水牛だより

2003年12月1日

ときに大長編小説というものが無性に読みたくなります。去年の夏に『大菩薩峠』を読み始めたものの、秋に病人が出たため第5巻の途中でストップしてしまいました。大水で流された家の屋根にのったままの盲目の机竜之介はどうなったのだろう。そろそろ続きを読もう。
小説のタイトルにもなり、物語の冒頭で机竜之介が最初にひとを切るのが大菩薩峠。学生だった最後の春、山登りの好きな友人がその大菩薩峠に連れていってくれました。だからわたしは峠がどのようなところなのか知っています。まだ雪の深い南アルプスの山々が間近にそびえていて、峠も2000メートルに近い高度。竜之介はそこに博多の帯に黒の着流しでやってきて、意味なく巡礼の老人を切る。リアリズムとは無関係な小説です。
ことしになって、その友人からメールが届きました。昔話のひとつとして大菩薩峠に行ったことを話題にすると、いや、あれは丹沢のヤビツ峠だったはずだ、と彼は主張するのです。記憶というのはこんなものなのかもね、とそこは意見が一致して、くい違いはそのままにしてあります。だからアレは大菩薩峠だったのです。
中里介山は権力も財力も持たず、大菩薩峠の東京側にあたる奥多摩の家に印刷機を持ち、雑誌や自分の作品を出版していました。いいなあ。その家は公開されているらしいので、そのうち出かけてみようと思っています。

 →青空文庫の「第菩薩峠」(公開は文庫本の6巻まで)
 →ちくま文庫全20巻セット(わたしはこちらを読んでいます)

「水牛のように」を2003年12月号に更新しました。
30日のお昼のニュースでイラクで日本人が銃殺されたことを知ったとき、真っ先に佐藤真紀さんはだいじょうぶなのだろうかと思いました。ほんとうに「世の中、間違っている」

「水牛の本棚」は藤本和子「たましずめの歌」です。
「女たちの同時代――北米黒人女性作家選」第二巻「獅子よ藁を食め」(エリーズ・サザランド、藤本和子訳)について。
森崎和江さんの巻末エッセイにはこうあります。「未来へむけて、核兵器をもつ地球の支柱となるものは、兵器による自衛ではなく、科学の発展でもなく、ハブルシャムかあさんの体温のような人間性の世界的規模に於ける確立しかない。が。それへの道程は、単純ではなく、単一な方法論では手がつけられない。はっきりしていることは、きのうまでに体験した手段のすべては、その使命は終わっているということである。そしてまた人間たちは、それぞれが踏んできたきのうまでの歴史を土台にすることなく、明日という文明の扉は引きあけられない。いっせいにスタートに立って歩き出す鳥のように、晒されている同時代のわたしたちは、先達のいない時空へむけて歩かねばならない。事実、先輩がいないのである。たとえ心のくにへ回帰しひとときの呼吸をしようとも、その幾千年の先祖たちの血と汗を抱きしめて浮上するほかにない。その中に、先人の生の確かな手ごたえのあることを自ら確かめて、自分自身に立つことを告げるほかにない。」
残念ながら日本語の「獅子よ藁を食め」は絶版です。でも英語のペーパーバックは手に入ります。

「水牛通信電子化計画」は1986年8月号を公開しました。

ことしはCDの新作を出せずにおわります。来年は今年のぶんも含めて、いくつか世に送りたいと思っています。発売が具体的になったらお知らせしますので、待っていてください。
水牛のCDはウエブでの販売が基本ですが、↓でも手に入ります。
・タワーレコード新宿店
ザリガニヤ(札幌)
・ホワイトエレファント(姫路)
タワーレコードは説明の必要なしですね。ザリガニヤとホワイトエレファントの店主はミュージシャン、本もCDも、新しいのや古いのや、店主の個性で集められているのだろうと想像しています。爆発的に売れるということはなさそうですが、置いてもらえるのはうれしい! 近くにお住まいのかたはぜひお訪ねください。

それではまた来年! よい年をおむかえください。(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)



2003年11月1日

1980年代ころまで東南アジアは文字通り近くて遠いところでした。政治的な状況だけは伝わってくるものの、そこで人びとがどのように暮らし、どのような文化があるのか、ほとんど知らなくても不思議に思わなかったのです。タイの「生きるための歌」のバンド、カラワンのメンバーのモンコンがはじめて東京にやってきて、わが家に滞在したとき、彼が熱いお風呂に入れないことを知ってほんとうにおどろいたものです。暑い国ではお湯でなく水をあびる習慣を知らなかったわけですね。
かつて日本はたくさんの植民地を持っていました。戦前や戦争中には今の日本とはまったく違う土地で育まれたこどもたちもたくさんいたはずです。少年少女だったかれらにとっては暮らしも文化も日々のものであり、植民地は「まぼろしの故郷」となりました。その具体的なお話が今月の「水牛のように」にあります。そういえばわたしの父も樺太の生まれ。そのような親たちのあまり表には出てこない「まぼろしの故郷」をきちんと知りたいと思います。

