『砂漠の教室線――イスラエル通信』 藤本和子

目次    


砂漠の教室 I

砂漠の教室 II

イスラエル・スケッチI
 ベドウィンの胡瓜畑
 銀行で
 雨の兵士
 スバル
 乗り合いタクシーの中で
 鋼鉄《はがね》の思想


ヨセフの娘たち

イスラエル・スケッチII
 影の住む部屋
 悪夢のシュニツェル
 オリエントの舌

   
――言語としての料理
 オリエントの舌

   
――ハイファの台所
 あかつきのハデラ病院
 知らない指
 おれさまのバス
 建設班長
 山岳の村


なぜヘブライ語だったのか

    なぜヘブライ語だったのか


 
イスラエルについて語ることは重たい。
 森崎和江さんはかつて「二つのことば・二つのこころ」という文章を、「朝鮮について語ることは重たい。」という言葉で書きはじめた。森崎さんが「重たい」ということの意味と、わたしが重たいということの意味はずい分というか、全くというかちがうのであるが、「朝鮮について語ることは重たい」という森崎さんのあの書き出しの言葉がわたしの心にはりついたように残ってしまっていて、いまこうしてイスラエルのことを書こうとすると、イスラエルについて語るのは重たいとなってしまうのである。森崎さんは朝鮮で生まれ、彼女が朝鮮で生まれた事実がそのまま罪である思いのくらさは口外しえるものではないと書いた。背負ってくれたオモニとネエヤの髪がはりついているのに、その一すじの髪毛についての彼女のこころは、いまだに一度もことばになっていないと書いた。そして、表現しないのは、朝鮮人へ対するへつらいの態度で表現しないのではなく、表現方法を失っているからだ、と書いた。ところが、その抑制とならんで、ぐずぐずしていたら朝鮮が駄目になるという思いが火花を出している、没民族的万国共通のイデオロギーごときものに冒させてなるものかと、制禦がきかない、とも書いた。「朝鮮人の全体像は、朝鮮の思想を生みだすべきであって分裂した政治国によって政治的存在にしたてあげられてはならぬ。二度と外力で変型させてはならぬ。早く朝鮮へと出逢い、私の錯乱の箱を両者の手であけて共同工作せねばならない……。」
 いうまでもなく、森崎さんが「重たい」というのと、わたしが「重たい」というのは体験的にもその思いつめかたも全く異なっている。彼女は朝鮮によって養われた女性だが、わたしはイスラエルには八カ月滞在しただけである。それにもかかわらず、わたしが重たいと感じるその理由には、彼女のいう重たさと重なる部分がある、という直観はあるのである。
 イスラエルについて、わたしに語れることなどいまはまだなにもありはしない、と思う。と同時に、無器用にでも語っておかなければ駄目だ、ぐずぐずしていてはいけないのだという思いがあるのである。
 森崎さんは、「まわりくどい論理、それが私だ」といった。「ちっともまわりくどくないストレートな心情なのに、ことばを媒体にしようとすればそうなってしまうのが私だ。」と。イスラエルについて語ろうとするとき、わたしもまわりくどくなる。それは、なんとかイスラエルならイスラエルを、その自らの論理において理解することができるか、という試験に関わることだからである。日本語のもつ固有の意味合いに足をすくわれたくない、あるいはよりかからずに、他者を語ることができるかどうか。森崎さんはいった。

私には「私」という時空が、重なったふたつの民族色として表示されます。保身のためのこじつけではありません。もともと「私」という用語は固体の歴史を総体的に表示する機能をもっています。そのために自他の個体史を峻別せんとする凝縮的な自己運動をする側面と、自他の固体史のかさなりあった部分つまり不特定多数の他者をつつみこまねば語としてもいみをなさぬ外延的な自己運動をもつ側面とが拮抗しています。ふつうに、話しことばとして使われるとき「私」は、その後者の機能をことばの表層にしています。そして固体が内包しているくらしの上での責任の範囲をばくぜんと指示しています。
 私は敗戦後日本に来まして、日本の民衆のくらしがその後者の機能を軸としたところの「私」を自分のことばとしていることを知りました。

