『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    芸術運動と機関誌 一八三〇年


「一八三三年の終り近く、ライプツィヒに、一群の主に若い音楽家たちが毎晩、偶然のように集ることになった、……」

シューマンは一八五三年の終り近く、かれの文集の序文に書いた。
「当時のドイツの音楽状況はゆかいなものだったとは言えない。劇場はまだロッシーニが支配し、ピアノではほとんどヘルツとヒュンテンになった。ベートーヴェン、C・M・フォン・ヴェーバー、フランツ・シューベルトが死んで何年もたたなかった時だ。メンデルスゾーンの星はのぼりつつあったし、ポーランド人ショパンはすばらしいとうわさされた。――だがこれらが持続的な影響を与えたのはまだ先だ。
 そこで、ある日、若者たちの熱狂する頭は考えた。ぼんやりながめているのはよそう、改善にとりかかろう、芸術の詩精神の名誉をとりもどそう!――こうしてあたらしい音楽雑誌の創刊号ができた。」

一八三四年四月三日に創刊された〈音楽新報〉のために計画された序文で、シューマンは書いた。
「芸術家を研究したいなら、仕事場をたずねよ。芸術家をはげますメディアをつくり、直接の影響だけでなく、ことばと文章を通じて影響をあたえ、かれの眼が見、かれの精神が体験した最上のものを書ける公的な場所、一面的でウソの批評から身をまもることができ、さらに正義と不偏不党性をまずまもるための雑誌こそが必要ではないか。」
「音楽についての文章だけをあつかう、現行のきわめて尊敬すべきメディアの利点を、編集者たちが認識したがらないのはなぜか。いま芸術家が批評家に要求できることがらが知られていないという欠点や、芸術への熱意がさめつつあることを書くどころか、一方では、音楽の分野が量的にこうひろがっては、個々にあつかうことは不可能であり、他方では、何人かの共同作業では、時がたてば脱退する者も多く、そのかわりに別な考えの者が加入し、最初の計画は忘れられ、ついにはだらしのない一般性におちこむのが当然だとおもっている。」
「私たちは芸術家であり、芸術愛好家として、老若を問わず、長年つきあい、本質的におなじ視点をもち、この雑誌の刊行に協力した。」


十八世紀にあった少数の音楽雑誌は作曲家の個人通信であり、同業者と友人にあてた自己宣伝と敵の中傷だった。十九世紀には音楽ジャーナリズムは個人の手から楽譜出版社にうつされ、多少ともその利益に奉仕するものとなった。作曲家は、宮廷や教会の使用人ではなく、出版契約によって生計をたてるようになった。パトロンのための私的な集りでなく、不特定多数の聴衆に公開される演奏会の形が発達し、同時に出版社の力も大きくなった。

雑誌は、音楽論、出版された楽譜や、上演されたオペラの批評、他の都市からの通信、楽譜の広告でできていた。これはいまでも変らない型だ。楽譜出版社が出資しているから、当然その社の楽譜を売るための御用批評が中心になった。それでなければ、歴史的役割を終えた美学にしがみついて、若い世代を非難する、少数の反動派が権力をにぎっていた。

シューマンが自分の雑誌の必要を感じたのは、一八三〇年代のドイツの、この状況に対してだった。一時的な商業的必要にしたがうか、反動路線にのみこまれるのではなく、自分の声をもたなければならない。それは作曲活動をつづける上にも必要条件になりつつあった。やとわれて、もとめられる音楽を書いて演奏しているのではなく、市場の自由競争のなかに放りだされ、特定な演奏家との個人的なむすびつきの幸運や、その限界にたよらず生計をたてるために、シューマンは個々の作品について出版者を説得し、出版された楽譜は解説つきで批評家に送ることをくりかえした。作品を書くだけでなく、それを説明するてがみを演奏家や出版者や批評家に書くことは、十九世紀の作曲家のしごとの重要な部分をしめていた。

しかし、個人で個々の場合についてそれをくりかえしていては、作曲家は出版社や御用批評家に支配されてしまう。流行にあわせた使いすて商品である「ピアノ変奏曲」のたぐいを次々につくって満足するのでなければ、自分の音楽の方向を宣伝するために、作曲家が批評家になる方がよいだろうが、それも個人では、すでにあるメディアに加入し、少数派の声という補足的な役割に満足しなければならない。

シューマンは少数派を組織して雑誌という公的機関をにぎった。一八三四年四月に創刊された〈ライプツィヒ音楽新報〉はシューマンの友人のピアニストであるユリウス・クノルを編集長として、いわばライプツィヒ良識派の連帯にもとづく同人誌として出発したが、シューマンはこのかたちには不満だった。週二回発行される雑誌の編集実務は、かれ一人が負わなければならなかった。かれは交渉をかさね、おそらく相続したカネを有効につかって、編集権を独占した。一八三五年から雑誌は〈音楽新報〉と改名し、シューマンは一八四五年にその職をフランツ・ブレンデルにゆずるまで、その編集者だった。執筆者との連絡、校正にいたるまでひきうけ、社説、批評、論文の大半を一人で書いた。