「水牛のように」を2003年11月号に更新しました。
「まぼろしの故郷」では水牛のことも親しく書かれていてうれしくなりました。「水牛」という名をもつこのサイトですが、水牛そのものが登場したのははじめてだと思います。東南アジアならどこにでも見られた家畜もだんだん少なくなっています。水牛通信をはじめたころ、タイでは日本から輸入される耕運機を「鉄の水牛」と呼んでいたことを思い出します。
初登場の宮木朝子さんは作曲家です。沖永良部で奄美自由大学の同じ「学生」としてともに何日かを過ごしたあと、東京のあるライブで再会したので、あの経験を書いてもらうことにしたのです。島にはサイサイ節という歌があり、お酒が出される席では、どんな小さな集まりでも最後はこの歌で踊っておひらきにすると聞きました。サイとは酒。酒をもっと持っておいでよ、飲んで遊ぼう、こんなにいい気持だもの、80歳まで生きるなら、飲まないより飲んで80になるほうがいいさ、というように、延々と続いていきます。島ではわたしも何度も踊りました。

「水牛の本棚」には藤本和子「過去を名づける」を。
1981年10月からほぼ1年をかけて、「女たちの同時代――北米黒人女性作家選」全7巻が出版されました。藤本さんはその選者で、すべての巻に選者としての解説を寄せています。この選集ではじめて紹介されたトニ・モリスン、アリス・ウォーカー、ゾラ・ニール・ハーストンなどの作品は、その後いろいろな作品が翻訳されて、もうめずらしいものではなくなりました。この選集は新刊としては今はすでに手に入りません。しかし同時代的な直接性をもった藤本さんの解説がこのまま目にふれなくなるのは、藤本さんのためというよりは、書かれたテキストにとってたいへん残念なことだと思います。そこでその解説の部分だけを順に公開していきます。
今月はその第一巻「青い眼がほしい」(トニ・モリスン、大社淑子訳)について。
本編の「青い眼がほしい」はその後早川書房のトニ・モリスンコレクションに入り、文庫にもなりました。

トニ・モリスン「青い眼がほしい」は次のようなものが手に入ります。英語はカセットやCDなど、聞けるものがあるのがうらやましい。「彼ら(黒人)は耳で聞かないと信用しないんじゃないか」とモリスンも言っています。
単行本(翻訳)文庫(翻訳)ハードカバー(英語)ペーパーバック(英語)カセットオーディオCD

「水牛通信電子化計画」は1986年7月号を公開しました。
坂本龍一さんが「僕はフリーのミュージシャン」と宣言しています。あのYMOはなかなかつらいものだったのですね。

今月のお知らせをひとつ。
『云々』江村夏樹さんのピアノ独奏『ロマンティック!』があります。
 ロス・ケーリ、港大尋、江村夏樹、バルトークの作品(演奏順)
 11月28日(金) 午後6時半開場 7時開演 原宿 アコスタディオに
 前売3000円 当日3500円
 前売予約、問い合わせ:太鼓堂 taikodo@wild.interq.or.jp
            ティコディコ tokidoki@ba.wakwak.com
 
太鼓堂の「今後のコンサート情報」に予約フォームのページがあります。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)



2003年10月1日

おとずれた
沖永良部の九月は東京のつめたかった八月をとりもどすのにじゅうぶんすぎるほどの暑さ。内部に水路を抱く隆起珊瑚礁の島には真昼の強い太陽があり、海があり、黒糖焼酎があり、踊りと三線があり、自生する可憐な花があり、ちいさなグァバの実がそこここで風に揺れているのでした。おまけに台風も来てくれて。古い墓石は島の珊瑚でできていて、古いほど美しく風化しています。死んだひとにお墓にちゃんと入ってもらうためには骨を洗います。奄美大島から来ていたひとはつい最近父親の17回忌に洗骨をしたといいます。土からとりだした頭蓋骨をきれいに洗うと、目の上のあたりには生きていたころのおもかげがあるのだそうです。洗骨をするためにはまず土葬するのですが、最近は死んで土葬にされるのも、死んだひとを土葬にするのも、あまり望まれていないらしい。敬老会ではムラの70歳以上のひとたちが公民館に招待され、ごちそうを食べながら、若者の歌や踊りでたっぷりと祝福されていました。この日のために遠くから島に帰ってきたひともたくさんいたのです。