 日本語の「私」がそのような傾斜をもつものであれば、その「私」は体験の共通性共有性を表す言葉となるのだと。そういう世界はそれなりの豊かさをもっている。歴史的にも社会的にも他から隔絶した存在でありえない人間というものの条件を、「私」という言葉に背負わせているのだから。
 ところが、その個的であり同時に不特定多数的であるところの「私」は、わたしたちが他者と向き合うとき、他者をもその不特定多数にのみこんでしまおうとする力を発揮するようなのである。
 イスラエルについて語ることは重たい、というのは、そのこととも関連している。森崎さんが朝鮮から日本へきたとき、九州の人々は「帰った」という表現に疑問をもつことはなかった。彼らにしてみれば、彼女が「日本人」であることに疑問の余地はなく、それなら「帰った」というのが当然であった。植民地政策があったからこそ在鮮日系二世になった一人の少女にはちがいなかったが、その少女が朝鮮に養われることにより、内地日本人とは異なる精神世界をもつことができるようになったかもしれない、という可能性に思いをいたらす者はなかった。「おくにはどちらですか」とたずね合うわたしたちの習慣は、「郷里そのものの所在をたずねることよりも、社会生活の意識と二重になってつづいているはずの日常生活のこころが所属している空間を表明しあっているはずだ」と森崎さんは書いた。さらに「私にはその世の中像が欠落していたから、日本にきて人々がにっこり出迎えてくれる厚かましさがまったく理解できなかった。人々は土民としか呼びようがないなまなましさで私を呑みこむのだったから。まるきり、くらしの股をひろげている感じで、自分の思惟様式をおしつけてくるのであって、それが彼らの生活態度だった」とも書いた。
 同族として相手を抱きこむことは、わたしたちはよくできる。呑みこんでしまうことはできる。異なる時空に養われた森崎さんの、なまなましく抱きこもうとする衝動とのたたかいが、やがて筑豊の「異族」である炭坑労働者のくらしの時空とその精神世界に彼女を導いた。「異族」である沖縄の人々、与論島の人々へと、彼女を導いた。『からゆきさん』もそうだった。朝鮮を異族として認め、理解することはできないのか、と彼女はわたしたちに問い続けてきた。「差別」などという手軽なあいまいな言葉の次元を出て、他者に他者の正当なる顔を与えよと。それは朝鮮に対する「同化政策」の本態を、日本にきてより明確に理解したことが、きっかけになっていた。

