、なんていって。車の中にいて警笛を鳴らして。でももうそれからはうるさくつきまとったりしなかった。医者へ行ってね。性病のことが心配だったから。妊娠するかもしれない――それは考えてもみなかったのよ」
 そういう話をしてくれる時でも、ヴァージアのやわらかな声は変わらない。ヒステリックに声高になったりしない。暗く不快な記憶ではあるのだろうが、顔をくもらせない。光を放つ褐色の皮膚に翳りが出ることもない。

 ある日の午後、子どもたちが昼寝をしていて、急に家の中がひっそりした時、ミシシッピーにおける黒人と白人の関係について、彼女はどう見ているか、たずねてみた。台所のカウンターをはさんで、スツールに腰かけたわたしたちは外のひどい熱気をおそれて小屋にかくれている止まり木の二羽の鳥で、鑵詰の茄でたピーナツを食べていた。ミシシッピーへ出かける前に読んだエリーズ・サザランドの『獅子よ藁を食め』には、ノース・カロライナの老婆と幼女が茄でたピーナツを食べる様子が描かれてあったので、これは南部の食べ物であることを知り、ヴァージアにたずねたら、「鑵詰ならいまここにある」といって出してくれた。鑵詰の茄でピーナツは香りがなくなってしまっていて、サザランドの書いたように、「……間もなく湯気を立てて鍋に熱い湯が沸き、ピーナツのにおいが立ちこめると、小さな家は喜びではちきれそうになった」という具合にはいかなかったが、わたしはその場にふさわしい物を食べているような気持にはなった。開けなかったもう一鑵は東部へのみやげにもらった。
 黒人と白人の関係について、ヴァージアは次のように話しはじめた。
「三年前、奨励金をもらって、マサチューセッツ州のマウント・ホリオク大学へ研修に行ったのだけれど、その時の体験は衝撃的だった。第一に人びとがあまりに豊かな暮らしをしていたこと。第二に白人は『黒人《ニガー》』にはあいさつもしないこと。朝通りで、おはようといっても、誰もあいさつを返さない。わたしはその時南部人の親切や他人への厚遇の態度をなつかしく思ったのね。人びとのうしろをついて行って、おはよう、おはようといい続けた。南部における黒人と白人のまじわりがなつかしかった」
 ヴァージアは南部の白人の黒人に対する圧迫や差別や偏見の醜悪さについて、アン・ムーディに共感する。それと同時に南部には東部にない、黒人と白人の日常的な交わりがある、とも主張する。白人の家庭で女中という仕事を経験した女たちは女主人から受けた劣悪な待遇や侮辱について語ることが多い。人種差別と偏見がかんたんに私刑《リンチ》や惨殺になって表現されることに対する戦慄についても多くが語っている。性的なはずかしめを受けたことについて、あるいはたえず白人の男性からの性的な攻撃から身をかわす緊張についても多くが語っている。けれどもその同じ女たちが南部には東部にはない黒人と白人の交わりがある、とも主張する。解放後も村落共同体の構造の中で共存しなければならなかったという歴史的な背景があるからかもしれない。少なくとも南部の白人はよかれ悪しかれ黒人の存在と折り合いをつけることを強いられてはきた。日常の暮らしの中で。一方東部の都会ではゲットーが成立して、黒人の人口は空間的に隔離されたかっこうになってしまい、大多数の白人は人種の問題や奴隷制や、歴史的事実と抽象的に折り合いをつければそれですんだということかもしれない。いや、それは空間的なへだたりのせいだけではない。精神的な隔離といった方が正確かもしれない。町で見かける黒人の姿、ビルの雑役夫である黒人の男たち、掃除婦である女たち、彼らは直接に渡り合うべき対象として存在せず、目の前にいながら目には映らない存在としてあり続けたのだろう。ラルフ・エリスンが描くように「見えざる人」となったのだろう。
 南部では白人の生活から黒人を除外して考えることができない、ということは、黒人の生活から白人を単なる圧迫者として除外してしまうという単純な引き算もできない、ということだろう。