さて、今月の水牛です。
まずは
トップページのイラストがすばらしいので、blogのみなさん、ぜひ見てくださいね。

「水牛のように」を2003年10月号に更新しました。
こうして並んでいる原稿を見ると、みんな移動しているひとたちなのだとあらためて思います。
初登場の地田尚さんは青空文庫の工作員のひとりです。掲示板というしくみにいまだに慣れることができない私は、毎日のように端正な文体で書き込んでいる地田さんにとても興味を持ちました。すぐに過去ログとなって埋もれてしまうのがもったいないとも思いました。ご本人にはやはりちゃんと下心があったのですね。

「水牛通信電子化計画」は1984年1月号を公開しました。
水牛楽団愛唱歌詩集といったおもむきの一号です。雑誌をひらくと、右のページに詩があり、左のページは柳生弦一郎さんのイラストがある、という編集になっています。イラストは顔一面にホネの模様があるひとや、全身がホネ模様におおわれたねこや、何ともいえないヘンなどうぶつのようなものや。これらもやがてはお見せしたいものです。詩は水牛楽団がレパートリーにしていたもののごく一部なので、つい歌いながら校正しました。長谷川四郎さん訳のロルカの詩に林光さんが作曲した「新しい歌」、パラオのアルフォンソ・ケベコールさんが日本語で書いた「戦さのはげしかったころ」、ハワイの「フジムラストア」、そして「パレスチナの子どもの神さまへのてがみ」など、なつかしく初演のころを思い出します。

「水牛の本棚」は今月も更新なし、です。
そのかわり、というわけでもないのですが、お知らせをふたつ。
「水牛のように」でおなじみの冨岡三智さんがジャワで作ったソロ作品「妙寂」を踊ります。11月19日、大阪市浪速区のArt Theater dBで。ちらしによると18時と20時の2回公演のようです。問い合わせはDANCE BOX 06-6646-1120、dancebox@rock.sannet.ne.jp。
電子本のイデオローグにしてボイジャーの社長萩野正昭さんのサイト「股旅ノート」がオープンします。今までなかったのが不思議なほどですが、萩野さんのこの10年間の軌跡と思想がぞんぶんに展開されていく予感。インターネットや本、それから映画に関心があるひとは必読です。公開まで少し時間差があるかもしれませんが、読みにいってください。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年9月1日

「本を読むってのは密やかな経験なんだ。だれかにあんなに近づけるのは、ほかにはセックスしかない。いや、セックスだってあんなには近づけない」(J・G・バラード)

「水牛のように」を2003年9月号に更新しました。
月のおしまいの日は水牛の更新のための作業をするという気持でむかえます。8月31日朝もそう思いながら朝日新聞をながめていたら、このコーナーでおなじみの国際ボランティアセンターの佐藤真紀さんの名前を天声人語と家庭欄の2箇所で見つけました。佐藤さんからの最新のメールではヨルダンで難民問題をあつかっているとのこと。どこにいても通信手段さえ確保できれば、かならず原稿が届くようになってすでに一年半くらいたつので、いまやそれが当然のようにも思えて、毎月心待ちにしています。「たった9歳の少年がおわされた苦悩はあまりにも大きい。戦争をやっている大人たちに実感はない。」
スラチャイの花の話が完結しました。いつかかれの朗読のCDも作ってみたいと思っています。もちろんタイ語で。よろこんで賛成してくれるような気がします。
ことしおこなう予定だった「可不可III」がすこしかたちをかえて戻ってきました。公演時期はまだ決まっていません。来年度の、たぶん後半のいつか。インドネシアと東京で。
青空文庫からのゲストは今月はお休みです。来月は誰が登場するか、楽しみにしていてください。

「水牛通信電子化計画」は1984年4月号、1986年6月号を公開しました。
水牛通信とそのの近くにいたひとたちの日記だけを載せることに決め、ガラリと誌面一新した最初の号が1984年4月号です。ネットではめずらしくもない日記という形式ですが、雑誌では画期的なことだったのです。こうして何人かのものがまとめられていると、同じ場面にいあわせた複数のひとが、同じようでいながらそれぞれほんの少しずれたことを考えていたことがわかります。1986年6月号は読書特集といったおもむき。独断と偏見による本の紹介はそれを読むだけでもおもしろいものです。
この2冊が意外にもネットにフィットしているのは、どちらもにもちいさな規模の収斂があり、そのためにゆるい編集がなされているからです。
青空文庫の蔵書がふえてくるにつけ、使う(読む)ための工夫があるといいと思ってきました。今月の2冊はそのためのヒントにならないでしょうか。たとえば、ある年をキーワードに複数の作品を集めて読んでみる。一つの作品を複数のひとで読んでみる。など。そうしたちいさな読書プロジェクトがたくさんあると楽しそう。せっかくの蔵書を活用しないとね。