 他者に他者の正当なる顔を与えること。イスラエルについても、それがいえるとわたしは思う。けれども、それができるだろうか。できなければ、いままでにすでに何人かの人々がしてきたことを繰り返すだけだ。わたしたちの思惟世界から一歩も出ることなく、わたしたちの民族語がもち合わせる属性をベタベタと他者の歴史にはりつけることですませるという、いつものやりかただ。あたかも他者はこちらの思弁の便利のためにあるといわんばかりに。わたしたちはやさしさに満ちて、抱きかかえることはできる。でも抱きかかえた相手には顔がなく、だから、わたしたちの集団的な意識に変化が起こることもない。あたたかい懐へ取りこんでくるだけだから、出会いなどというものもない。そのようにわたしたちのやさしさは一方的だ。だから、やさしさが嫌悪や怒りに変っても、やっぱり一方的なのだ。
 わたしがイスラエルへいったのは、イスラエルについて報告を書くためではなかった。わたしの旅の目的はヘブライ語を習うことだった。もうたいして若くもないのに、新しい言葉を習うことができるかどうか、確信もなかった。語学にとくにすぐれた人というのはいるけれど、わたしはそうではない。なんども繰り返し習って、やっと覚えるというたちだ。で、ヘブライ語を習わなければならないと思った理由はなんだっただろうか?
 ヘブライ語とはユダヤ人とユダヤ主義の言葉である。日常の話し言葉として使われなくなったのは、おそらくギリシャ・ローマ時代だろう。ペルシャ時代後期には、もうアラム語で話していたのではないか。第二神殿時代の終り近く(第二神殿のローマによる破壊は七二年)に書かれたものらしいとされている「死海写本」の言語は、聖書ヘブライ語とアラム語と方言のヘブライ語であるが、話し言葉としては、当時のユダヤ人はアラム語か、教育のある者はギリシャ語を話していたらしい。ユダヤ人であったイエスが磔になったとき、「神よ、なぜあなたはわたしを見捨てたのですか」といったが、あれはヘブライ語ではなくアラム語だった。けれども、ヘブライ語が死語になったことは一度もなかった。ユダヤ主義学問の言語として(ということは、ヘブライ語の原典を学んだ、ということだけではなくて、学問の言語そのものもヘブライ語だったという意味である)、聖書の言語として、祈祷の言語として生き続けてきた。(離散後も異なる国からきた者どうしが出会ったり、貿易したりするときは、つねにヘブライ語が使われたともいわれている。)その事実の重要さを過小評価してはならない。聖書の言語か、ああ、祈祷の言語か、つまり宗教の言語か、とわたしたちが日本語でいってしまったその瞬間、わたしたちはユダヤ人とヘブライ語の真の関係から遠ざかる。日本語の「聖書」、「祈祷」、「宗教」という言葉をヘブライ語にはりつけることによって、ヘブライ語はそれらの日本語によってくくられ、わたしたちの手中におさまることになる。単純化され矮小化されて。だが、それは日本語が貧しいとか、日本語の背景にある歴史が貧しいとか、そんなことではない。これらの言葉では、わたしたちの文化や歴史についても、けっして正確に語ることはできない、ということである。わたしたちがわたしたち自身について語るにしても、その目的にかなった言語がかならずある、という保証など全然ないのだから。無謬の日常語で語りえないことがあるのだ。
 ヘブライ語は、ヘブライ語で書かれた書物は、ユダヤ人の世界観そのものをあらわす言語として、死ぬことなくあり続けた。ユダヤ主義は信仰といういわばパウロの造語である神学概念ではとらえることはできない。ユダヤ主義は人間が完全に超越的な存在を想定し、しかもその存在が要求する超越的な価値を受け入れることができるか、それを信じることではなく、生きることができるか、という歴史の実験としてあるように思う。聖書には、とてもほどくことのできないような矛盾があるが、口伝律法として「トーラー」を伝え、やがてそれを書きとめることにした民族は、その矛盾を支えることができたのだった。そしてその容器となった言語はヘブライ語だった。いまでもそうである。新潮社の『世界文学辞典』の関根正雄氏による「聖書」の項目によれば、聖書はキリスト教の聖典で、旧約と新約があり、「旧約は前一二世紀から二世紀中葉頃までの長期にわたってイスラエル民族の生み出した記録」となっている。で、旧約はイスラエル民族が生み出したが、(最初の部分に戻って)「キリスト教」の教典である、というのである。ユダヤ人は旧約とかを彼らの教典としてキリスト教に渡して、そのままどこかへ消えていってしまったように読める。いわゆる「旧約」とかも、ヘブライ語の原典の順序によらず、なぜか翻訳版(それが最古であろうとなかろうと)の、「七十人訳」と呼ばれるギリシャ語訳を基準にして解説している、これはキリスト教徒の立場に他ならない。西欧のキリスト教徒たちだって、ずっとこんなふうな語り口で二千年やり通してきたのだから、関根氏のこのような語り口にも歴史と伝統があるわけだ。近代になってからは、「ユダヤ・キリスト教主義を基礎にする」とひとまとめにいってしまい、やはりたいした相違などはないのだとする傲慢さと、ひとまとめにしてやる寛容さで誤魔化し続けてきた。それでも、そのひとまとめ的表現の裏には、「かつて、太古にあったものが、発展的に解消された」という前提がかくされていて、キリスト教誕生以降の世界史はキリスト教史となるのである。ユダヤ主義がまったく異なる脈絡で、独自の道を歩み続けたことはどうでもいいことになるし、キリスト教誕生以後の二千年もユダヤ主義学問からたえず借用し続けてきたことも語られることはない。そうした姿勢がはるかなるにほん国の日本語においてさえ、すでに日常化されてしまっているのである。この立場は、「漢字」とは「日本人が使う文字。もともとは中国人が創造した」といってしまうようなことに似ている。それほどの知的暴力と厚かましさに支えられている立場である。