 ヴァージアは公民権運動の黒人と白人の共働の時代が終わって、ブラックパワー運動へと変化したことによって、彼女の職場にあった日常の正常な交流は終息してしまったといった。「それまでは一緒に学び、遊び、眠っていたのに」
「アン・ムーディの『ミシシッピーの青春』のことは?」
「わたしもアンが描いているのと同様の差別と迫害の空気の中で育ったの。そして彼女のように、わたしの家族も貧しかった。アンは勇敢な人だったのね。わたしはそつなく振舞えといわれて大きくなって。わたしはジャクソン大学にいたから、もし運動を手伝ったら放校されていた。州立大学の規則だったの。わたしはともかく大学を終えることが先決だと考えていた。わたしの家の最初の大学卒として。
 アンにとって運動に加わっていた時の体験はあまりにも衝撃的だったから、いまでも彼女はこの先どうしたらいいかわからないままなのね。本が出て、ずい分あちこちで講演をしたけれど、それもいつの間にか依頼がこなくなってしまった。彼女はどうしてそんなことになったのかわからない。あの著書がもうはやらなくなってすたれつつあることを受け容れきれないでいると思う。
 わたし自身の経験からいうと、ひどい圧迫を受けてきた、とはいえない。……パイニーウッド時代……そうまだ子どもだったけれど、白人の家へ行って掃除して働いた。ある日雑巾がけしていたら、その家の十代の息子が言い寄るみたいなことをしたの。わたしはモップとバケツを置きっぱなしにして、奥さんに、あとは自分でやってください、といって帰ってきた……そんなことはあった。クリスマスになると、製材所相手に商売している店が「黒ん坊の爪先《ニガー・トーズ》』という名の木の実をわたしたちにくれてね。弟がその店の外まわりを掃く仕事をやっていたら、店の人が、ほらニガー・トーズでも食べなよ、といってくれた。わたしたちはそれを貰って食べて喜んでいた。木の実の名の意味のひどいことには気もつかないで。肉が厚くて、甘かった。
 その店では何もかもつけで買ったっけ。町のその店へ行って小麦粉一袋、とうもろこし粉、砂糖、アイスクリームなど買ってくると、そのあと、一日ぐらいはたっぷり食べられた。店にはいつも借金がたまっていた。でも個人的な体験としてひどい差別は記憶していないの。パイニーウッドでは学校は白人と黒人と一緒に勉強していた。教師は白人で、年配になって退職してから教えにきていた人が多かった。定年退職する前にそれまで教えていたところを辞めてきた教師もいた。立派な教師たちだった。白人は白人だけの建物に住んでいて、黒人は黒人だけの建物に住んでいたけれど、わたしはむきだしの人種的優越感に触れたことはなかった。
 黒人に対する差別や侮辱については、わたしはいつも個人的な場で取り組んできたのね。ある日銀行にいたら、白人の女性の行員が黒人の男性を『ボーイ』と呼んでいた。ガソリンスタンドを経営している男よ。わたしは、失礼ですが、おとなの男性をつかまえてボーイと呼ぶものではないでしょう、といったの。するとその女は、あたしは家では夫をボーイと呼ぶわよ、と答えてね。そうですか、自分の家ではそういうことをする場合もあるのでしょうが、銀行の窓口ではそれはまちがっているでしょう、とわたしはいったの。銀行はその行員をやめさせた」
「六〇年代、七〇年代と、少しはよくなったと思う?」
「変化が起きた。アトランタから戻ってトゥガルーに就職したころ、黒人と白人の間には親密さがあった。でもブラックパワー運動の時代になって……。はじめてトゥガルーへ行った時に親近感を抱いた白人の職員にはいまでも同じような気持をもっているのだけれど、もう一緒になにかするってことがなくなってしまったの、もう一緒に遊びに出かけたりしなくなってしまったの」
「ブラックパワーの時代がきてからなのね?」
「そう。彼らは安心して楽な気持でいるということができなくなってしまった。とても親しくしていた女友だちがいたのだけれど、彼女はそういう変化に耐えられず完全にまいってしまって、ついに町から去って行ってしまった」
