『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    シューマン論の計画


シューマンについて書くことを計画したのは二年前だ。その時から考えていた作業仮説は次のようなものだった。

主題は革命の時代の芸術家の生き方だ。ロベルト・シューマンは政治運動にかかわったことはなかったし、かれの住んだライプツィヒやデュッセルドルフは十九世紀ヨーロッパ世界では周辺の位置にしかなかった。文化の中心地だったとさえ言えないだろう。シューマンは内省的な人間と考えられ、個人的な幻想にふけり、外部のことには関心がなく、若いころは多少ボヘミアンだったが、やがて理想的な家庭にこもって作曲に専念した。一八三〇年代のピアノ曲のロマン主義のスタイルは「歌の年」と呼ばれる。一八四〇年の歌曲集の連作の後、古典的な形式に向かうがあまり成功せず、やがて聴覚に異常をきたして精神病院で死ぬ。こういうシューマン像に対して反論することができる。

シューマンは動乱の時代の周辺に生きたとしても、この時代に最も忠実に生きた。芸術の革命が革命の芸術だと信じることのできた下層知識人の先進的な部分に属していたのだ。かれのロマン主義は、生活を恋愛で分裂させ、しごとを作曲と批評に分裂させ、批評のなかではジャン・パウルにならって発明したフロレスタンとオイゼビウスの二重人格をつかいわけ、対立する二面の相互関係をバネにして運動をつづけた。かれの活動はフランスに七月革命が起こり、ドイツの自由主義が目覚めた一八三〇年から、一八四八年のドイツ革命がブルジョワジー上層に裏切られる日々にわたる。

一八四〇年はシューマンの転機だった。二元的分裂は一つに収斂する。禁止された恋から結婚へ、批評活動をすてて作曲だけに。フロレスタンとオイゼビウスは去った。音楽もめまぐるしい気分の変化をつづけながら幻想をくりひろげるのではなく、一つの気分にとらわれた単調なものに変っていく。

やがて狂気が姿をあらわすのだが、その原因をめぐっては、伝記作者や精神病医たちが論争をつづけてきたし、大作曲家がこんな病気で死んではこまるという権威主義がからんで資料をかくす人々もいて、定説はないが、脳梅毒にほぼまちがいはないだろう。芸術家が宮廷使用人や寺男や旅芸人であった時代と、市民社会の中層に安住できるようになった現代との中間では、梅毒の水銀療法で内蔵を破壊されて死ぬか、治療が間にあわずに脳を犯されて死ぬのはめずらしいことではなかった。娼婦なみの地位から娼婦を買うカネがもてる地位によじのぼった者たちのはらった代価だ。この真実は後代の芸術家の権威のためにかくしておかねばならなかった。

シューマンの症状は、やはり一つのものにとりつかれる傾向をしめしていた。一つの音が耳のなかで鳴りつづけ、一つのメロディーやリズムがいつまでも反復された。異質な要素の対立、内声部の相対的分離、リズムのずらし方などの初期の方法を放棄した後で落ちこんだ単調さのはてに予想されたもの、統一による運動の停止がそこにあった。

かれは自分のしかけたワナにかかった。ロマン主義的原則が遠ざかる女をもとめ、秘教としての古典さを設定していたのに、おもいがけず実現した結婚は生活も芸術も牢獄に変えてしまった。ブルジョワ家庭の安定をもとめる妻であり、子供製造器であり、アカデミックなピアニストであったクララに強制されて対位法の勉強にはげみ、シンフォニーや弦楽四重奏曲のような古典形式をムリしてつかい、夫婦交代でつける日記を通じて監視されていたのだから、しかも内省的になるのと平行して、教師や指揮者のように性格的にあわない職業で家計を支えなければならなくなったのだから、気ちがいになってあたりまえだ。

クララ・シューマンはドイツ・ロマン主義音楽の進歩性を反動に転向させた力の象徴のようなものだ。結婚した男が転向し切れずにダメになってしまうと、ブラームスにのりかえた。ハンブルクの酒場からあらっぽいが生き生きした音楽をもちこんできた若い男は、批評能力をうしなっていたシューマンが十年ぶりに書いた無内容なおだてことばにその気になり、シューマンの家庭をひきつぐことに失敗すると、反動の都ウィーンに定住して、没落階級の悲歌を作曲する老人になった。

クララはシューマンの作品に加筆して古典的な形式に押しこみ、手紙や日記の出版を事前検閲し、一八四八年のドレスデン蜂起を見たシューマンが長年抑圧されてきた意志をよみがえらせて書いた一連の作品のうち、政治的に危険なものの出版を禁止し、『森の情景』のように象徴的な形式によるものは、恐らく作品のカギとなったにちがいない、各楽章につけた詩を切りとって出版した。ピアノのための四つの共和派のマーチは、ただのマーチとして出版され、男声合唱とブラスバンドのための『自由の歌』、『黒か赤、金』、『武器をとれ』の三曲は、一九一三年にフランスの音楽雑誌の付録としてはじめて出版された。

シューマンの最後の作品、精神病院で完成された『天使の歌による変奏曲』が出版されたのは一九三九年だ。おなじ主題によるブラームスの変奏曲の方はすぐに出版された。

一九三〇年に出発した作曲家たちにとっては、芸術の革命と革命の芸術はおなじことだった。一八四八年には、そうはいかなかった。政治と芸術の分離過程は完了し、音楽市場は商品提供者の孤立を支配の必要条件とした。芸術の革命は反動の芸術になった。

シューマン論のための仮説が見のがしていたのは、この変化だった。以上で大体種あかししてしまった仮説を検証していくしごとは、一冊の本になることもできただろう。その予定される結論は、シューマンのしごとを音楽とことばの矛盾、創造と批評の矛盾をつくりだしながら運動を継続していく方法の有効性としてとらえる。それは歴史的限界を無視した一般化だ。方法は現在の具体的な状況のなかからしか生まれない。過去の方法をうけついで現在の現象に適用するのはまちがったやり方だ。過去が提供するのは方法ではなく、事実にすぎない。意味ではなく形、関係ではなく要素だ。それはこれから読みかえられるべき古い物語だ。

古い物語を書きかえるのは、現実から学んだことを検証するためだ。同じ物語にかえって、くりかえしくりかえし書きなおす。そのたびに理論はたしかな手ざわりをもつだろう。中国の孔子批判の歴史を見よ。孔子批判がまた書きはじめられ、前回の批判につけ加えられて全体として一層徹底した形をとっていくのは、いつも中国の自己解放のあたらしい段階のはじまったしるしだった。その批判はいつも孔子を通じて、現実の敵を打っていた。うしろを向いているように見えても、ねらいは前面の的にしばられていた。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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