 ヘブライ語は聖典の言葉としてシナゴーグだけで生き続けてきた言語ではなかった。ラインランドで発生し、東ヨーロッパやロシアに広がっていったイデッシュ語は、ドイツ語の文法に拠っているが、表記はヘブライ語のアルファベットを使っている。そればかりではない。もともとヘブライ語の言葉であったものが発音の変化を伴いながらもじつに多く取り入れられている。まるでドイツ語とヘブライ語の私生児のようなのがイデッシュ語である。だから、ヘブライ語は日常の話し言葉としては死んだ、ということさえ厳密には正確な発言ではないのである。ユダヤ主義学問の学者たちはヘブライ語で執筆することをやめはしなかった。近世になって、ヘブライ語の文学も生まれた。はじまりは十七世紀とする説と、十八世紀とする説の二つがあるが、いずれにしろイスラエルで国語となるはるか昔に、世俗の文学の言葉として使われることになったのであった。十九世紀にはアメリカでさえ、ヘブライ語文学運動が起こった。
 ヘブライ語はイスラエルに住んでいるのではない、いわゆる「離散」のユダヤ人にとって、今日でもなお彼らの精神宇宙を抱いている言語である。アメリカ生まれのユダヤ人の女性作家シンシア・オージックは、「言語は一定の観念を表現することはできるが、あらゆる観念を実現できるわけではない。わたしが英語で書いたこの物語(『横領者』)は、もともと英語という容器には入れることのできない世界であった。それはべつの世界に属することがらだった」と書いたが、彼女がいおうとしていることもそういうことだった。けれどの、いま、世界は「普遍」をもっとも重大な価値として考えよとあらゆる者に迫るので、こういう発言はいつも敵意をもって迎えられる。
 なぜ、わたしはヘブライ語を習うことにしたか。わたしが個人としてユダヤ人やユダヤ主義の思想に触れ、それについてある一定の責任を引き受けようとしたこともむろんある。ヘブライ語を習おうとしたことはそのことの一部であったことはまちがいない。ある責任を自分に課そうとしたことは、わたしには気持だとか口でなにかをいうということではなく、なにをするかということだと思えたから、ヘブライ語がすでに生命を失った言語だというふりをして素通りすることはできなかった。けれども、その行為を個人的な行きがかりや動機だけで説明しようとするのは、わたしにはあまり役に立つことだとは思えない。個人的な出会いや行きがかりが行動の動機であることはいくらでもあるけれど、それを説明することによって、すべてが個人の、めずらしい行動として諒解されてしまうことはつまらないし、不毛だと思う。わたしが意識しようとしまいと、ここには歴史的な力が働いていると、わたしは考えている。だから、個人にすべてを帰納してしまうのはどこかちがうぞ、という気がしてならない。森崎さんはやはり「二つのことば・二つのこころ」の中で、「――私はこんなふうに、私が単独で朝鮮(あるいは日本)について語ることを好まぬ。この方法の無力さをやぶらぬかぎり日本はその民族語のもつ地方性をこえることはできない。思想の部分的表現に終始する。思考用語が内包しまた指示するものに対する意識性を高揚することさえできない……」と書いた。わたしはその通りだと思う。それでも、こうして書こうとしている。わたしという単独の人間の行動の軌跡を、わたしは後生大事に守りたくない。じつはそれはどうでもいいと思う。文章を書くにしても、自分の名を被せることだっていらない、と思う。重要なのは、それがわずかでも広がりをもつことができるかどうかということだけである。特殊性を掘らずに、ことを一般化しようというわけではない。特殊性にこだわり、そこに沈んでゆくことで固い具体性を手に入れたいが、その具体性が孤立させられ個におしこめられてしまうだけではつまらないと感じるのだ。
 森崎さん、森崎さんとばかりいっているが、森崎さんの仕事を抜きにして、わたしはヘブライ語のことを書くことができないのである。デイヴィッド・グッドマンと津野海太郎や山元清多や及部克人とわたしなどがはじめた『コンサーンド・シアター・ジャパン』という、68/71の活動の一端を担う英文の季刊誌があった。わたしたちはいまだにそれを廃刊したとはいっておらず、無期休刊になっているだけだ。それは一応演劇の季刊誌ということになっているが、当然一見演劇とは直接関係ないかに見えるテーマもあつかってきた。休刊にする前の最後の号は特集で、特集のタイトルは Discrimination であった。タイトルの意味には狭義の「差別」ではなく、語の本来の意味、「差違を識別する」という意味を背負わせて、「これなに? 電話帳かい?」といわれることになった大冊を作ってしまった。
 その号でわたしも書けということになって、そのわたしの基本的な方向を支えていたのが、森崎さんの著書で、とりわけ『ははのくにとの幻想婚』と『まっくら』と『異族の原基』が重要だった。(一九七二年のことで、『匪賊の笛』や『奈落の神々』は未刊だった。)彼女は「他者」の意識の重要性を書いていた。「日本民衆の気の毒さは、自他対立の概念をくらしのこころの一つの要素としてもつことができなかったことである。さらにまた同化の原理を目的意識的につかうことのできる階層を同じ生活体の指導者としてもっていたことだ」と書いていた。
 そして――