「東部ではかねてから差別待遇廃止ということが論議はされてきたけれど、実際にはどうなのか、ということがあるわね。ボストンなどは、学校のことから見れば、白人と黒人の隔離の程度はもっとも著しいとか。南部では醜悪な歴史的な事実と並行して、白人は黒人と日常的に何らかの形でまじわらなければならなかったという事実もあるのね。北と南のその差異は基本的なものであると同時に、南部における白人と黒人の人間関係に一筋縄ではいかない性格をもたせることになっているのでしょうね」
「両者は依存の関係にあったともいえるのね。個人的な場で日常的に関係を結んできた。でも、学校における隔離が撤廃になったことで黒人の学校教師が職を失う場合も多かった。あるいはひどくとまどった場合もあった。それというのも、黒人の教師たちは黒人の子どもたちを励まし意欲を持たせる方法は知っていたけれど、教室に現れた白人の子は親たちにまさるようになる必要などないわけだから、どうやって教えてよいものやら判断できない、というようなことがあってね」
「人間関係にひびを入れるようなことが起こったとしても、運動もさまざまな変化も、起こるべくして起こったと思う?」
「そう。起こるべくして起こった。それ以前はほんとにひどかった。じつにじつにひどかった。ある人種がある人種より優れていると考えることができたなんて。白人の態度はあまりにも侮蔑的だったから、わたしたちも、黒人であるというのはまったく人間としての価値を持たないということであると、ふと考えてしまうほどだったのだから」
「トゥガルー大学は開校以来、かつて隔離主義をとったことはなかったのね」
「すばらしい学校よ。自由の気分がみなぎっていて、公民権運動の時代には運動の拠点となっていた。州立大学はだめだったし、白人だけの学校は問題外だった。トゥガルーは私立だから、思うようにできる。開放的で。ロバート・ケネディがやってきたこともあった。キング牧師が本部を置いていたこともあった。SNCCその他の組織の連盟の本部もあった。逮捕される怖れを持たずに活動できたのはここだけだった。外部からきた活動家と共働して、消防ホースで水をかけられ、逮捕され、農産物見本市会場に留置されたのはトゥガルーの学生たちだった。
 一九六五年にトゥガルーに就職したころには、黒人と白人はなんでも一緒になった。一緒に飲んだり、暮らしたり、眠ったり……黒人のナイトクラブへ出かけたり。この学校にはいつだってお金はなかったけれど、自由はあった。ブラックパワー運動や黒いことは美しいというスローガンのはやった時代をわたしたちとともに過ごした白人の教師たちは、いまだにトゥガルーで教えている。献身的な人たち。その気になれば、いつだってよそへ移ることのできる人たちよ。学生は食事と寮のことで不平をいうけれど、教育の内容については不満を口にしていないと思う。アフリカの生徒、イランからきている学生もいる……。
 創立は一八六九年で、創立者は全米宣教師協会だった。建物は一八五〇年代に建てられた。当初は高等学校として開校してね。黒人、白人……誰でも望む者なら教育することになっていた。でも一九六五年にはじめて黒人の校長が任命されるまでは校長はずっと白人だった。……そんなに長いこと……」
 トゥガルー大学はよい所だし、職場の仲間も家族みたいで離れがたいけれど、そろそろ生活を変えてみたいと思うとヴァージアはいう。また学校へ行って、こんどはコンピューターのことでも仕事にしようかしら。一歳のカーラが少し大きくなったら母子三人で旅に出ようとも思う、ふたたび結婚しようかと考えたりすることも時にはあるけれど、そうはしない、と考えている。

「結婚のこと話すのはつらい?」
「そんなことはない。話すといいみたい。精神の療法になるみたいで、夫との問題を抱えていた時に、話す相手がいたら……いつわりの生活をするかわりに。言葉に出して考えてみることができていたら……。
