『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    訳者の注


「気をつけろ、オイゼビウスよ、よい意味の愛好家気質を軽べつしないように。それは芸術家の生活から切りはなせない。芸術家なくして通人なしと言うのは充分ではないだろう、芸術家と通人の間の相互作用なしに芸術がさかえた時代はかんがえられないのだから。」とラロ先生は言った。

十九世紀音楽をささえていたのは、この種の愛好家、えらばれた少数のきき手だった。みんなといっしょに目立たない片すみにすわり、手のなかに顔をうずめて、音楽にききいる。その名は問題にはならないが、階級は重要だ。充分な資産をもつ没落貴族、年金生活者、退役将校、教授、医者、同業の寄生的芸術家。アタマではよくわかっているが、手はまったくうごかない連中。だから専門技術をモノにした職業芸術家には神秘をあおぎ見るのに近い尊敬の姿勢をくずさない。かれらの心の弦をかきならし、きもちよくねむりこませてやり、そのおかえしにいくらかのカネにありつくのが芸術家の生き方だった。ワニの歯についたたべのこしをそうじしてやって、きもちよくねむらせる、あの鳥との共生関係とおなじだ。

この関係を非難するのはあたらない。音楽は普遍的な美の実現ではなく、階級的感性教育の手段だということを、このことは意味しているだけだ。

十九世紀音楽の場合はたいへんうまくいっていたこの交流関係は、現在かならずしも機能していない。大量生産される音楽の場合は、少数の通人にかかわっているヒマはない。音楽の役割はいまや、大衆をねむりこませ、感性を抑圧することだ。

芸術は永遠にワニの歯みがきでありつづけると信じ、芸術家にはほかのしごとがあることを理解できないふりをしている連中もいる。通人と芸術家のゲームは何ごともなかったようにつづく。これはやる気のないゲームだ。ワニは成長し、芸術家の相手は公共放送局であり、多国籍レコード会社であり、時には国家そのものになった。そこでエサにありついた連中だけが、少数のこのみを相手にやっていける。







『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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