 今日の私たち民衆を閉ざしているものは、私たち民衆の民族的伝統である。

 わたしはその雑誌の特集号のために、日本と朝鮮のことを中心に、日本的な差別を性格づける民族的な精神の背景を考えなければならないことになっていた。そこで、わたしはまさしくわたしたちを閉じこめようとするわたしたちの集団の論理、共同体の感覚について理解しなければならないところへ追い込まれていた。漠然とした、人道主義的憤りや、「帝国主義」の悪、「資本主義」の悪という一般化された悪では、とうてい日本人と呼ばれる集団が通りぬけて行った歴史の道程をわかることはできないと思った。そのとき、森崎さんの仕事の軸になっていたもの――わたしたちを閉ざすものとしてあるわたしたちの民族伝統と並列して存在する、異質の集団原理、異質の集団意識をもつ共同体の発見と、それらの共同体をわたしたちの思考の「素材」としてしまうことなく、それらにそれらの正当なる顔を認め、対決すること――が、わたしがわたしたちの歴史を理解することへの鍵になった。そして森崎さんの仕事を通して、わたしは炭鉱労働に従事した者たちが地上のそれとは異なる世界をだいていることを知り、朝鮮の日常の思想性には、唯一最高で禁忌的対象となるような、「天皇」のような存在、物神化された存在の傾向がないことを学び、与論島の人々が、沖縄の人々が、異族として異なる思想の体系を生きる者たちとして在ることを理解するようになった。それら異族の思想は辺境の、地方性のものとしてあるのではなく、日本人の正統的共同体意識に対峙するものとしてある。日本の正統的共同体意識とは、これら対立的な意識を異族の意識とはみなさず、同族集団内の異質としてしか考えることができない。異質とは、しかも、「欠落」のことではないか? 「天皇」の観念を可能にするところの、日本の正統的共同体意識は、「異なる」ことを「欠落」として眺めるから、日本的定着民の外にある民族と真に出会うことができない。