 彼はとても魅力的な男性でね。人なつこいし、おしゃべりで、ハンサムで、友だちもすぐできるようなひとで。パイニーウッドでの子ども時代から、わたしは彼に惹かれていたと思う。軍隊で大尉になって帰郷した時には、もううっとりするようにすてきで、女の子たちは唸ったものよ。
 一九七〇年の夏、彼はジャクソンの町に現れた。愚かしい妻がいてね。妻は彼を置いてどこかへ消えてしまった。わたしたちは一緒になって。ロケットみたいな恋で。わたしはそれ以前からずっといつだって彼に対して性的な欲求を感じていたのだと思うね。とても愛していた。わたしは十分収入があったから、彼のそれまでの間違いなどにも気を止めなかった。働く気分になれないんだ、というから、いいじゃないの、わたしが面倒見るから、といった。
 わたしの上役の夫ジョージと彼が電気工事の会社を始めてね。ジョージとわたしが少しお金を出して。ジョージが仕事をしている間も、彼チャールスはウィスキーを呑んでいた。何もしないで寝転んだりして。ひどく不満な気持を抱いて。タスキーギ学院で電気工学の学位を取っていたのに。ジョージは八年くらいしか学校へは行っていなかったけれど頭のいいひとで、チャールスから学べるだけ学んで免許を取ってしまった。でもチャールスは全然やる気がなくて。
 黒人の男性は女性の助けが必要なんだ……そう思ったのね、わたしはなんとか彼にしあわせな気持になってもらおうと、あらゆる手をつくしていた。でもヴィッキーが生まれて、おむつだとかミルク代だとか、こまごましたことにお金がいるので、苦しくなってきた。彼からお金を受け取りたいと思ったけれど、空約束ばかりだった。金曜日まで待っていろ、金曜日まで待っていろ。そんな風で年に千ドルぐらいしか渡してくれなかった。
 七六年。彼の前の妻が電話してきたのね。わたしは彼と離婚しようと思っていたのだけれど、彼ときたらまだ最初の妻と離婚していなかったわけなの」
「法的には重婚になっていたの?」
「そう。わたしはヴィッキーが生まれて間もなく離婚の手続きをしようと思ったの。ヴィッキーのために、お金をとっておいたでしょう、タンスの抽出しの中に、赤ん坊のために。それが失くなっていた。銀行へ行ってお金を引き出してきてと頼むと、行くには行ったけれど、車の中に置いておいたら、誰か押し入って盗んだ、なんていう。全部飲み代にしてしまって。わたしのハンドバックからもいつも盗んで。自分の家の中に財布が置いとけなくなってしまった。
 酒は、いつだって止められるさっていってた。おまえのほうが量は飲んでるんだぞ、ともいってた。わたしは飲んだって酔っ払ったりしない。彼は飲んだらおしまい。ベロベロ。とてもきまりが悪かった。飲酒が原因で逮捕されたことはないけれど、赤信号を突っ切ったりする。玄関口までどうにかたどりついたとしても、そこでばったり倒れてしまう。ヴィッキーは、とうさん、目を覚まして、とうさん、目を覚ましてといってね。そんな時はもう殺してやりたいと思った。何週間も酔ったままが続くと、入浴もしない。二週間も下ばきを替えない。『それでもなお、わたしがあんたを愛してると思うの! 一緒に寝たいと望むと思うの!』
 もううんざりしていたから、先妻が電話してきて、彼に戻ってほしいと思っているのだけれどというから、どうぞ、迎えにきてくださいっていった。彼女はここへきて、一週間ぐらい泊まっていった。わたしが彼にいてほしいと思っていないことは、彼にはわかっていた。二人でいろいろ話し合っていた。彼女は食料品を買ってきなさいといって、ヴィッキーとわたしにおいしいもの食べさせてくれたわ。彼女は料理がとても上手だったから。
 木曜日、彼女は香を焚いて、彼をまじないにかけようとした。わあ、こりゃ大変、気味の悪い香を焚いて、わたしにもまじないをかけようとしている! そう思ったから、もう話し合いもついた頃と思うから、といったの。彼女は唸り声をあげ、祈り、泣き叫んでは、あんた、一緒にきてよと懇願するのだったけれど、彼はタクシーを呼んで、おれの人生の邪魔はするな! といった。どしゃ降りの雨の日で。
