『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    批評家の誕生


一八三一年五月二十四日、シューマンは日記に一行書いた。「夕方『ドン・ジョヴァンニ』!」

五月二十七日、「ショパンの変奏曲を批評すること。」

この曲は、一八二七年の作品二『ドン・ジョヴァンニのラ・チ・ダレム・ラ・マノによるピアノとオーケストラのための変奏曲』を意味する。

シューマンは、この時ライプツィヒでピアノを勉強していた。作品一『ABEGGの名による変奏曲』と、作品二『パピヨン』は作曲されていた。

六月六日夕方、ピアノの師ヴィークのところで家庭音楽会がひらかれ、当時流行のヘルツのハデな技術を見せびらかす変奏曲や、即興演奏に加えて、ショパンの変奏曲は二度演奏された。(これはピアノ独奏版だろうか?)シューマンは真夜中近くに帰宅する。

六月七日、友だちと飲みながら哲学論をたたかわせ、そのあと将来をおもって、不安にかられる。死の幻想にとりつかれる。

六月八日、ヴィークとその娘クララをおもい、ロマンティックでいくらかパガニニ的だと感じる。「今は感じるものをことばにする方がうまくいく。以前はその逆だった。」また、「今日から友人たちに、うつくしくピッタリした名をあたえよう。きみたちをこれから次のように名づける、ヴィークをラロ先生、クララをツィリア、クリステルをカリタス、リューエを管理人ユヴェナリウス、ドルンを音楽監督、ゼメルをユスティティアル・アプレヘル、グロックを昔の医学のミューズ、レンツをストゥディオスス・ヴァリナス、ラッシャーを学生フスト、プロプストを音楽長、フレヒジヒを若者エコマイン――
 六人の友人は単シラブル、五人は二シラブル。
 では、こちらへおいで、ロマンティックにふるまってくれ!」

ここにラテン名が多いのは、当時の学生、特にシューマンのような以前の法律学生にはあたりまえの感覚だった。

六月十五日、「途中で『神童たち』をおもいついた。性格や人物にはことかかないが、とりあつかいとプロットはどうしよう。パガニニはツィリアにふしぎな影響をあたえる。狂言まわしは即興役者のフロレスタン、別名でパガニニ、ヴィーク、クララ(ツィリア)、機械技師の模範フンメル、音楽教師ファラルハーバーとその子マラとアマデウス、ゼラフィネ、パガニニ夫人。特に、終りはイタリーでなければならない。はじまりはドイツだ。おもしろいのはミラノか。……」

六月十九日、「ショパンにふける。――ロベルト君、おねがいだ――やっと何かしっかりしたものになる。」

七月一日、ショパンを八時間練習する。
「まったくあたらしい人物が、今日から日記に登場する――まだ見ぬ、二人の親友、フロレスタンとオイゼビウス。
 ヘルツの作品三十七をはじめてきいたあとで、フロレスタンは言った、かわいらしく、スイス風で、あたらしい。何回かきくと、それは売春婦のキスにすぎない。
 オイゼビウスは主張した。ショパンは飛躍だ。
 二人はぼくの評論を出版するように、はげましてくれた。ああ、そうできたら。」

ここで、ダビデ同盟員の名はすべて登場した。これらの名にかくれて、シューマンはあたらしい音楽のための、批評によるたたかいをはじめるはずだ。そのダビデ同盟の主役、フロレスタンとオイゼビウスは最後にあらわれる。

これは初期ロマン主義の小説家ジャン・パウル・リヒターの影響だ。シューマンのライプツィヒ大学時代の学友エミール・フレヒジヒ(若者エコマイン)は、シューマンをおもいだして書いた。かれは特にジャン・パウルをたくさん読み、「残念なことに、かれ自身の書いたもののなかでもマネをしすぎた――一日数時間、そうやって書く練習をしていた。」