 わたしは特集号に朝鮮のことを書くはずだった。最終的には、書くには書いた。けれども、その文章をわたしはユダヤ人のことから書きはじめなければならなかった。それは朝日新聞社が主催した「アウシュヴィッツ展」という展覧会のことだった。「アウシュヴィッツ展」について書かなければならないと思ったわたしをつき動かしていたのは、森崎さんの語ろうとする筑豊であり、朝鮮であり、沖縄だった。それから、エリ・ヴィーゼルの『死者の歌』と、アイザック・シンガーの『短い金曜日』だった。わたしはなぜ森崎さんの文章からいくつか選んで、それを英訳して『コンサーンド・シアター・ジャパン』にのせることにしたのか、編集人の立場から書くことにもなっていた。それを可能にしたのは、ヴィーゼルとシンガーの物語であったし、「アウシュヴィッツ展」に対するわたしの反応をあらかじめ準備したのもこの二人の作家と森崎さんだった。わたしは『朝鮮人強制連行の記録』を読みつつ「アウシュヴィッツ展」のことを考え、「アウシュヴィッツ展」を観て強制連行のこと、日本の炭鉱で死んだ朝鮮人鉱夫のことを考えた。ベトナムではソンミの殺戮があり、ナパーム弾の雨が子供たちの遺体を焼いていた。わたしはわたしたちの怒りの弱々しさ、底の浅さ、傲慢さについて考えていた。わたしは人間が人間に対してこれまでに行なってきた残虐行為の詳細な内容を知ることでは、もはやわたしたちの思想を力強いものにすることはできないと感じた。ベトナムの戦場を写すカラーTVのニュース番組や『ライフ』誌の生々しいといわれる報道写真を見ながら、わたしたちは茶の間でゴハンを食べていた。残虐、血、殺戮、死は茶の間でも日常茶飯事となり、わたしたちの感覚はしびれきって、持続しない、もろい「一般的な怒りの気持」としてあるだけで、結晶しない。正義の言葉のように思える言葉の一つ一つは、歴史に汚され、いやしめられ、萎えている。言語の貧困は思想の貧困を丸出しにしている、と思った。
「アウシュヴィッツ展」は朝日新聞社がポーランド政府の協力を得て、高島屋だったか、白木屋だったか、ともかく日本橋のデパートの最上階の展覧会場を使って開いたものだった。ガス室で死んだユダヤ人の数がグラフになって示されていたり、「ユダヤ人のつけたバッジ」や収容所の建物や、ガス室や収容されていたユダヤ人、そういう、「アウシュヴィッツ」といえばいつもほとんど機械的に出てくる写真が大きなパネルになって壁から下っていた。ガラスの陳列ケースには、収容されていた人々が残していった衣類や靴や義歯、義肢、そして髭剃りブラシ、歯ブラシなどが山盛りになって展示されていた。片隅には木製の二段ベッドもあって、リアリズムの演出だった。女たちの髪の毛を染めて織った、薄茶色の布もあった。縞の、ゴツゴツした木綿の収容所の制服もあって、それにはおびただしい繕いのあとがあって、おそらくそれが数十人のからだを次々に包んだものだろうことを語っていた。すっかりいたんだ子供の靴。女たちの靴。
 会場は混雑していて、人々は押し合いへし合いして、食い入るようにじっとこれらの物を見ていた。目をそらすこともない。
 壁に掛けられた写真のパネルとパネルの間に、番号をふられた文字のパネルがあって、それは主催者がこの展示会用に準備した解説だった。それを1から順に最後まで読めば、「アウシュヴィッツ」の、そしてのこの展示会の意味がわかる、ということだったのだ。主催者の意見によれば、「長年ヨーロッパで偏見の対象となっていたユダヤ人が、……ヒットラー政権のいまわしき残忍さにより殺された」のだが、その場所が「アウシュヴィッツ収容所」だったというわけだが、あちことに「狂気」というような言葉が散りばめてある。パネルに書きつけられた言葉は、すでにわたしたちが幾度もお目にかかってきた陳腐な、一般化された常套句ばかりだった。それがこの展示会の枠となっていた。この枠が、サイクロンBの透明なガスを吸いこんで息を引きとった人々の遺品や写真を支える文脈だった。主催者が設けたその空間に、死者のこん跡が山と積まれ、あるいは宙づりになっていた。あれだけの義肢が残ったということは、殺されていった人々の数の天文学的な大きさを示してはいたが、それはそれだけのことで、死者が残していった物が語りえたかもしれないなにかは弱々しく散漫なものにおとしめられていた。最後の文字パネルには、結びの言葉として、「戦争は悪である。おそろしいものである。われわれはこの展示会が、われわれの平和への願いを再確認するものであることを祈る」というようなことが記されていた。なんだ、こんなことか、こんなことをいうために、朝日新聞はポーランドから大きな二段ベッドまで含めた死者の遺品を、後生大事に輸送したのか。戦争は悪く、おそろしい、だなんて、そんな「一般的な正しさ」の発言をするために、死んでいった子供たちの靴を、ガラスのケースに入れて特別の照明をあてて見せる必要があるのだろうか? そんなことをいうためなら、すでにあり余るほどのベトナムの報道写真もあったし、カラーのTVニュースも毎日あった。「平和への願いを確認」だなんて、むなしい。自分の平和への願いを確認するために、他者の死を利用するのか、わたしたちは? すでに殺され傷つけられた無数の肉体を前にして、感覚をしびれさせてしまっているわたしたち、それがわたしたちの文脈である。それを超える道を見つけ出さないかぎり、百万の、千万の写真パネルも無駄である。
 それとも、あの展示会はわたしたちの中の倒錯的部分を露わにするためのものだったのか。食い入るように見つめることのできるあれらの目に供えられて? そういえば、デパートは消費の殿堂である。消費の殿堂の展示会も、おそらくそこから完全に自由になることはできない。消費される「平和への願い」、消費される他人の死のこん跡。地球を半分もめぐって引きずられてきた死者の寝台が、すでに手垢のついた普遍的正しさを証明する! 手垢のついたそれは、しかしなお無傷である。抗議することもできない、見ず知らずの死者の遺品を、わたしたちは平気でもてあそんだ。わたしたちは死者への礼儀もわきまえない者なのか。猥褻とは、そういうことをいう。
 死者の数の膨大さ、死の無惨さ、蛍光灯に照らされ、山と積まれた歯ブラシから、わたちたちはもうなにも学べはしない。歯ブラシにその持主について語らせる力を与えてやらないかぎり。歯ブラシが殺人を犯したのではないのだ。歯ブラシには諒解ずみの表現力はない。無惨な死そのものに諒解ずみの表現力が、わたしたちを衝き動かす力があるといえるほど、わたしたちの手はきれいではない。アジアを蹂躙したわたしたちの手は。
 あの展示会のおそろしさは、死者の遺品をいじくりまわしても、死者に正当な顔を与えることなど思いもよらなかったその思想にある。死者のアイデンティティについては、どこでひろってきたのか知らないが、無窮の空のごとく変らない、不正確な理解ですませている。「長年ヨーロッパで偏見の対象となって憎まれていたユダヤ人が……」(あのアイヒマンだって、ユダヤ人を個人的に嫌ったり憎んだりしたことはない、仕事をしただけだといったではないか!)これが、これだけが、犠牲者に与えられた顔である。その彼らは、二元的な視点の中で弱者の役割を演じるようにキャスティングされて、その役に閉じこもることしか許されていない。その彼らの歯ブラシやみじめな衣類が、他者から意味を与えてもらうために置かれている。命を落した人間の影を消すことで成り立つ啓蒙には、どのような実用的意義があるのだろうか。
 犠牲者不在(そう、結局彼らはべつの誰かだってよかったのだから)のこのような啓蒙の試みは、ただひたすらわたしたちの身勝手な同情心をかき立てるだけで、わたしたちはふたたびみごとに無傷だ。
「アウシュヴィッツ展」があらわにしていたものは、みごとに日本と朝鮮の関係に重なっていた。侵略者としてしか海を越えたことのないわたしたちは、「強制連行の記録」や関東大震災の残虐については書きもし読みもするが、たとえば、電車の中で朝鮮語の子供の教科書を開いている森崎さんに向って、「なぜ朝鮮語の勉強をなさるのですか。どうせやるなら中国語がよくはありませんか」といって平気でいたり、こまかな横書きの朝鮮語を見て、「ネパールあたりの文字ですか」とたずね、それが朝鮮の文字だと知って、「へえ朝鮮……。朝鮮に文字があるのですか」と驚いたりするような者たちなのだ。朝鮮人を犠牲者の役割の枠に閉じこめておくことで、わたしたちの断罪はすんだとでもいうように。