 彼と一緒にいたいという女がいたのに。わたしは彼とは一緒にいたくないというのに、彼はそのわたしのほうがよかったのかどうかは知らないけれど、少なくとも気が楽だったということだったのね。彼はどうしても出て行かなかった」
 ヴァージアはマウント・ホリオク大学の研修の奨学金をもらって六カ月の予定で出かけた。ヴィッキーを一緒に連れて行った。彼女は四歳になっていたから、保育園で預かってくれるので。一日四時間程度預かってくれただけだったが、保育料はひどく高かった。奨学金の手当の半分は保育園への支払いで消えた。一日中働かなければならない母親のために開かれている保育園はごくごく稀れだった。
 ところで、ヴァージアの家を出たチャールスの前妻はホテルに泊まるようになり、夫を取り戻そうと「フリーメイソン」の団長やジャクソン大学の教授たちなど、手当りしだい電話した。トゥガルー大学の教師や学部長連中に手紙を出したりもした。内容は彼は重婚者であること、ヴィッキーは彼の子とは思えないなどで、ともかく彼が彼女の元へ戻るよう説得されたし、というものだった。ヴァージアは町中の噂にのぼった。けれども人びとはヴァージアがその前妻を彼女の家に泊めてやるほどの親切を示したことも知ってはいた。「わたしは髪の毛を掻きむしったものよ。なぜこの女はこんなことをするのだろう? わたしのこの町での評判を台無しにするのはなぜか?」彼女は朝の四時、五時に電話してきた。電話の交換手までが、このひと嫌がらせをしてるんですかとたずねたほどだった。そうですとも、でも、彼女がうるさいからというだけで、わたしは番号を変えたりはしませんよ、わたしのほうが彼女より強いのです、とヴァージアは答えた。
「マウント・ホリオクから帰ってきたわたしはジャクソンを留守にしていた間、自分はほんとはチャールスに会いたくてひどく寂しかったと気がついたのね。彼は飲むのもやめていて、就職もしていて……わたしの母の家に住んでいた。ヴィッキーもひどく寂しがっていた。そうか、それならやりなおしてみることはできる、とわたしは思った。七八年の六月のこと。
 彼は清潔にしていて、毎日勤めに出た。そしてわたしはカーラを妊娠した。十一月のこと。十二月、彼はふたたび飲み始めた。
 わたしはほんとに惨めだった。あれはひどい妊娠だった。だからカーラはいつもけんかばかりしていて、ヴィッキーみたいにやさしくないのじゃないかしら。肉体的には正常な妊娠だったけれど、精神の緊張がいけなかったと思う。彼を心底から憎んだの。十一月、わたしは母のところへ移った。離婚の申し立てをして、弁護士がようやく彼をわたしの家から追い出したのは十二月三十日だった。こんなふうなままで、八○年代を迎えるわけには行かない、とてもできないと思った。
 いまでは彼とは話はするの。話をすると必ずいつ仲直りするつもりか、子どもたちはいつになったら満足な家庭をもてるのかとたずねるのよ。仲直りして元にもどるなんてことはもうありえないのですよ、とわたしは答える。わたしはしあわせだし、生活も静かで、このままがいい。彼は相変わらず子どもの養育費も出さないけれど、わたしはしあわせなの。一、二年もすれば、わたしの経済状態もなんとかなる。だからね、わたしはふたたび蘇り、立ち上がろうとするひとりの黒人の女――。子どもたちと旅をしたい。カーラもその頃には大きくなっているから、旅行もできる。
 ヴィッキーに、とうさんがいなくて寂しいかとたずねると、そうでもないよ、という。彼がいないほうがむしろいいのだと、やがてわかるようになると思う。いてくれても、怒鳴り声を上げたり、悪臭をぷんぷんさせたり、彼女を惨めにさせるだけだと。そのことはかなりわかっているようなの。カーラに父親のことを説明しなければならない時機がきたら、これは難しいかもしれない。でも父親の不在という条件のもとで大きくなっている子どもたちはたくさんいるのだから。カーラにもひどい悪影響がないようにと願っているの。ほんとのことを伝えようと思う。そのほうがすこやかに成長するのじゃないかしら」