「水牛の本棚」は夏休みです。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年8月1日

今月から「水牛だより」が水牛とaozora blogのふたつのサイトで読めるようになります。水牛も3年目になり、バックナンバーがふえてきました。同時におこなっている「水牛通信」の電子化もあります。たくさんのファイルの中から読みたいものをすぐに探すことができて、さらには水牛のワクをこえていけるよう、ブログという仕組みを研究し、取り入れてみたいと思うこのごろ。その手始めのこころみです。水牛でこれを読んでいるかたは
aozora blogを、aozora blogで読んでいるかたは水牛を、ぜひ訪ねてみてください。

ではいつものように今月の水牛について。

「水牛のように」を2003年8月号に更新しました。
7月31日朝に帰国した佐藤真紀さんのイラクだよりからはイラクのいまの暑さが伝わってきます。佐藤さんの視線は何にもとらわれることなく、自然なユーモアにあふれています。数え切れないほどのイラク情報ありといえども、こんなにおもしろいものは他にはないと思います。
スラチャイ・ジャンティマトンはタイのバンド、カラワンのリーダーですが、音楽だけでなく、詩や絵もかきます。芸術家というのがぴったりの彼の文章は、ふつうのタイ語とはちがって、彼独自の表現ばかりだと、翻訳者の荘司和子さんは言います。スラチャイの感じていること、イメージしたこと、思っていることを時間をかけて想像して思い描き、そしてそれに合った日本語のトーンや表現をさがす。楽しく、けっこうしあわせな作業だ、と。「こころの中の種々の煩わしさが樹の葉が落ちるようにとれたとき、人はまた新しくなる。」

「水牛の本棚」には数住岸子「音楽と旅と出会いと」を。
タイトルは新聞に連載されたときのもので、ありきたりな感じですが、なかみはありきたりではありません。1997年に45歳で亡くなったバイオリニスト数住岸子さんが録音や印刷という保存方法で残したものはとても少なく、この先一冊の本にまとめられることもなさそうなので、それならだれでも読めるようにしておこうと思ったのです。生前の彼女には実際の年齢とは関係なく、だれよりも年上という感じがありました。まるで明治か大正のころのひとのようだと思ったこともあります。いまという時に順応できずにいる感じは、不自由そうなものとしてわたしの目にうつったのですが、たぶんそれゆえの自由も持っていたにちがいないといまは思います。そんな振幅のおおきさが伝わってくる文章です。

「水牛通信電子化計画」は1986年5月号を公開しました。
当時40代、50代をむかえ、あるいはむかえつつあった編集部ではみんなでひとつのところに住まい働く、という計画が浮上していました。それが水牛倶楽部計画です。全員ふらふらとしていて、企業や組織に属しているひとがいなかったので、年金というようなものに頼ることもできず、もちろんゆたかな貯蓄を持っているひともなく、年をとったら自力相互扶助でいくしかないとでも考えたのでしょう。アイデアだけで実現しなかったのは、だれも真剣ではなかったからか、場所を探すのが困難だったからか、ま、両方ですね。
坂本龍一「教授」の初のコンサート・ツアーの報告もあります。なにやら初々しい。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年7月1日

「水牛のように」を2003年7月号に更新しました。
タイもイラクも東京もミラノもスラカルタも暑い日々のようです。イラク南部のバスラの暑さは、高い気温に劣化ウランや黄色い砂塵も加わって、ほかの地の暑さとは濃度がちがう感じがします。とはいえ、そこに生まれたこどもにとってはそここそじぶんのいるところなのですね。佐藤真紀さんからのメールには「7月4日には岩波ブックレットからカラー版『子どもたちのイラク』が出版です。オールカラーでイラクの写真と子どもたちの絵が載っています。是非ご覧ください。」とありました。
大野さんが書いているように、WEB=本の新しい形、それもインディーズとしての、とかんがえると、テキストが同人誌(これまでの本のインディーズ)の内輪の関係のようなものから解き放たれるかもしれません。
ジャワのクリスマスはジャワの濃厚な匂いに満ちているようで、教会で寄付を募る箱を廻す人に舞踊振付をした、というのなど、きっと優雅なものでしょうね、ぜひ見てみたいなあ。