一八二七年十二月一日の日記に、シューマンはこう書いた。「全作品で、ジャン・パウルはいつも二つの人格のなかにかれ自身を反映する。かれはアルビノとショッペ、ジーベンケースとライプゲーバー、フルトとヴァルト、グスタフとフェンク、フラミンとヴィクトルだ。ただジャン・パウル一人のなかに、二人のこんなにちがう性格が結合されうる。それは超人的だ。かれこそ超人だ――極端とは言わないまでも、いつもきびしい対立を、作品とかれ自身のなかで一つにする――しかもかれだけがそうなのだ。」

ロマン主義は、封建制度や絶対王制のくびきから解放された自由な活動をもとめるブルジョワの意識を表現して、全世界とも対抗できる個人の内部世界に眼を向け、そのためにおたがいの鏡となって照らしあう二重人格の方法によって、自己を対象化した。

二重人格化は作品上だけでなく、生活のなかでもおこなわれた。シューマンの場合には、これ以後フロレスタンとオイゼビウスが、音楽作品や評論だけでなく、日記のなかにもあらわれる。生活は、この二人の対話のなかですぎていったにちがいない。かれ自身だけではない。友だちにあうたびに、たとえば実在のクララはダビデ同盟のツィリアとなり、そこでかわされる会話は二重のものだった。生活はそのまま仮面舞踏会だった。個人の解放をもとめるドイツの知識人は、生活でさえもその表現として、このように幻想と二重化して、この時代を生きのびた。仮面舞踏会は、仮面による解放、まだ現実をおおっている闇のなかでの自由だった。一八三〇年代のドイツで、この方法は革命的な側面を見せていた。

実際にブルジョワ階級が自由を手にした瞬間、この方法の反動的な側面が表面にあらわれるだろう。仮面は、自由の幻想の下での現実支配の道具でしかなくなるだろう。大衆の支持によって権力を獲得した瞬間に裏切るのが、ブルジョワ階級の歴史的な二重性であり、決定的勝利の瞬間に、二重化された意識は、その対立運動から個人の統一性のイメージを確立するかわりに、意識の分裂による文化の解体への道に踏みこむ。日常と非日常の対立が、何か普遍的なもののようにかんがえられ、時空をこえて、全人類史、あらゆる文化に拡大される。ヴァーグナーがバイロイトにつくりあげた壮大な祝祭空間は、古代ゲルマン神話や中世の伝説のなかに、現世の秩序と聖なる愛の対立にひきさかれた意識という、ブルジョワ的な主題をもちこみ、死によってすべてを解決する儀式を演出していた。このヴァーグナーの場合は、以後の芸術だけでなく、社会科学にもはいりこんでくる反動思想の基本的特徴をすべて含んでいる。ブルジョワ階級は、進歩と反動の役を同時に演じるその歴史的二重性を、かれらの原理をになう基本的主体である自立した個人意識の上にひきうけ、永続する日常の世界と、それをこえる非日常的な瞬間との対立のなかでの、意識の分裂の悲劇と理解する。個人意識を文化概念に投影したものが、世俗の秩序の支配が聖なる瞬間の出現によって一時的に停止される祝祭空間だ。それは聖なるもののにない手の死によって終らなければならない。聖なるものの支配は、一時的な幻想であり、現実の秩序は、悲劇のカタルシスによって危険な聖なるものへの情念が消滅したあと、かえって強化される。

聖なるもののにない手は、あの特別な瞬間に殺されるためにえらばれるだけでなく、世俗の秩序の支配する日常の世界では、最も価値をもたないものとして、差別をうける。個人意識を世界史に投影し、あらゆる社会の文化をそのせまい視点からしか見ることのできないこの思想の中で、聖なるものの概念は、日常生活のなかでの差別を合理化しているにすぎない。ヴァーグナーの祝祭は、トリスタンの死によってではなく、アウシュヴィッツで完結する。

