『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 
建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    イスラエル・スケッチII

 建設班長

 ヤミットは人口都市だ。自然に発生した都市ではなく、ガザの南のシナイ砂漠に建設された都市だ。いまも建設と誘致が続いている。そこはいうまでもなく、占領地区と呼ばれる地帯の一部である。陸軍基地があって、そこで働いている文民がヤミットの住民の半数を占める、ともいわれている。
 ヤミットの町は垣根に囲われている。占領地区であるから警備についての考慮も必要だというわけで、それなら垣根で囲ってしまったほうがてっとり早い。垣根の金網には、しかし、そこらじゅう大きな穴が開いていて、子供たちがそこから出たり入ったりしている。
 ヤミットのすぐそばは海辺だ。そこへ出るには、ベドウィンのテントが立ち並ぶあいだをぬけて行く。ヤミットの産業の一部として、観光事業開発が案にのぼっているが、となると、この海辺に寝起きするベドウィンの集団をどうするか。
 風景としたって興味深いじゃないの、そのままいてもらえば?
 ところが、においがすごい。
 なんのにおいよ?
 肥料のにおいだ。いまじゃベドウィンも野菜を栽培しているからね。そのための堆肥を作ってるんだ。
 においぐらい、かまわないじゃないの。
 いや、しかし、風が吹くとね……。
 でも、その人たちはずっとこのあたりにいたわけだから、どいてもらうなんていうのもへんじゃないの?
 そうなのさ。
 わたしたちはアメリカ人の青年と話していた。彼はヤミットの新聞を出している。新聞はヘブライ語でイトンというので、ヤミットとそれをくっつけて、新聞の名は『ヤミトン』となった。彼はなにもないところに町を建てるのは楽しい、と語った。彼とその妻が引越してきたときは二十世帯しかいなくて、道も泥道だった。それがいまじゃ、二百八十世帯となったのだと。あなたは楽しいなんていうけど、こんなにエジプトに近い占領地区に町を「おっ建てる」ってのは、結局そこの住人を前哨警備の兵士がわりにすることじゃないのか、とたずねたら、そうだと思うと、彼は答えた。
『ヤミトン』紙の編集長として彼はわたしたちを案内してくれた。ヤミット開発の建設班長ともいうべき地位のアモスという男の事務所へ行ってみたのもそのときだった。
 その事務所へ四人ほどでゾロゾロと入って行くと、一人の男が大きな机をまえに、大きなヤミットの地図を背にして坐っていた。それがアモスだった。この人々は見学のお客さんだ、と『ヤミトン』紙編集長がいうと、アモスは、たちまち滔々と喋りだした。「情宣」なんて言葉があるが、あれこそあっぱれな「情宣」精神だ。聞きもしない質問にどんどん答える。わたしはこの建設班長の大演説の内容はろくにおぼえていないが、それでも一つだけ記憶している。いや、その一つだけ記憶していることがらのせいで、ほかのことを全部忘れてしまったのかもしれない。彼はいった――。
「さて、わたしの考えをいえば、中近東の問題の核心は西と東の文明の衝突なのだ。水と油の思想がぶつかり合ってる。で、どうするか、ということだが、わたしは西か東かどちらかを選べといわれれば、迷わずに西を選ぶ。西の文明が東の文明よりすぐれていることに疑問の余地はない、と少なくともわたしは思う。で、その選択の正しさを示すにはどうすればよいか。答は、建設せよ! である。建設せよ! それによりイスラエルも発展する。アラブも発展する。そう、答は、建設せよ! である。」
 地図を説明するときに使われる細い棒があるが、東からきたわたしの目のすぐまえで、彼はその棒をふりまわしたり、突くような恰好をしたりして熱っぽくいうのだった。相反する文明の軋轢には建設をもって答えろ、とはいとも簡単で、ずいぶん露骨に傲慢になれるものだと唖然としながらも感心してしまった。
 だが、なんともあやうい傲慢さではないか。この男が建設班長として建設を指揮している人口の都市は囲いに守られている都市だ。いってみれば括弧つきの都市だ。しばらく行けば、ガザの町があり、そこはエジプト国民であった人々が住む町だ。占領地区とは括弧つきの地域のことである。
 そう、もしかしたら、この占領地区が合法的に国際的にイスラエル領となる日がくるのかもしれない。じゅうぶんにありうることだ。ただし、そのときイスラエルが同時にかかえこむことになる「東」をどうするのか? 括弧つきの建設班長の指揮で完成したヤミットにかぶされた括弧は暫定的なものであった、ということになるのだろうか? それとも、永久に括弧を脱ぐことができないまま生きのびることになるのだろうか。「西の文明こそ」といっても、イスラエルの人口の六〇パーセントがすでに東の文明にはぐくまれたユダヤ人たちである。「西の文明」のブルドーザーがやがて東の文明を平らにならしてしまうと考えれば、それはおそろしい誤謬だ。矛盾はいつかは火山のように噴出する。西か東かという二元論で行ける、と考えるかぎり、この建設班長が体現している「西」は安住の地を見出すことはなく、すえながく括弧つきの存在であり続けることになるだろう。西洋の「出店」としてしみったれた暖簾を守るのだ。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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