「水牛の本棚」には高橋悠治「ロベルト・シューマン」を。
『ロベルト・シューマン』(青土社1978年)から「ロベルト・シューマン」の部分だけ公開します。シューマンの時代を、25年ほど前の(当時としては「いま」の)政治的状況でとらえなおして、音楽の意味を探ります。ゴリゴリの政治的語彙なども登場しますが、いまでも有効な部分もあると思います。ここに書かれている解放のイメージを、ほんの少しかもしれませんが、インターネットが実現しているとも感じます。書いた当人は「中途半端だった」と述懐していますが。藤本和子『砂漠の教室』と同じ年に出版されたことにもはじめて気がつきました。

「水牛通信電子化計画」は1986年4月号を公開しました。
またカラワンについての座談会があったので、校正をしながら当時のことを飽きもせずに思い出し、飽きもせずに笑ってしまいました。坂本龍一さんが書いている『デモ・テープ』というLP(!)の話は楽しい。「自宅録音派のネットワークも作ってあげたい」とあるけど、できたのかしら。
デイヴィッド・グッドマンの「走る」には、今はすでに亡くなったおかあさんが、そのとき65歳になるのを極度に恐れて、ノイローゼ気味になっている、とあります。ふとまわりをみまわすと、ことし65歳のひとがたくさんいるではないか。いつのまにかこうして過去を追い越していく……、ノイローゼ気味になっていないか、よく観察してみよう。

水牛のCDは水面下で(笑)、いくつかの計画がすすんでいます。遠からず、ことしのリリースをお知らせできると思います。待っていてください。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年6月1日

「水牛のように」を2003年6月号に更新しました。
閉ざされたこの国の、なかでも閉ざされた東京という都会に住み、日々あふれるニュースにまみれていると、世界を見失いがちになります。報道されることよりも、報道されないことのほうが圧倒的におおいのだから、世界は(まだ)そう単純ではないのです。そのことを思い出すきっかけがここにはたくさんあると思います。

きょうから新しいCDを販売します。
「ケージ(リ)ミックス CAGE(RE)MIX」(高橋悠治リアルタイム11)はジョン・ケージの9つの曲による高橋悠治と高橋アキのピアノ・ドゥオ。ケージをさらにケージする、というのがタイトルの意味のようです。ピアノだけでなく、ラジオやトイピアノ、ウォーターゴングなどが使われています。高橋アキのヴォーカルも聞けます。

「水牛の本棚」は今月はおやすみです。
しばし藤本和子さんの『砂漠の教室』など、何度でも読んでいてくださいね。

「水牛通信電子化計画」は1987年12月号を公開しました。通信最後の101号であり、「可不可」のプログラムとしてつくったのですが、「可不可」に関係があるようなないような、なんというか、まったく統一がとれていません。編集したのは鎌田慧さんです。

「可不可」制作ノートもおやすみ。延期してからまだ目立った動きがないのです。

「本とコンピュータ」に短い原稿を書くことになって、水牛と青空文庫のことなど、すこしあらためてかんがえる時間がありました。インターネットのサイトは更新するたびに確実に肥大していきますが、情報がふえるのはいいことづくしなのかどうか、疑問もあります。いつまでもちいさく軽い水牛であらねば。
5月のなかばにカラワンのスラチャイとモンコンがやってきました。会ってしゃべって飲んで食べて笑って。会っているみじかい時間のなかに人生のすべてがあると実感したのでした。ふたりは肩書きはもちろん家庭やこどもにもしばられない(ように努力してるのかな?)、「ただのひと」として生きていることに、いつも感銘を受けます。来年はカラワン結成30周年なので、きっとまた豊田勇造さんたちとのツアーが企画されるのではないでしょうか。そうなったら、水牛もすこし手伝おうと思っています。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年5月1日

「水牛のように」を2003年5月号に更新しました。
書き手が10人というのは新記録ですね。いつのまにか、こうなりました。すごい!
佐藤真紀さんからのメッセージ。「とりあえず10日バグダッドにいて戻ってきました。なんだかへとへとになっています。いろいろ悲しい現場に出くわしました。いろいろ整理しないと大変です。イラクの人はもっと大変でしょう。だって価値観が一日にして様変わりしてしまうのですから。」
藤井貞和さんはまず日本語で書き、それをポルトガル語に翻訳して原文とし、そこからさらに日本語に翻訳するこころみ。はじめの日本語は公開しません。優しい日本語になったと藤井さんは言います。センテンスの間が2字分あいているのは最近の藤井さんのスタイルです。
北中さんのDJを聞けるのは、「ワールド・ミュージック・タイム」。毎週日曜日の夜9時からNHKFMで。
青空文庫からは大野晋さんを紹介します。大野さんは同姓同名の有名な国語学者とは何の関係もない、まったくの別人です。3月に国会図書館で「電子図書館連絡会議」があり、青空文庫にも参加の要請がきました。どうせ参加するなら青空文庫のひとたちの声を届けたいと思って呼びかけたところ、何人かが電子図書館についての考えを書いてくれました。大野さんもそのひとりで、今月の原稿はそのときのものが元になっています。
御喜美江さんと高橋悠治さんがこのコーナーに帰ってきました。