シューマンにとって、一八三一年七月から九月にいたる日々は、決定的な日々だった。毎日ショパンの変奏曲を何時間も練習し、それについて友人たちと話し、それについてかんがえる。かれの生活は、あらゆる面でショパンの変奏曲に集中していた。それについての文章は九月に完成し、十二月にはライプツィヒの〈音楽公報〉に送られ、シューマンは批評家として出発したが、この集中によってシューマンが得たのは、それだけではない。

一篇の批評だけではなく、それを書く方法も、ショパンのなかからあらわれてきた。フロレスタンの激情、オイゼビウスの瞑想、ラロ先生の判断を三つの軸とする、ダビデ同盟員の仮面舞踏会として、音楽をことばに反映させて評論を書き、ことばを音に変えて音楽作品をつくる、という文学と音楽の合わせ鏡が、シューマンの批評家として、作曲家としての自覚を可能にした。

一八三一年七月十七日、「ツィリアは毎日六時頃来る。
 ショパンについては、他のすべて同様、やはりうまくいった。しかし、指示しようとおもっている理念には、そうすぐに達することができない。ツィリアは、それを子供っぽく、やたらにハデにひく。いくつかのことを、かの女からはじめてきいた。
 オイゼビウスは言った。ドン・ファン、ツェルリーナ、レポレロ、マゼットが変奏曲の登場人物だろう。第一変奏曲は上品で、コケットで、はなやかだ。第二変奏曲はもうおなじみになり、ケンカ好きで、コッケイで、二人の恋人がオニごっこをしながらわらっている。第三変奏曲は月光の下、マゼットは遠くにいるが、また逃げていった。ドン・ファンはひざまずく。第四変奏曲では軽はずみに、大胆に、かの女は男のところにゆく。アダージョはなぐさめるように、いたずらっぽく、道徳的に警告を発し、クラリネットとオーボエがゆたかにわき上る。休止は純真な音の転落だろう。最後の音楽はドン・ファンの終曲だ。シャンペンの栓をぬく音、酒ビンのひびき、そのなかでレポレロの声、それから亡霊たちがあらわれ、つかまえようとせまり、おもい切った終止は、しずまり、曲をとじる。ここは、スイスで夕やけが、雪におおわれた峰まで赤やバラ色にして登ってゆき、ひらひらと飛び去り、ゆめから覚めたように、冷たい死の巨人が立っているまでの印象とくらべられると感じた、とかれは言った。何と主観的な、と私は言った。これはショパンが意図したこととほとんど関係ないことばかりだろうが、その天才、たしかな努力、勤勉さ、幻想には頭がさがるよ。」

ここでの変奏曲の描写は、完成した評論のなかに、拡大されたかたちでつかわれている。オイゼビウスのかわりにフロレスタンが言うことになっているが。「私」とはユリウスのことだ。

完成した論文の全体がどんなものであったかは、だれも知らない。一八三一年九月、シューマンは〈ライプツィヒ音楽公報〉の編集者ゴットフリート・ヴィルヘルム・フィンクにてがみを書いた。「おそらく手がまわらないほどの執筆の苦役を軽くするために若い協力者をもつことに関心をもたれるようでしたら、よろこんでおてつだいします。同封のものにつづいて、似たようなチェチリアーナの長いシリーズもできますが、この文章は最近の天才的作品の第一印象を再現しようとするにすぎないので、これ以後の理論的にはもっとくわしい文章はこれによって推定なさらないように。」

ここに同封された「チェチリアーナ」第一作が、「作品二」と題する、ショパンの変奏曲についての評論だった。チエチリアーナは「チェチリアのもの」を意味する。チェチリアは音楽を守る聖女であり、クララのダビデ同盟員名ツィリアもチェチリアとおなじことだ。

フィンクは、知らない若者からのてがみには、返事もださなかった。シューマンは、十月になって、評論を出版しないなら、原稿をかえせと、フィンクに書いた。フィンクは、原稿の半分だけを十二月七日号に掲載し、残り半分を著者に送りかえした。印刷されなかった部分は、おそらく紛失してしまったのだろう。その後、シューマンはウィーンの〈音楽公報〉に評論全体を掲載させようと交渉したが、失敗した。