 ヴァージアのやわらかな声は変わらない。けっして他の人に起こったことを話すようにつき放して語るわけではない。けれども自己憐憫の感情に圧倒されてしまうこともない。憎んでいた、殺してやりたいとさえ思ったと直截に語る彼女は顔を歪めることもない。とどのつまりはそんなことにはならず、ひどい動揺の時期をくぐりぬけ、こうして生きのびてきたのだから。
 チャールスはどうしてそういう風になったのだと思うかと、わたしはたずねた。彼のこころにひっかかることはなんだろうと。ヴァージアはよくわからない、といった。軍隊にいた頃の体験かしらとも思うけれど、でもレーダー員だった彼は軍隊の体験を愉快なこととして語る、という。チャールスの父はパイニーウッド学校の第一回卒業生だった。母は学校の教師だった。家の中には酒など全く置いていないような家庭生活で、外へ出てからのチャールスは、おれだって男だということを証明するために飲み始めたのじゃなかったかと思うと。そして中毒者になって。血圧も高いし、おそらく糖尿病もあるのではないかと思うとヴァージアはいう。「職場では昇進の機会があったこともあった。ジャクソン市の役所に勤めていた頃は、白人の係長なんかチャールスよりずっと知識も浅かったから、完全に頼っていたのね。飲酒の問題がどうかなれば、と役所はいい、州立の精神衛生診療所へ行ってみなさいとすすめた。三、四度行ってみて、チャールスはあそこの精神医は気がふれてるといって、やめてしまった。市の電気工事課では、最高の地位まで行けただろうに」とヴァージアはいった。
「そうね、気高い女性が現れて彼を立直らせるとか、そういうことが必要なのかもしれないけれど」
「黒人の女は強い、という通説はどう思う」
「家長たる母とかね……女だって人間にすぎないのに。強き女であれ、そして男を支えろ、云々云々というのが、わたしがチャールスのことを耐えようとしたことの背後にあったと思う。自分の人生なんかなくなって、呼吸する場もなくなる」
「自分は強くなければいけないのだ、と女たちに思い込ませるのは何だと思う」
「パターンがあるように思うの。黒人なら誰でも、自分の人生のどこかで一度は強い女に触れた体験と記憶があるわけね。あらゆる手をつくして、自分を売ってでも、死にもの狂いで子どもに食べさせて。女たちは必ずやそのようにしてやりぬくということを男たちは知っていたから、彼らはそのことで自分たちは無力だと感じたのかもしれない。女がやってくれる。自分はしなくたっていい……、都市の女たちはどうなのかしらね、シカゴとかニューヨークとか……わたしが育ったのは、とても辺鄙な土地だったから……。
『三人の女』という題で物語を書きたいの。わたしの母とわたしと妹のこと。男たちのことで。男たちは自分たちがなんともみじめだと感じてる……あるがままの自分から出発できないものかしら……男と女のことを書かなければと思うの。わたしの家ではずっと女たちが男たちに仕えるようにしてきたことについて書きたい。あんたたちは坐ってていいよ、わたしが全部やるから……、料理して、料理をお皿に盛って、ちゃんと食べているかと、その姿を眺めて、皿を片付けて洗って、こんどはお風呂に水を入れて。子どもたちのからだを洗ってやっている間も、男たちは何もしないでいてね。男たちがとっとと寝てしまったあとも、女たちは床を洗っている……ずっとそんなことを繰り返してきた。母はいまでも息子たちにはそうやってる」
「妹さんは工場で働いているのね」
「電気メーターの組立てをやっている。十五歳で結婚してね。相手は同じパイニーウッドの出身で、幼い頃からの友だちだった。妊娠したので結婚したの。というよりむしろ、子どもが何人もできたので結婚したの。母は性について何も教えなかった。
 妹には七人の子どもがいるの。男の子五人と女の子二人。ずっと働き続けてきた。夫はまあ働いている[「まあ働いている」に傍点]、といったらいいような。いまでは以前より責任を持っようになったけれど。妹を殴ってばかりいた時期があってね。妊娠しているのに、お腹を蹴りつけたりして」