一八三〇年代のはじめにライプツィヒを支配していた〈ライプツィヒ音楽公報〉は、当時シューマンを無視していた編集長を辞職させ、〈音楽新報〉の定期的寄稿者をあたらしい編集者として、一八四一年に再出発した。全面的な勝利。ドイツの音楽ジャーナリズムは、シューマンの設定した路線にしたがい、〈音楽新報〉は現在もまだつづいている。

シューマン自身も、雑誌編集と批評を書いていたために、ヨーロッパ音楽の動向を知り、ドイツのいなかに住みながら、国際的な視野をもつことができた。一八三〇年代にかれが作曲したピアノ曲の個性的な書法、幻想、構成のよわさと普通見なされる規格への反逆は、外部への関心と一体になっていた。批評を手ばなした後、バランスは古典的な基準、自閉症に傾き、想像力や個性のように内的と見なされる特性や機能さえうしなわれていく。外と対立することだけが、個の確立をささえていた。

シューマンの確立した音楽ジャーナリズムの路線は正しかった。音楽市場が拡大し、個々の作品を出版社の利益のために弁護する御用批評ではなく、選択の基準がもとめられていた時代に、シューマンはそれを芸術運動の方向として提出した。

同時に、芸術家の地位は、批評家やその他の創造しない者の立場と切りはなされ、雲の上にひきあげられた。創造者の正義と不偏不党性の立場から、一面的でウソつきの批評家を教え導くために、ことばを通じて影響をあたえる機関が雑誌だ。俗物とたたかう天才の論理だ。これはロマン主義の発見した芸術家の役割であり、それ以後、だれも近づくことのできない創造の秘密の高みから火種をもちかえった芸術家は、批評家の無理解とたたかい、最終的には勝利にいたる、というのが芸術史の基本的な図式になった。

芸術家を主体とし、批評家を敵と同伴者に分類して、硬化し、反動化した支配的な美学とたたかう、少数派の芸術運動が、市場の予備軍から主力に転化する過程を通じて、市場の弾力的な成長を保証してきた。これが近代の芸術史だった。


シューマンは、ドイツのいなかで、一八三〇年を過渡期としてとらえた。何から何への過渡期か?

ドイツの場合は、歴史が結論をだしてしまった。三十八の小国に分れ、近代化がおくれていたドイツのブルジョワが、フランスから政治的刺戟をうけて、封建的拘束からの自由をもとめ、自らの反動化を代償としてそれをかちとる過程が、一八三〇年にはじまる時期だった。国際主義の視点は、ドイツの都市の間の連帯とフランスの市民意識への共感を意味した。フランスをモデルとしたドイツ統一への運動が、最も反動的な小国プロシャを中心とした上からの統一にすりかえられた時期には、国際主義のかわりに民族性が強調されるようになった。

シューマンが活動をはじめた時は、何を肯定し、だれを敵とするかは、はっきりしていた。一方に外部への関心、国際主義、個の確立、進歩があり、他方には内部への逃避、民族性、運命共同体への回帰、反動があった。内部が古い共同体を意味し、外部が個を意味するのは、ロマン主義が個を対象化したからだ。批評も、批評する主体が作品にふれて対象化されることと、作品自体もそこで対象化されるという、二重の対象化の場で成立していた。状況が見えていたから、芸術運動も可能であり、少数派の機関誌は文化戦線の前衛となることができた。芸術の革命は、革命の芸術をつくった。

一八四九年以降は、対立項は変った。国際主義は政治的な目標をうしない、経済的・文化的な意味に限定された。文化の中心地で決定された美学を全ヨーロッパに流通させる国際的な市場が成立していた。個の確立は内向し、ヴァーグナーやブラームスのような反動的な天才があらわれて、芸術の技術だけを改革した。技術の革新は、ここでは規格化とむすびつく。それはあたらしい型の提出にすぎなかった。それをおこなった天才は、俗物の徹底化であり、内部に逃避して形成された個性は、表面的に表現された。芸術は根のない花だった。

一八四〇年代のシューマンは、この全体的変化のなかで、少数派から主流になり、創造の原動力であった批評をすてて一面化し、遠くまで見とおせる芸術家の視点の優位を絶対化して芸術を社会につなぎとめていた民衆的・具体的表現をはなれ、抽象的な個の表現にふけり、それを古典的な規範と考えることにならされていった。シンフォニーや弦楽四重奏曲や協奏曲のような既成の型のなかに、新鮮だった感性を押しこめ、歌曲の私的な表現におぼれ、結局身をもってこの反動化が芸術にもたらした現実感覚のにぶさ、不毛を証明した。非日常的な世界を構築し、そのなかにとじこもって技術をみがき、普遍的な美を追及する芸術家の立場が、芸術を一部の階級のもてあそぶ魔法のオモチャに変えてしまったことに対して、一八五四年の最終的な狂気の発作にいたるシューマンの衰弱は、この変化についていけなかった者の、十数年をかけた芸術的自殺、人格的消滅だ。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




本棚にもどるトップページにもどる