残っている部分は、こうだ。オイゼビウスがへやにはいってくる。楽譜を見せて、かれは言う。「諸君、脱帽、天才だ!」楽譜からは、花々のバジリスクの、クジャクの、少女らの、ふしぎなまなざしが、じっと見つめている(ここは、E・T・Aホフマン風だ。)オイゼビウスがピアノでそれをひきだし、フロレスタンと書き手ユリウスは、たちまち興奮のうずにまきこまれる。ワインと会話と音楽。三人はラロ先生の家におしかけるが、老先生はあまり関心をしめさない。深夜、ソファによこたわったフロレスタンの、まだ興奮さめやらずに語るひとりごとで、変奏曲の場面がひとつずつ描写され、前に引用したユリウスのことばでしめくくられる。

この評論は、一晩の学生たちのバカさわぎであり、序、主要部分、回想という音楽的構成をもっている。ただし、主要部分は文章の上ではかんたんにかたづけられている。この構成は、シューマンの最初の作品、つまりかれ自身の作品二『パピヨン』とおなじだ。

パピヨンとは何か? シューマンは、このことばに多くの意味をこめていた。作品二はパピヨン・ミュジカルとよばれ、作品一『ABEGG変奏曲』(一八三〇年)はパピヨンと称され、作品四『間奏曲』(一八三二年)は大規模なパピヨン、作品五『クララ・ヴィークの主題による即興曲』(一八三三年)は第二のパピヨンだった。作品九『カーニバル』(一八三四―三五)の第十曲は『パピヨン』と題されている。パピヨンはもちろんフランス語でチョウであり、チョウはサナギから成長し、はなやかに飛びまわる。舞踏会をわたりあるくことが、パピヨン、あるいは飛びまわるカード(fliegende Zettelchen)と言われ、カードはここでは舞踏会への招待状をさす。サナギはドイツ語でLarveだが、このことばは仮面も意味する。Larventanz(サナギの踊り)は、仮面舞踏会のことを言う。

レルシュタープの詩の一節、「仮面舞踏会にいったら、そこでパピヨンが舞っていた。」

シューマンの作品二『パピヨン』(一八二九―三一年)は、ジャン・パウルの小説『なまいきざかり』のなかでフルト・ハーニッシュの登場する仮面舞踏会の章の音楽化だと言われる。最後にフルトは、「笛をとり、吹きながらへやから出、階段をおり、家から出、道を遠ざかっていった。ヴァルトは消えていく音がかれに語りかけるのをたのしんでいた。かれの兄がそれもろともに消滅してしまうとは、ゆめにもかんがえなかったのだ。」

『パピヨン』の最終部分は、夜中の十二時の鐘がなり、人々が立ち去り、最後に一つの和音がゆっくりと下の方から消滅していく。アルプスの夕やけが雪山をはいのぼり、峰の上に消え去り(チョウのようにひらひらと飛び去るのだ)、というショパンの作品二の最終和音の描写は、まさにシューマン自身の作品二の最終和音とおなじ種類のものだ。


シューマンは、この評論について、音楽の第一印象を再現するものだと、説明しているし、その対象のよびさます印象に似たものをあたえる文章が、批評としては最高だと、別なところで書いている。これは、シューマンのフロレスタン的側面をしめすとすれば、オイゼビウス的側面は、アフォリズムのかたちで、ラロ的側面は、技術的分析として、批評活動に生かされた。音楽の印象を文章で再現しようとするこころみは、仮面舞踏会の概念とむすびついていて、最初期にあらわれ、シューマンが職業批評家としていそがしくなるとともに、姿を消していく。アフィリズムは、引用されることのできる短い文章であり、引用は、シューマンの音楽の重要な特徴だった。技術的分析と計画的構成は、フロレスタンの激情と、引用されるさまざまな短いフレーズを一つの統一体につくりあげる力としてはたらいた。

