『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    クラインのつぼ


世界は変った。意識はたちおくれている。それは変化にまだ気づいていない。頭は足のある場所を知らない。これが現在の状況だ。突破口はどこか?

人民の声は、日本では沈黙している。現実をみる眼はくもらされている。政治と文化の統一が方法として可能なら、一八三〇年のブルジョワ同伴者のように、政治的行動を待っている必要はない。文化は人間をつくる。かんがえ方、感じ方を変えずに、変革の行動はありえない。文化的行動は暗い時代にあっては先に立つ。黒い炭は闇をもやし、明日の火となる。


メビウスの帯というものがある。長方形の紙を一回ねじり、上端を下端に、下端を上端に逆にかさねてはりあわせる。これは二次元だが、二次元ユークリッド空間のなかでは実現できない表面だ。上側のフチを指でたどって一周すると、下側になっているだろう。表面をたどっていけば、裏側にでるだろう。

クラインのつぼは、中空の円筒を一回ねじり、両側の口の部分を左右が逆になるようにはりあわせるとできる。これは三次元空間のなかでは実現できない。このつぼに左手をいれると、右手になってくるだろう。内側に向ってすすめば、外側にでるだろう。


六十五万といわれる在日朝鮮人の文化創造の可能性。日本帝国主義によって強制連行され、あるいは祖国で生きる道をとざされて日本にいる者たちとその子孫。日本帝国主義はまだかれらの祖国の分断を永続させようとたくらんでいる。かれらの状況は、現代日本のさまざまな抑圧や差別のなかでも独特なかたちをしている。日本帝国主義が外側へ拡張するだけ内側へまきこまれてゆく、よじれた空間に、かれらは生きる。

この地点で、一つの文化がうまれるとしたら、それは日本への同化をこばみ、内側から日本的なものにけわしく対立する一本のトゲになるだろう。このトゲはトンネルであり、トンネルは暗黒の地下をくぐりぬけ、その先は星空のかなたに消えている。すべてをうらがえし、とざされた状況を解放された空間につくりかえるクラインのつぼだ。

このトゲをつくりだすことは、日本自体の文化にとっても、たいへん重要な作業だ。この地点での空間のよじれは、いわゆる日本的なものが中空のニセものにすぎないことをおしえる。日本を発見するためには、このトンネルをくぐりぬけ、日本を外側から見ることのできる視点に到達しなければならないだろう。外側の眼になり切ったとき、それが日本文化の最も内側にあることだ。

日本人自身が、日本にとじこめられた異邦人であることを自覚しなければ、文化の解放はありえない。

これは、古代日本文化をつくりだした朝鮮文化の影響のはなしではない。抽象的な変革の図式からみちびかれた根拠のない予想でもない。日本語で書く在日朝鮮人の詩人や作家は、日本語をつかうことについて、自分の書く日本語に対して、たえずみずからの立場を問わずにはいられない。日本語がきびしさと笑いをそなえた表現力を維持できるのは、このようにことばを対象化し、問いつめる努力なしには不可能だ。日本の成り上り者の文芸評論家がかれらの日本語のかたさをとがめようとも、そこにはことばの感情がある。やさしさが怒りであり、熱狂とひややかさが同居する。花であり、炎でもある。


メビウスの帯を中心線にそってハサミで切りはなすと、二つのメビウスの帯ができる。クラインのつぼをオノでまんなかからわれば、二つのクラインのつぼになるだろう。分断しようとすれば、かえって増殖する。打ちこまれたネジを引きぬくことはできない。ねじられた構造はつよい。

実際には、内側から反転して外側へひらかれるようなこの構造は、自然発生的にうまれはしない。現実政治にしたがう文化は、政治が分断したものをむすびつける力をもつはずの、政治と文化の統一体の文化戦線をになうことはできない。

在日朝鮮人の文化が確立されるとすれば、それは第一に在日朝鮮人大衆に向ってひらかれた文化になるだろう。差別を日本人に向って告発するだけでは、それは朝鮮人の状況にかかわる日本文化の一部として吸収されてしまう。異邦人としての自覚を個人の上にひきうけた知識人は、心のなかで三十八度線を再生産することになるだろう。ここに必要なのは一人のショパンではなく、たくさんの無名な民衆の歌い手だ。普遍的な価値をめざしてダラクすることではなく、民族性を尖鋭にすることをめざす。過去の民族文化遺産をくいつぶうのではなく、生活のなかでたえずつくられる思想の芽から発展する民族性のために、どこよりも先に、ここでは生活からはなれた文化を、生活のなかにかえす方法をかんがえよう。いままでのカテゴリーをこえたむすびつきが実験され、小さな実験をつみかさねていくうちに文化的な拠点がつくられる。

拠点はいまある文化組織の内部にあるのではなく、それから分離する別の組織を立てるのでもない。これは結び目であり、連絡場所であり、やがては広場になるだろう。

こうして、日本のなかに異邦人の風が吹きわたる日をゆめみる。この風は風を呼ぶだろう。広場には在日朝鮮人文化を核として、抑圧に反対し、支配文化に対立する、あらゆる人民の文化が姿をあらわすだろう。そのとき、日本の内側にささったトゲは、外に向ってひらかれたトンネルになる。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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