「ユダヤ・キリスト教主義を土台にしたヨーロッパ文化が……」というような表現がいかにいんちきなものであるか、ユダヤ主義の文化は「ユダヤ・キリスト教の」と一括してしまうことのけっしてできない異質の構造をもち、ユダヤ人はヨーロッパ史における異族であることに気がつくと、わたしはその彼らの正当なる異族性を知ることが、やがて、わたしが朝鮮に感じていたわたしたちの不能な、息づまるだめさを開くことにつながってくれるのではないかと、ひそかに思ったのだ。ユダヤ人を偏見や差別の犠牲者としてその枠に閉じこめ(すると、偏見や差別は一般的な悪として、結局は手つかずに残る)、その負の歴史が彼らの特殊性をどう形成したかを理解したり(あるいは感動したり)することだけからは、この巨大な異族の全体像はとうてい浮かんでこないと思った。ユダヤ人の負の歴史はさんざん美化され利用され、ユダヤ人の歴史の実体からはすでに遊離してしまった。「ユダヤ人とは、他の人々が、ユダヤ人と考えている人間である。これが、単純な真理であり、ここから出発すべきなのである」し、「ユダヤ人を創造したのは、ユダヤ人の同化作用を停止させたキリスト教徒であるといっても決していいすぎではない」という愚かしい暴言を吐いたのはサルトルだった。彼はユダヤ人という歴史的共同体はない、分散が彼らの共同体に、歴史的過去をもつことを禁じた、といった。彼はユダヤ人の歴史とそのアイデンティティを一刀のもとにユダヤ人から切り落とした。彼のやさしい良心がそうした。彼の公正な良心が、ユダヤ人は彼らをユダヤ人として取扱うどこかの共同体の中に生きているからこそ、ユダヤ人である、といった。彼の進歩的なペンは、反ユダヤ主義がなくなれば、ユダヤ人もいなくなる、と書いていた。これほど反ユダヤ的な立場を、わたしは知らない。彼は歴史的共同体とは、第一に国家的であるから、ユダヤ人は歴史的ではない、彼らにはいいつたえの智恵があっても、歴史はないと書いて平然としていた。ユダヤ人にはユダヤ的共同作品も、独自の文明も、共通の神秘主義もないから、彼ら(サルトルたち)の歴史が彼ら(ユダヤ人ら)の歴史を受け入れたら一番いいのにと発言していたのである、だから、彼の反ユダヤ主義に対する攻撃もユダヤ人擁護もユダヤ人解釈も、自慰的なものにすぎない。彼はあの『ユダヤ人』の終りのほうで、ユダヤ人の正統性は、自己をユダヤ人として選ぶことにあり、呪われた歴史的存在としての自己を、歴史の中に求めることだと、親切にも忠告していた。そして、「われわれは彼等に、自分をユダヤ人と考えることを強制したのである」と告白し、「反ユダヤ主義を絶滅するためにも、社会主義革命が必要であり、かつそれで充分であること以外のなにも示していない。われわれが革命を行うのは、ユダヤ人のためでもある」と。そして、反ユダヤ主義は、ユダヤ人の問題ではなく、われわれ(サルトルら)の問題だと結んでいた。なんのことはない、そこではユダヤ人は思弁のだしに利用されただけだった。こんな本をまじめな顔で読んでいたことがあるのだから、恥ずかしい。
 サルトルのことなど、ほんとうはどうでもいいのに長々と書いたのは、サルトルの発想の出発点の誤りが、なにも彼一人に限ったものではないと思うからだ。ユダヤ人とはユダヤ人問題だと考えてすませる傲慢と不幸は、わたしたちだって豊富にもちあわせている。(朝鮮人というと、「朝鮮人問題」のことだと考えて平然としているのは、わたしたちだ。)
 ユダヤ人を異族たらしめているのは、偏見でも差別でもなく、彼らの歴史と思想である。ユダヤ人とは彼らの負のアイデンティティのことをいうのではなく、正のそれをいうのである。ユダヤ人はかしこいとか、普遍的な兄弟愛がゆたかだとか、そんな真空的な評価を指すのではない。彼らがその異族性を歴史の文脈において支えてきた、そのプロセスそのものを指すのである。「離散」が彼らのアイデンティティではなく、「離散」における生の軌跡が、その創造が、彼らのアイデンティティである。
 そのことは、わたしたち日本人の他者に対する関係の結びかたと密接につながっている。アジアを凌辱することでしか関係をもつことのできなかったわたしたちが、アジアの民族がたどらされた負の歴史で彼らを計ることはあまりにも容易な罠としてある。朝鮮のことも、沖縄のことも、彼らの固有性を蹂躙された歴史がうんだひずみとして考えてしまうのだ。ふたたびあやまちを犯さぬためにといいつつ、他者をこちらの思弁の材料にしてしまう。差別がなくなれば、日本列島の在日朝鮮人問題はなくなり、すると朝鮮人もいなくなる、というようなサルトル流の奇怪な論理に乗って平気でいることのできる素質を、わたしたちは充分にそなえていると思うのだ。他者とのまじわりといえば同化しか思い浮かばない貧しさを、どこかでうち破りたいのだ。天皇を頂点としうるところの同族意識をひそませつつ在ることのできるわたしたちは、その延長として、没民族的な万国普遍のイデオロギーもらくらくと手にすることができる。いつまでたっても、わたしたちは他者にその正当なる顔を認めることを潔しとせず、わたしたちの具象の、抽象の両世界を、他者の見えない顔の上に塗りつけ重ねていることになる。
 ヨーロッパ文明と一まとめにして呼ばれているものの中に異族の確固たる、べつの流れがあることを認めたとき、わたしの中には、それまで西洋のものとして受け取ってきたさまざまな思想に、それぞれ正当な歴史の場を返してやらなければならない必要が生まれた。一度、じぶんが馴れ馴れしくしてきたものから身を引き離さなければならないと感じた。引き離すナイフはヘブライ語であると、わたしのあまり頼りにならない直観がいった。