「作品二」でつかわれた「音楽の印象を再現する批評」の方法は、いわゆる印象批評のように見えるが、まったくちがうものだ。ライプツィヒの〈音楽公報〉の読者は、こんなスタイルの評論を読んだことは一度もなかったろうが、それはいま読んでも異常だとしかおもえない。キザな文章は、当時流行の三文小説のスタイルときめてかかるとしても、具体的な分析のかわりに、熱にうかされたような道化しばいの情景描写を、まともな音楽批評の方法とはかんがえられず、文章のなかのフロレスタンのように、第一印象の興奮のさめないうちに書きなぐったものだと、推定するのがふつうだろう。しかし、これは日本の批評家がモーツァルトの音楽や、ブリューゲルの絵をダシに、自分の無意味な生活と意見を売りつけようとして書く「評論」とはちがう。文章のなかのフロレスタンが、オイゼビウスのもってきたショパンの作品との偶然の出会いに打たれるのとちがって、シューマンのショパンとの「出会い」は計画的犯罪に近い。シューマン自身の作品二は、すでに書かれていた。その音楽的構成を文章の形式に移し、ショパンの作品二を対象として、ショパンの変奏曲の主題であるモーツァルトのオペラを文章で変奏して見せる。しかし、ショパンもモーツァルトも、仮面にすぎない。最後の和音で、この文章とシューマン自身の作品二、それにショパンの作品二は一致点に達する。そこで真の主題があらわれる。ジャン・パウルが小説に描いた仮面舞踏会がそれだ。それこそ、シューマンが当時の数年間、音楽で、文章で、また生活で追求した思想だった。自由の幻想はチョウのように飛び去り、闇につつまれた現実が立っている。それは一八三〇年フランスの七月革命への、ドイツの知識人のおもいを反映する。かれらは変革へのおもいを、個人的幻想のかたちでひきうけた。

七月二日、「さて、これは偶然か、ぼくの守護神が救ってくれることになるのか。しかし事実は、昨日はじめてヴィークのつれてきたかの女と正式に会った時、ぼくは鏡の前にとんでいって、カラーがバカみたいにまがっているのを見つけた。昨夜はそんな風にすぎた。二人ともはにかんでいた。かの女をそばにこさせようとした。しかし、ぼくは今朝は例の……にいた。
 ショパンのなかでのドン・ファンの愛の告白。そこにかの女がはいってくる。ただし、ライプツィヒ風、流行の衣装だ。
 なぜリューエの家にいそぎ、それからローゼンタールの店、ゴーリスへいったか、わからない。ぶらぶらあるいた。ぼくの前をゆく女をつれたふとった男。女がジロリと見た。ロルニェットをかけようかとおもった。かわいそうに、よく見えないぼくの眼! ヘンリエッテだとおもう。花のハイデルベルクのかの女に似ている! 自然、会話、内気さ――結局きみを愛しているのではなく、空想しているだけだ。それでも守護神は、ぼくをかの女の方にひきずってゆく。たすけて、たすけてくれ。」

七月六日、「イェッチエン、イェッチエン、どこにいる? ラロ先生は気がついたかな? シッ――」

ヘンリエッテ・ヴィークは、ヴィークの親類の娘だった。その名前が、ハイデルベルク大学の法律学生だった頃、仮面舞踏会に出没していたヘンリエッテ・ホフマイスターをおもいださせる。ドン・ファンは純真ないなか娘ツェルリーナを誘惑する。シューマンの生活は、終りのない仮面舞踏会となり、そのなかでかれはショパンの変奏曲を演出していた。

シューマンの計画は、評論「作品二」と、自分のピアノ曲「作品二」と同時に出版することだったにちがいない。七月のあの日々は、シューマンが仮面舞踏会(Larventanz)を無自覚にひらひらととびあるく紙片(パピヨン)であるかわりに、仮面舞踏会を方法として、芸術家に生まれかかわる時期だった。サナギ(Larve)は、チョウ(パピヨン)になりつつあることを自覚していた。この方法の確立によって、かれは時代をひきうけた。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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