『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    見取り図


現在、世界の大半を新資本主義が支配している。先進国では高度成長とそれに見あう安楽な生活で大衆を買収してきた。芸術はこの世界では極度に消費的な機能しかもてない。

この繁栄を維持するために周辺地域、アジア、アフリカ、ラテンアメリカは後進化され、援助と国際分業の原則にしたがって多国籍企業がはいりこみ、その利益の一部が本国の生活のゆたかさのためにつかわれる。近代文化の国際性は、ここでは思考や感性の抑圧と操作の機能をはたし、他の視点をとることを不可能にする麻薬となった。

日本は帝国主義の有力な部分としてアジアの収奪をアメリカと分担してきたと同時に、近代化に「成功」したアジアの先進国の顔で、その本質をゴマかしてきた。この意味で、日本の西洋近代文化を輸入文化とか植民地文化ということはできないだろう。それは日本の支配階級の文化だ。

音楽は最も抽象的な芸術に見える。生活のなかにあった歌や踊りが、いつか専門家の秘密の技術を必要とする非日常的な世界を構成し、その構成法のなかに現実の生産関係や資本主義的原理を反映しながら、感情や感性を支配する魔力を獲得する。ベートーヴェンからヴァーグナーにいたるドイツ音楽にこのことは典型的にあらわれている。

現代の音楽は一九五〇年代に最新のテクノロジーに追いついた。電子化とコンピューターの導入、音楽の構成要素を点の集合に分解し、数学的に再構成する技術、LPレコードやテープのように音楽を大量に複製し、編集し、輸送し、消費する手段、ニューヨークを中心とする国際市場の世界支配、レコード産業の多国籍化、アメリカの財団によるヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカの芸術家エリートへの援助と再教育、音楽団体や個人のプロジェクトに対する国家資金の援助、音楽表現の「自由」はこうして買いしめられ、誘導され、操作される。

音楽の創造活動がそれと無関係にあるはずはない。作品の流通過程だけではなく、創造過程やその形態も商品経済の理論に支配される。現代音楽の最先端は一方ではコンピューター音楽や電子技術であり、他方ではアフリカやインドネシアやインドの伝統の一部を素材とするパターン反復の音楽だ。これはヨーロッパでもアメリカでも、日本でもおなじように通用している。この種の国際主義は、西洋音楽文化の優越性のかわりに地球内部の異質な伝統の交流と共存を主張する。交流とはアメリカや西ドイツや日本の音楽家がアフリカの音楽をぬすんで、内容のない「普遍的」・数理的技術にしてしまうことで、西洋の優位はここでも再確認される。

日本の音楽家はテクノロジーも異質の伝統も国内でまかなうことができる。一九六〇年代後半にはじまる日本楽器や伝統芸能の再評価は、伝統や楽器自体の変革にはつながらず、西洋音楽の素材をゆたかにしたにすぎなかった。江戸芸能の封建性、過度の専門化とワザの余地をのこすために故意に保存される楽器操作の非合理性、抑圧された感性や無内容な型は、保存されるだけでなく、独自な美的価値をもつように考えられた。伝統美学の普遍性が抽象的な時間・空間・人間のなかで主張される、これらのカテゴリーの抽象性が近代ヨーロッパの具体性の別名にすぎないことをわすれて。美学や思想が具体的な状況をはなれてそれ自身としてだけ問題にされること自体が、近代の技術信仰の表現だ。

現在、ヴェトナムでの敗北以後のアメリカの後退にともなって、日本帝国主義はアジアでの支配権をつよめようとしている。個々の企業の進出というだけでなく、巨大な利権をまもるための政治力や軍事力も必要とされるだろう。これまでのようにアメリカのかげにかくれることもなく、直接その顔をアジアの前にさらすのだ。外部への拡張は内部での統合と一体になっている。天皇がまたかつぎだされ、教育管理が強化され、労働運動が圧殺される。マスコミの統制も巧妙になってきた。

芸術の領域でも統合の過程はすすむだろう。これまでのように、あらゆる傾向をまぜあわせて中性化し、批判を無効にするだけでは充分ではない。そらぞらしいことばや映像や音の洪水にまぎれて沈黙のうちにコトをすすめるという日和見主義では、拡張主義や文化統制の実体をおおうことがむつかしくなっている。積極的に支配のことばを打ちだし、批判を排除しないまでも周辺の安全地帯に誘導する操作が必要な時期だ。この文化統制は、あからさまな形をとることなく進行するだろう。軍国主義下の翼賛体制のように強制されることもなく、自覚さえなしに、みんなが転向するのだ。

音楽の領域でもそのきざしはあらわれはじめた。作曲者たちを支配する明るい無気力、演奏会場の官僚主義的管理、飼いならされ、しつけられた聴衆、消費の周期ははやくなる。だれもが作曲家、演奏家、聴衆のきめられた役割のなかで、予期される以上でも以下でもない演技をつづける。羊たちの背をなでる生ぬるい風の上に、かすかに灰色の雲がひろがっていく。

アジア作曲家連盟は、日韓台を中心とし、フィリピンとオーストラリアを加えて体制をかためた。ここに参加している日本の作曲家のだれ一人、これが純粋に音楽的な組織であることをうたがわないだろう。これこそ日本の政治の質なのだ。伝統芸能の「交流」もさかんになった。日本の指導性と相手側の提供するものの後進性を強調しながらの娯楽化がちらつきはするが、これもとりたてて問題にされないだろう。

「土着」の操作も進行中だ。民謡正調や芸能保存会に加えて、「鬼太鼓座」や「山城組」による、まるで軍隊かヤクザ組織をおもわせるほどに近代化され、偽造された民族芸能が反近代の仮面をかぶって登場した。これらは急速に商業化し、テクノロジーの先端とむすびついて、民族芸能の中間搾取者の役割をつとめている。

これらは、音楽の現場で起っている支配の強化のわずかな例にすぎない。個々の場合をとれば、善意でやっていること、個人の音楽的な必要や興味ではじめたことであり、政治とは何のかかわりもないということになるだろう。あたえられた個々の領域にとじこもり、全体のなかでその領域のはたす機能を見ないから、誘導が可能になる。

音楽は政治に従属するものではないと何回言われたことだろう。日本文化は伝統的に非政治的だったとも言われる。政治からはなれた文化は、文化のない政治と対になる。独立した非現実の世界をつくりあげる芸術は消費的な商品であり、それ自体が芸術であろうとする政治はファシズムとなり、テクノクラシーとなるだろう。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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