「妹さんは一日中働いて、そして家事をして。子どもたちも家の中もとても清潔にしてあって。子どもたちは物静かでやさしい感じがしたけれど。大きい男の子たちは父親のように女を殴ったりすることで男らしさを証明するのがよい、と考えているのかしら」
「父親が母親をよく殴っていた頃、子どもたちは父親を殺そうと相談していたの。長男がわたしに、殺すんだといったし、長女もわたしに、殺すんだ、といってね」
「しばらく別居していて、また一緒に暮らすようになったという話だけれど、いまでも殴るのは続いているの」
「周期がある。まだいまでもやってるのじゃないかと思う。以前よりひどくないけれど、ひどく口ぎたなくなることはある。市役所で働いているのね、いまは。立派な職員みたい。きちんとしていて。そばにいて彼が話をするのを聴いているのは楽しいのよ。おもしろいひとでね」
 女たちの生活について話をしていた時、ヴァージアは彼女の交友だちの多くがいつの間にか夫と別居したり、離婚したりする結果になっていたと話した。そして独身で子どもを育てている大勢の女たちがいること。それと同時に女が夫を射殺したケースが最近二件あったのよ、ともいった。
「射殺は殴られた妻たちの復讐だったと思う。肉体的に痛めつけられることに耐える限界まできて、自分を破壊するものを破壊しなければならなかったということだったと思う。浮気した男の陰部に熱いおかゆ《グリッツ》を浴びせる女たちもいる。六〇年代にそういう話を聞いたっけ。おかゆはべったりくっつくでしょう? 昔はね、女たちは灰汁《あく》を浴びせたものよ。男たちはたがいに圧力をかけ合うのね。おまえはセックスがうまいか? そして彼らはひどく自信がないわけ……」
 基本的には性に関するこだわりが多すぎる、世代から世代へと受け継がれてきたこだわりが多すぎるからだ、とヴァージアは感じている。男たちは「性はよろしくないこと」と考える態度を維持しつつ、なおも「うまいかどうかに」に重点を置く矛盾に気づいていない、と彼女はいった。ヴァージアは詩人でもあって、彼女の詩は官能的な作品が多い。女性の朗読グループがあって、その集まりで朗読する。

 チャールスとの関係の破綻から立ち上がるのを助けてくれたのは、一人の男性だった。あなたが夫と別れて生活に平和を回復したいと願うことは正当なのだ、と励ましてくれたのはその男の友だちだった。彼はシカゴの出身だが、両親がすてていかなければならなかったミシシッピーの土地に戻ってきた。二、三人の仲間と一緒にデルタに黒人経営の縫製会社をつくり、利益で黒人の文化センターを建てたいといっている。このままでは子どもたちは駄目になってしまう。何が大切なのかわからぬまま破滅してしまうという危機感をもっている。三十代、四十代の男たちである。ある晩この連中がそのことを話してくれたのだった。そのうちの一人は「黒人は眠らない民族だ」と繰り返しいうのだった。眠ったら白いシーツを被った連中が戸口まで迫っていても気がつかないなんてことになるからさ、眠っちゃいけない、と笑いながらいうのだった。彼は帽子をとらない。眠らない、というのと同じ理由からだろう。彼らは「黒人の女たちのことを書くのはいいことだ、彼女らの中に歴史の苦しみが凝縮されているのだから」といった。そして「女たちのことを書き終わったら、こんどは男たちのことも書いてくださいよ」というのだった。この人たちだったら、男たちの話をどう聞けばよいか、その糸口を示してくれるだろう、とわたしは感じた。おそくまでがやがやと話していて、ようやく皆が眠ったのは午前三時半頃だった。わたしは音をたてぬように荷造りして、五時にヴァージアの家をそっと出た。いろいろありがとう。さようなら。もう帰らなければならなかった。家人ももう二週間ほうってあった。


晶文社 1982年10月30日発行




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