時事通信の記者の渡辺航さんから問い合わせが来て、トルコからの平和のためのメッセージについての記事がいくつかの地方新聞に掲載されました。渡辺さんはこのメッセージを発信したイナン・オネルさんに会い、きちんと話を聞いてくれました。かんじんの発信元があやふやになったチェーンメールが行き来していたようなので、渡辺さんの新聞記者としての姿勢に敬意を表したいと思います。

「水牛の本棚」では藤本和子『砂漠の教室』が完結です。
「わたしという単独の人間の行動の軌跡を、わたしは後生大事に守りたくない。じつはそれはどうでもいいと思う。文章を書くにしても、自分の名を被せることだっていらない、と思う。重要なのは、それがわずかでも広がりをもつことができるかどうかということだけである。特殊性を掘らずに、ことを一般化しようというわけではない。特殊性にこだわり、そこに沈んでゆくことで固い具体性を手に入れたいが、その具体性が孤立させられ個におしこめられてしまうだけではつまらないと感じるのだ。」

「水牛通信電子化計画」は1987年9、10月合併号を公開しました。
9月号を編集しなければならない時期に藤本和子さんとデイヴィッド・グッドマンさんをアメリカに訪ねていたために、二月分を一冊にして出した号です。60ページありますから、ふだんの倍ちかい分量。アメリカには矢川澄子さんもいっしょに行きました。矢川さんが亡くなってちょうど一年、計算したわけではないのですが、たまたま亡くなったこの時期に矢川さんの「K・Fへの手紙――妊娠中絶は文化たりうるか・仮稿」を公開することになりました。さらにこの原稿は、ちょうど本棚で公開中の『砂漠の教室』のなかの「ヨセフの娘たち」とおおいに関係があります。
『砂漠の教室』の藤本さんの「十三のとき、帽子だけ持って家を出たMの話」もぜひ。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年4月1日

「水牛のように」を2003年4月号に更新しました。
先月はヘルペスで苦しんでいた佐藤真紀さん、しばらく東京で療養するのかと思ったら、「イラクが緊張しているのでまた現場に向かう予定です」というメールが3月2日に届いたのでした。戦争がはじまってから毎日のようにイラクに滞在している日本人の数が報道されています。佐藤さんはその中のひとりなのかと案じていましたが、バクダッドには入ることができず、アンマンで難民救済のために働いているそうです。
冨岡三智さんの踊るジャワ舞踊、見てみたいですね。北中正和さんが紹介してくれたウスタッド・マフワシュ、アンサンブル・カブールやググーシュも北中さんのDJで聴いてみたい。いつか機会があるでしょうか。待っていても機会がやってこなければ、やはり自分で作らなければなりません。そういうちいさな集まりがあれこれできそうな気がしませんか?
御喜美江さんの原稿を待っていてくださる方は先月につづいて今月も失望ですね。エッセイによく登場していたお父様が2月のおわりに亡くなり、3月は日本での演奏活動でいそがしく(でも元気に)していて、書きたいことは山ほどあるけれど、まとめる時間がないということなので、今月は特別充電期間としました。来月には「水牛のように」に帰ってきます。楽しみにお待ちください。これまでの連載をまとめた『たんぽぽ畑II』は無事に完成しました。ご希望の方はご連絡ください。小さくあることの極みのような冊子で、800円です。

「水牛の本棚」には藤本和子『砂漠の教室』の続きを。
「山岳の村」に焙り焼きの鶏、さまざまなサラダ、山羊乳のチーズ、そして紙のように薄く、風呂敷のように大きいパンという、おいしそうな食べ物のことが出てきます。イラク料理を食べに行ったという佐藤真紀さんの話とまたもや不思議に近しい感じがしたのでした。

「水牛通信電子化計画」は1987年8月号を公開しました。
室謙二、松岡裕典、市川昌浩、粉川哲夫、津野海太郎の座談会「オンライン雑誌WENETをはじめた」は今読むと、とてもおもしろいものです。なにしろ1987年のオンライン雑誌の話です。「コピーライトの問題も考えた。パソコン通信を二年ぐらいやってわかったんだけど、あそこに書いた途端に、みんな、コピーライトはなくなったと思っちゃうんだな」と室さんは言っています。黎明期の発言ですね。わたしのパソコン通信初体験はWENETの発展したものだと思うのですが、室さんや松岡さんたち同じメンバーになる「大海通信」でした。江戸川同潤会アパートの室さんの部屋に鎮座しているサーバーを見に行ったこともありました。住んでいるひとのあまりいなくなってしまった古いアパート。かつての最先端の共同生活の場が自然に朽ちつつあって、サーバーにも雨漏り対策が必要なのでした。……とんでもなく大昔を回顧している気分。