 イスラエルへゆく途中、わたしは香港とタイに寄った。はじめてのそのアジア旅行は、息苦しいものだった。香港では中国語も喋れない日本人であり、タイではタイ語を喋れない日本人だった。ふつう日本で振舞うように振舞ったのではまるで見当はずれなのだよ、この人々は、わたしの知らない文化の人々だから、自分の文化が教えてくれたことをそのまま通用すると考えてはいけないのだよ、わたしの国はこれらの人々の国を侵略することでしか「共栄」を発想できなかったのだ、国境を越えて、ということはいつだってこちらの欲望を押しつけることしかできなかった国なのだ、わたしはその国の国民の一人なので、人間と人間として出会うなどというには、記憶は暗すぎると、そういう思いばかりで、わたしはからだを固くしていた。ダグラス・ラミスは「日本人は英語を第三世界の民衆との対話に使え」とわたしたちに忠告してくれたが、わたしには英語という言語にそのような力があるとは思えなかった。英語は英語圏世界の歴史の影を背負っているし、それだけではなく、英語で表現できる世界もはっきりと限定されている。ラミスのいうことは、とりあえず、ということかもしれないが、わたしにはとりあえずということでは、わたしの貧困は改善されることはないと感じた。手や足を動かすにも、わたしはきっとまちがっているという気がして、バンコックからパタヤという海岸へ向うバスの中でも、あってはいけないところにじぶんのからだがある、といふうに恐しかった。バンコックの中央郵便局に東京に送る翻訳の校正刷りを出しに行ったときも、バスに乗って料金を払おうとしたら、筒のようなものをもって料金を集めてまわる少年が、どうしてもわたしから料金を受け取らない。少年とわたしのあいだには共通の言語がなかったから、二人は身振りで、払いたい、いや受け取れないと押し問答し、ついにわたしが負けた。日本人の金なんか受け取れるか、という意味ではないかと思った。乗ったかと思うともう終点で、そこが郵便局にもっとも近い停留所だった。バスを降りると、停留所の前にベンチがあって、そこにバス会社の女性らしい人がいて、少年から筒に集めた料金を受け取っていた。わたしはその女性のところへいって、しかたがないので英語で、バスの料金をまだ払っていないから、払いたいのです、といった。どこから乗ったか、とたずねられたので、どこどこと答えると、それじゃ一停留所しか乗っていないから、料金は払わないでいい、受け取れない、という答が返ってきた。いらない、というのだ。日本人の金なんか、というわけでもなさそうだったが、なんだか不思議で、わたしは郵便局のほうへふわりふわりと足を運んだのだ。
 バンコックを夜発ってボンベイに着くともう朝で、インド人がたくさん乗ってきた。次のテヘランに着くと、イスラエルのユダヤ人やアラブ人が乗り込んできて、機内の人種はもう東南アジア的でなくなり、中近東的になった。わたしは香港とタイでの息苦しさについて考えていた。香港はまさしく中国人の生活で、でたらめにバスに乗ってバスに身をまかせていれば、ゆき着く先はいつだって中国人のスラムか、あるいは新しい大団地である。ある昼下り、やはりあてずっぽうにバスに乗ったら、そのバスはずっと町はずれまで走り続け、終点だといわれて降りたところは、海沿いのスラムだった。テレビの修繕をする二坪ほどの小さな電気屋の店先に、横に倒したテレビに映った横倒しの画像を、首をかしげるようにしてじっと見つめている老婆の姿があった。「京劇」を観にゆくのだと、またべつのバスに乗ったら、それも町はずれの終点までわたしたちを運び、降りてみたら大きな団地のかたわらに遊園地のようなところがあって、入場券を買って入ると、劇場の小屋が八つもずらりと並んでいたのだ。芝居の小屋は「京劇」だけで、あとは全部流行歌を歌う歌手が出ている劇場だった。「京劇」の小屋に入るときには、一番よい席を香港ドル三ドルで買って入ったが、そのあたりに坐っている客はわたしたちだけで、あとは二十人くらい、ずっと後に坐っている。そこは無料なのだ。キーキーキーという声と、例のジャーンジャーンという鐃はちの音で「京劇」がはじまると、それまで楽団の楽員の方角に風を送っていた巨大な扇風機も止められ、ガランとした小屋に小さな蝙蝠が迷い込んだりする。料金を払って入った客はわたしたち二人だけのようだったので、この歌劇団はどうやって食べているのだろうかとしきりに思ったが、見当もつかなかった。役者たちは気も乗らないふうで、適当にふざけ合ったりしてやっている。どれも永遠に続く喜劇風のものであったが、楽団員はにこりともせず汗をふきふき適当に音を出していた。ときどき劇場の外の暗闇から、「花咲か爺さん」の挿絵にあるような犬がのそっと入ってくる。劇場の扉は全部開け放してあった。その夜、「京劇」のあとは、澳門へゆく船の出る波止場近くの夜市をうろつきまわった。屋台を照らす無数の裸電球の熱と、涼しくならない香港の夜の暑気に、人々の汗がぎらぎら光っていた。黒い寒天菓子がなま温い水に浸ってぶるぶる震えていた。カセット・テープの流行歌があちこちから聞こえてくる。流行歌のカセット・テープを売る屋台が一番人気があって、若者たちが群がっていた。
 機内がはっきりと中近東的になったテルアヴィヴゆきの飛行機の中で、わたしは、なぜヘブライ語を習いにゆくのだろうかと考えていた。それから、からだがしびれたようになって、不能な感じばかり襲ってきた香港とタイの数日のことを考えていた。なにからはじめたら、いいのかと。
 アジアの国を経て、わたしはイスラエルへ向っていた。きっと、わたしは突き返されるだろう。手足が萎えてしまうような無力感に対して、おまえはなにかをしなければならないと、わたしは突き返されることになるだろう。わたしがヘブライ語を学ぶときめた表面的な理由はそれなりにそれでいいのだが、おそらくわたしの意識のとどかないところでべつのことが起こっていたにちがいない。わたしは、たとえば、朝鮮語を学ぶべきだと、頭では知っている。けれども、それはおそろしいことだ。学んだところで、いまのわたしになにができるのか。わたしたちのような歴史を背負うものが学びうるのか。学ぶことが、その言語を母国語とする相手を傷つけることにならないという保証があるのか。
 学ぶべきだ、という気持を、わたしはヘブライ語に向けたのかもしれなかった。そうだとすると、ヘブライ語はやがてわたしをべつの言語に向かわせることになるだろう。まわりくどく、まわりくどく、中近東に突き当ってはじめて、わたしは東アジアにもんどり返ってゆくのかもしれない。


河出書房新社 1978年11月25日発行




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