「可不可」制作ノートは少しずつ……。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)



2003年3月1日

「水牛のように」を2003年3月号に更新しました。
トルコからの平和のためのメッセージは、東京に住むトルコ人のイナン・オネルさんからメールで送られてきたものです。日本語の訳はイナンさんのものかもしれません。ほかにも戦争反対のメールはいくつかもらいましたが、最後に自分の署名をして、それから誰かに転送するというシステムでした。トルコからのものは午後8時になったら電灯を一分間点滅させ、なんでもいいから音をたてるというところが想像力を刺激します。この地球のどこかはいつでも午後8時を差しているわけですから、8時の地域が移動するにしたがって、ちかちか点滅するひかりと音もずっと地球上をめぐってずっと続いていることになります。「生きていることの繋がり、こころくばりや愛、やさしさや助けあうこと、それは美しいことで、境界がないし、あらゆるものを飛び越えていける小鳥のように自由だからだ。」スラチャイは書いていますが、8時の電灯の点滅と音のつらなりはそのひとつの具体的なイメージといえるのではないかと思います。

「水牛の本棚」には藤本和子『砂漠の教室』の続きを。
みじかいエピソードは現実におきたことなのに夢のよう。
また、サルドノ・W・クスモの「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」の日本語訳について冨岡三智さんが指摘してくださったいくつかの点を直し、改訂版としました。

「水牛通信電子化計画」は1987年7月号を公開しました。

「可不可」制作ノートは公演延期のお知らせです。

「パンダ来るな」をつくったとき、藤井貞和さんは無冠の詩人でしたが、『ことばのつえ、ことばのつえ』(思潮社)で歴程賞に輝き、さらに高見順賞を受賞しました。藤井さん、おめでとう! そのうち国民的詩人になってしまうかも……。

3月恒例の御喜美江「アコーディオン・ワークス2003」は次のとおりです。ぜひおでかけください。
3月26日(水)19:00開演(18:30開場)東京文化会館・小ホール
全席指定 前売3500円/当日4000円(消費税込)
お問合せ/コレクタ 03-3239-5491
【曲目】
ドメニコ・スカルラッティ ソナタ K.159, K.52, K.1(アコーディオン・ソロ)
江村 夏樹「月を見ながら歌をうたうか」』委嘱新作初演 (アコーディオン・ソロ)
野村 誠「FとI」(アコーディオン・デュオ版 世界初演)
アンジェイ・クシャノフスキー「エコー」(アコーディオン・デュオ 日本初演)
アストル・ピアソラ タンゴ数曲(アコーディオン・ソロ)
林光「それがわかったら」〜アコーディオンと四人の奏者のための(2001)

*御喜美江による「ミニミニ・インタビュー」あり

【出演】
御喜美江(アコーディオン)/大田智美(アコーディオン)/山田百子(ヴァイオリン)/溝入敬三(コントラバス)/岩佐和弘(ピッコロ)/大澤 昌生(ファゴット)

この日に『たんぽぽ畑II』が間に合えば、わたしはロビーで販売しているはずです。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年2月1日

ことしは東京もひさびさに寒い冬。天気図や天気予報を見るのが好きです。じぶんのところだけでなく、友だちの住んでいるところの天候もチェックをかかしません。トップページのイラストでおなじみの柳生弦一郎さんの暮らす信州黒姫は、このところずっと雪マーク。ふかい雪のために、集配をしてくれるゆうびんやさんが難儀をしているようで、今月のイラストははじめて電子データで届きました。いつもはA4判のコピー用紙に黒い部分だけ印刷したものに、色が塗ってあります。蛍光色にちかいサインペンのあざやかな色は、スキャンするとにごったものになってしまうのがたいへん残念です。いつか原画展をやりたいと思って、かわいいのや、きもちわるいのや、これまでのいろいろはだいじに保存してあるのですが、今月のはどうしよう?

「水牛のように」を2003年2月号に更新しました。
小泉英政さんが育てる野菜を食べ続けて20年以上たちます。野菜は年ごとにうつくしく、そしておいしくなってきました。今月の原稿は、野菜といっしょに段ボール箱に入って届いたものの一部です。地球上のものは有限だから、水も肥料もできるだけ使わない。「考える野菜たち」は成田空港のいわゆる未買収地で育っています。小泉さん夫妻は成田空港建設に反対して、ただひとり自宅と土地を強制収用された小泉よねさんの養子になり、25年かかって、よねさんの畑をとりもどしました。去年暮れのことです。畑は空港公団の所有地のなかにあり、所有権に近い使用権で、期限はもうけていないそうです。「永く耕していきたいと思っています。」と小泉さんは言います。

「水牛の本棚」には藤本和子『砂漠の教室』の続きを。
今月公開した「ヨセフの娘たち」は『砂漠の教室』のなかの白眉だとわたしは思っています。

「水牛通信電子化計画」は1987年6月号を公開しました。
高橋茅香子さんの「マイ・ホビー」という連載がこの号からはじまっています。「仕事をしながら子供を育てるのは大変ではないか、とよく聞かれる。大変ではない。ホビーなのだから。」「ホビーはそれ自体が楽しいだけでなく、生活をどんどんふくらませてくれる。人生、マイ・ホビー。」愉快、愉快。

ちいさくて印象的な印刷物が最近いくつかわたしの手元に届いたので、ちいさな規模の出版の可能性について、性懲りもなく、またかんがえてしまいます。印象的な印刷物は3つ。ひとつは片山令子さんの「エンジェル」という詩のリーフレットの11号め。正方形の紙を2枚重ねてふたつに折っただけの8ページのもので、片山さんの詩が5編載っています。次は鶴見俊輔詩集『もうろくの春』、京都の編集グループ〈SURE〉による手製本300部限定版、80ページ。本屋では売らずに、編集工房から読者へ直接送る、いわば本の産直方式をとっています。3つめは世界で唯一の目録愛好フリーペーパー『モクローくん通信』。物数奇工房の南陀楼綾繁さんと内澤旬子さんがつくるA4判一枚の通信に古書目録のヘンな世界があふれています。
水牛としては、御喜美江さんとわたしの希望が一致して、ことしも『たんぽぽ畑』を出版することにしました。3月に予定されている御喜さんのコンサートに間に合わせようと計画しています。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)


2003年1月1日

あけましておめでとうございます。水牛にもなんとか3年目の春がめぐってきました。2003年はどのような年になるのでしょうか。世界にあかるい材料はあまりありませんが、死にゆくその日までは生きているこの世、だれもが穏やかにいられるところであるようにと願わずにはいられません。

「水牛のように」を2003年1月号に更新しました。
新年といっても特別な趣向はありません。いつものように、各人各様、それぞれの窓が世界にひらいています。どうぞ楽しんでください。初登場のもりみつじゅんじさんは青空文庫の耕作員のひとりです。あまたの耕作員のなかでわたしはもりみつさんのファンなのですが、原稿を読むとその理由がわかっていただけると思います。

「水牛通信電子化計画」は1987年5月号を公開しました。
長谷川四郎さんがこの年の4月に亡くなって、津野海太郎が追悼文を書いています。しみじみと再読しました。火種となった富山妙子、みちのくを旅する鎌田慧と、みな今とあまりかわらないスタイルです。あのころとくらべてみると、歩くひとりものだった津野さんの結婚が最大の変化かな。

「水牛の本棚」には藤本和子『砂漠の教室』の続きを。
ここには1970年代のイスラエルに生きる人たちの姿があります。「水牛のように」で佐藤真紀さんが書いているパレスチナ人オムリの話とおなじように、それは政治からけっして自由になることのない、ふつうのひとびとの現実の姿です。

「可不可」制作ノートはまだほそぼそと、でも一応更新しました。

先月、わたしが通った高校で暮らしていたクロという犬について書いたら、たくさん反響(?)をいただきました。御喜美江さんの学校にはシロという白い犬がいて、クロとおなじように文化祭の受付を担当したということでした。おお、同志! 自分の意志で好きなところで好きに生きているクロやシロは人間もふくめた動物のカガミではないでしょうか。
高校は長野県松本市にありました。14歳から18歳までの多感な時期(笑)をあの街ですごしたことは幸運だったかもしれません。山と空がいつも静かに周りにある街で暮らすと、自然にたいするセンスが身について、自分のことを相対化できるのです。去年の冬のすばらしい快晴の日、東京から乗った金沢行きの飛行機が、あのころ毎日見ていた山々の上を通りました。地上からは稜線のかたちを山として見ているわけですが、上から見るとそれは地面の襞で、その襞は折り重なっていくつも続いているのでした。雲におおわれた日本海側の平地に出るまずっと、窓から下をのぞきっぱなし。慣れ親しんだ景色を別な角度から見るのは不思議におもしろい体験で、3D映像のように、北アルプスを感じることができるようになったのでした。

それではまた!(八巻美恵 suigyu@collecta.co.jp)



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